間章 そしてすべての終わりを告げる
都合のいいばかりの人生なんて、そんなのはありえないものだったんだ。
勿論僕は、知っているはずだった。知っているつもりでいた。
けれど『弱っていた』。
ただそれだけのことで、あの時の僕は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだろう。
甘い言葉は、罠への誘惑だった。
罠は闇への誘いだった。
そして、闇は崩壊への道しるべだった。
それを知っていながらもなお交わしてしまった契約は、僕自身を崩壊させていった。
後に残ったのは、すべて苛まれるだけの人生だった。
…*…
僕は夢を見ていた。
そこは真っ暗な町の中で、ちょうど今と同じ秋の暮れ始めた頃。
夜だからか誰もそこにはいなくて、僕はあてもなくふらふらと歩き続けていたんだ。
ずっとずっと、歩き続けたんだ。
しばらくすると、僕はある人に出会った。
僕はただお話がしたくて、笑顔で話しかけたんだ。
「こんばんは。今日は天気がいいですね」って。
でも、その人は怖い物でも見たのか、僕の前からすぐに逃げて行ってしまったのだ。
だから僕は追いかけた。
「待ってください、お話をしましょう」って。
けれどその人は待ってくれるどころか、どんどん先へと行ってしまう。
腹がたった僕は、こうなるといつも、手にしていた物を振りまわした。
そうすると、そこには求めていた温もりが現れてくる。
それが解っていたからだ。
今日もしばらくすると、それはやってきた。
真っ赤な真っ赤な、流れたての血。
人の肌とよく似た温もりが、僕の両手の中に広がってくる。
それはとても温かくて、とても優しかった。
僕はそれだけで嬉しかった。
けれどそこには、一つだけ不満があるのも事実。
やっと僕を包み込んでくれたヒトは、誰一人として笑ってくれることはないのだ。
みんなみんな、どこか虚ろな表情をしている。
それにみんな、動かなくなる。
どんどんどんどん、冷たくなっていく。
僕は冷たいのが嫌いだった。
温かくなきゃ。
そう思っていたんだ。
だからそのヒトがつめたくなると、今日も僕は「さようなら」を言う。
また明日会いましょう。
たったそれだけを約束して、僕はそこから立ち去るんだ。
そして家に帰ると、僕はいつも、その夢から覚めるのだ。
「あ、……ああぁっ……」
真っ赤に血塗られた服が肌にべっとりと張り付き、嫌な感触を与えてきた。
震える眼で両手を見やれば、そこにもぬるぬるとした鮮血で血塗られている。
全身血まみれの姿。
鉄臭い不快な臭い。
『今日も僕は過ちを犯してしまった』
頭の中に、ただそれだけの事実が浮かび上がってくる。
「ぅああああぁぁぁぁぁ――!!」
絶叫した。それしか僕には、方法が解らなかった。
いつも知らないうちに意識が途切れ、気がついた時には血にまみれた姿になっている。また、それは日増しにエスカレートしているようで、浴びている血はますます多くなっているのだ。それがたまらなく怖かった。
けれど血まみれになっているということは、これをやっているのは、まぎれもなく僕だということだろう。
頭を抱えて、いつも震えながら僕はそのことに涙を流す。
たとえ僕を操っている奴がいるのだとしても、やっているのは僕なんだ。僕自身なんだ!
