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六章 あなたは誰を愛してる

「はーい、お疲れ様でした」

 受け取った議案書を机の上で整えると、セフィアはお気楽そうな声を上げた。

 本来ならば夕暮れ時というのもあるのだろうが、昨日に引き続き大雪を降らせている雲が鎮座しているために、職員室内は人工的な明かりが皓皓と灯されている。またティアナの言うとおりテスト期間の二週間前に入ったためか、普段はサークル活動でいないような先生の姿も窺えた。

 そのせいもあるのか、はたまたテスト製作や既に提出された課題の採点に追い込まれているせいなのか、職員室はどこか息苦しいような雰囲気に包み込まれている。

 エリヴィアのように先生の元へ訪れていた生徒が一人、用事を済ませて帰ってゆくのが確認できた。

 きれいに整えられた議案書を参考書類の上に置くと、セフィアはくるっと顔を向けてくる。

「ごめんねぇ。これだけまとめるの、大変だったでしょ?」

 まるで悪びれた様子もなくそう言ってくる担任の姿にエリヴィアは「はぁ……」と頷くも、思わず苦笑を浮かべてしまった。

 重要書類を渡すのを三日も忘れていたというのに、今更何を言うか……。

 楽天的といえば楽天的であるが、責任感がないといえば責任感がない。教師という以前に、大人としてのモラルが欠落していると言わざるをえないだろう。だがセフィアにだって他にもいっぱい良い所があるということを知っていたため、どうしても強く言うことができないでいるのも事実だった。

「そうですね。今度からはすぐに渡してくれると助かります」

「あはは。努力するよ、クラス委員さま」

 エリヴィアがせめてもの抵抗だとばかりにそう言うと、担任はそれを軽く受け流した。相変わらずのセフィア節といったところか。

 だがお気楽な担任とは反して、本来ならば許されるべきことじゃないのだということを少しでも理解してほしいとエリヴィアは悩みあぐねていた。勿論、セフィアにかかればそれすらスルーしてしまいそうなのは解りきっていたのだが。

 ひっきりなしに聞こえる足音が、すぐ近くを通っていった。ちらちらと瞬いた灯りのせいで、すべての光景が僅かに揺れ動く。

 聞こえてくる数多あまたの話声はぐちゃぐちゃに混じり合っており、それらは既に音と単語の羅列と化していた。

 楽しそうな笑い声が、深刻そうな唸り声が、そこかしこで湧き上がっている。

「そういえば、アルベルト君はクラスに馴染んできたかな?」

 すると唐突にセフィアはそんな話を振ってきたのだ。ほんの少しだけぼんやりしていたエリヴィアは、「へ?」と戸惑いの声を上げる。

 しかしその声は聞こえていなかったのだろう。セフィアは椅子の背に寄りかかると、赤い髪の毛を指でいじくった。背もたれがギィっと軋んだ音を立てている。

「やっぱりさぁ、聞きにくいんだよね。本人には。それに聞かれたとしても、編入してきたばかりだし。どこか遠慮しちゃう部分もあるでしょう?」

 すると髪をいじっていた手を滑らせるようにして頬に当てると、ほぅっと一息ついた。紅茶色の瞳がエリヴィアを悩ましげに一瞥いちべつする。

 とはいえ、確かにあのアルベルトのことだ。「大丈夫?」と聞かれれば、どんなに困難な場面であろうとも「大丈夫です」と笑顔で返すに決まっていよう。

 あまりに最もすぎる彼女の意見にエリヴィアが首肯すると、セフィアは続けた。

「だからエリヴィア。あなたに聞きたかったのよ。クラス委員ってことで学園案内も頼んじゃったし、それに最近のあなたたち、すごく仲が良さそうだったから」

 純粋無垢な笑顔を、くるっと向けてくる。

「そう……ですか」

 だが期待を胸に抱いているセフィアを前にすると、どうしても言葉に詰まってしまうのだった。

 アルベルトと仲が良い。

 一見すれば、エリヴィアたちの存在は周りからはそう見えているのだろう。いつも一緒にいて、楽しそうに会話もしていて、たまには困ったりもしていて――。それだけの要素があれば、誰だってそう思うに決まっている。しかし実際はどうなのだろうかと、エリヴィア自身解らないでいた。

 私たちはアルベルトのことを、本当に友達だと思っている。でも、当のアルベルトは……?