ぐっと目を瞑り、唇を噛み締め、責めて責めて、僕は自分を追い込んだ。
それくらいはされて、当然だと思っていた。むしろそれだけでは済まされないだろう。
だからすべてを終わりにしようと、僕は腰に差していた短剣を抜いた。抜刀した刃は僕と同じ、赤い血にまみれており、そこでまたしても後悔がこみ上げてくる。
この短剣で、一体どれほどの人の命を奪ってきたのだろう。
この短剣は、一体どれほどの悲しみを吸収しているんだろう。
けれど操られている人間が死ねば、これ以上の被害を出さなくて済む。
ここで終わりにすれば、もうこんなことは起きなくて済むんだ。
ただその一心で、僕は息をのむと自分の左胸に短剣を突き立てた。……突き立てようとしたんだ。
しかしそれを、操り主が許してくれない。
両親を亡くして悲しみに暮れていた僕を救いあげたように、彼は死のうとする僕の命さえ救い上げてくれるのだ。
「うぅ……ッ」
僕は無駄だと解っていても、何回も何回も左胸をひっ掻くようにして短剣を突き立てた。その度に傷はできるものの、致命的な物へはなりやしない。
それが解ると、僕はむせび泣いた。
罪もない人を殺めてしまったことに。
そして、こんな自分が生きているということに。
夜が明けるまで、僕は泣き通した。
…*…
その日もまた、僕は夢を見ていた。
そこは深い森の中で、頭上には綺麗なまあるいお月様が輝いている。木々は風に揺れさわさわと囁き合っており、そして森の住人はすっかり寝静まっているようだった。
そんな中を、僕はリリアスと歩いている。
最近彼女と会う機会がなかったから、僕は思った以上に胸が弾んでいた。
今までの嫌なことなんか全部なくなっていくような、そんな気さえしていたのだ。
むしろ今までのことなんて全部悪夢だったんじゃないかって思えてしかたない。
ともかく、それくらい僕は嬉しかった。
リリアスと一緒にいられる。それだけで十分だった。
僕たちは色んなことを話しながら、どんどん歩いていった。つい数年前に現れた空島は、今日も悠々と空に浮かんでいる。
確かに冬が訪れていたから寒かったけれど、それさえも元気の源になるような気がしていた。
さくさくと白い雪を踏みしめ、新雪には新しい足跡をつけてゆく。
しばらくすると開けた場所に出て、僕はそこで天を仰いだ。
そこには幾億の星が瞬きあっており、それに彩られた夜闇はきれいとしか言いようがなかった。
冬の空気は澄み渡っていて、星もいっそう輝いている。
「空、きれいだね」
だから安易だけど、そんな言葉しか出てこなかった。
「そうだね。ずっとずーっと、こうして見ていたいよね」
けれどリリアスがそう言ってきてくれると、そんな安易な言葉でも言ってよかったって思えた。本当に、心が安らかだった。
僕はにこにこと微笑むと、リリアスと一緒になって空を見上げる。
でもそれを、あいつは許してくれなかったのだ。
僕の心は次第に荒れてゆき、帯刀していた短剣へと手が伸びていく。
そんなこと、したくない。
本心ではそう願っていても、あいつに操られている時の僕は無力だった。
金属のこすれ合う細やかな音を立てると、短剣は呆気なくその刀身を表してしまう。
やめて、それだけは。お願いだから!
他の人の時には閉ざされていた心が、必死になって悲鳴を上げた。
あの悪魔に、懇願していたのだ。
しかしその行為は、一行に止まる様子もない。
嫌だ。やめて。と心が叫ぶ。
これ以上誰かを殺したくない。
リリアスを、絶対に殺したくなんかない。
悲しくて、せつなくて、遣る瀬無くて、どうしようもなくて、ぐちゃぐちゃになった思いで叫び声を上げる。
「――ッ」
けれどあいつは裏切った。
短剣を握る僕の手は迷うことなくリリアスの元へと飛んで行き、その切っ先で彼女を斬り裂こうとしている。
もう、終りだ。
諦めにも似た感情が、心の中を埋め尽くした。
きっと今日の夢は、最悪な形で覚めるのだろう。
リリアス……最後まで、ごめんね。
足元にある雪が赤く染まる前に、それだけは言っておこうと思った。
だが、唐突に夢の終わりは訪れた。
辺りは一面、目も開けられないような真っ白な光に包みこまれていたのである。それはやけに温かく、美しく、そして優しい光。
僕はすぐに目を閉じたけど、でも、この光に包まれていれば大丈夫なような気がした。
今まで僕を操り、蝕んでいたあいつから解放される。
そんな気がしてならなかったのだ。それも、確信とも言えるほどに。
だから僕は、この光に身を投じることにした。
その後はもう何が起こっても構わない。きっと僕は、今までのような過ちから解放されるだろうから……。
目を瞑り、身体から力を抜き、呼吸を楽にする。
「アルベルト――ッ!!」
光の中、最後に聞こえたのは僕の名前を叫ぶリリアスの声だった。
短剣がするっと、手中から離れていく。