 ふと脳裏に、あの思い詰めた表情が蘇ってきた。最初の頃に見せていた辛そうな表情と、そして、あの頃とはまた違う隠しきれない憂いを持った今。

 アルベルトはいつもエリヴィアたちの存在に気づくと微笑んでくれていたし、何よりエリヴィアには抱えている悩みだって打ち明けてくれた。けれど最近は、その笑顔すらままならない。それどころか、そんな笑顔だからこそアルベルトとの距離を感じてしまい、悲しくて堪らなくなってくる。

 大きな悩みなんて、仲良くならないと打ち明けてくれないものだと思っていた。

 けれど距離を感じるということは、本当は仲良くなれてなんかいなかったっていうことなのだろうか。仲良くなったなんていうのは、ただの自惚れにすぎなかったのだろうか……。

 胸の中が空っぽになってしまったかのような、物足りなさ。形容しがたい虚無感だけが、胸の中で犇めき合っている。

 不安定に震える瞳を前に向ければ、相変わらず少女のように輝いた目をしている担任の姿が入ってきた。心が大きく揺れている。

「アルベルトは……」

 この期待を、壊してはいけない。

 そんな義務はないはずなのに、どうしてかそう思わずにはいられなかった。しかし、そう思う傍らでアルベルトへの想いに傷心している自分がいる。

 どうしたらいいんだろう。

 唇を一文字に引き締めると、エリヴィアはセフィアから視線をそらした。手のひらにはじっとりと汗が浮かびあがっていて、握りしめるとぬるっとした感触が嫌にはっきりと伝わってくる。気持ちが悪い。

「アルベルトは、とても良い子ですよ。勉強熱心ですし、礼儀正しいですし。それに、いつも笑顔なんです」

 だが口を開けば、そんな言葉ばかりがこぼれていった。

 私、何が言いたいんだろう。何でそんなことを言っているんだろう。

 ただの時間稼ぎのような時ばかりが、じわりじわりと過ぎてゆく。目の前にあるセフィアの表情はそれと共に輝きを増していて、それがさらに追い打ちをかけてきた。

 苦し紛れはよしなさいよ。

 心にいる自分が、そう罵っている。しかしそれは本当のことだった。いつまで逃げていても、絶対に真実を告げなければならない時は来る。

「――ですけど、アルベルトは人見知りが激しいんです。なので、まだ完全にクラスに馴染んでいるようではありません」

 一瞬、ドキリとするほどの沈黙が舞い降りてきた。

「そっか。でも、まだ一週間だもんね」

 だがセフィアはあからさまな落胆をするわけでもなく困ったように笑うと、ただそれだけを呟いたのだった。こういう時、やっぱりセフィアも大人なんだなとエリヴィアは強く感じる。

 いつもは生徒たちとさほど変わらないような立ち位置にいて、一緒に騒いだり笑ったりしていて……。けれど、こういった対応や強さを目にすると、近くにいるようで遠い存在なのかなと思ってしまった。子供は必死に隠そうとしても、どこかしらにその感情の一片が見えてしまうものだ。

 セフィアはもう一度「お疲れ様」と声をかけると、エリヴィアを見送ってくれた。職員室を出るとすっかり冷えた空気が身を包んでくる。どこまでも続いているような真っ暗な廊下にひたりと足音を響かせると、エリヴィアは早々に教室へと戻っていった。

 三階にある職員室から六階にある教室までを大急ぎで上ると、凍えた身体も少し温かくなってくる。エリヴィアは誰もいない教室の扉を開けると、置きっぱなしにしていた筆記具やプリント類を鞄の中へと急いでしまった――と。

「あら?」

 ひらりと、何かが軽やかに空を滑っていったのだ。

 プリントにしては厚く、やけに小さな一枚の紙。

 だが床に落ちたそれを手にした途端、エリヴィアは己の目を疑うことしかできなかったのだ。頭の中が、じわりと熱くなる。エリヴィアの手中に収められていた物、それはまさしく自分に宛てて書かれた手紙だったからだ。

 冬の荒れ狂った風が、カタカタと窓を叩いてゆく。

 それにしても誰がこんなものを書いたのだろう……。

 もっとも、エリヴィアにはそれが一番不思議で仕方がなかったのだ。セフィアの元へ行っていたとはいえ、席を離れたのはものの数分程度だ。ましてやとうの昔に授業は終わっており、すでに生徒は帰宅の途についている頃である。それなのに、どうしてこんな時間に手紙を置かれなければならないのかということが解らない。

 エリヴィアは白い封筒を裏表に反すと、そこに差出人の名前がないことを確認する。

 正直に訝しいとは思ったものの、しかしながらそれを無下むげに捨てるほどの残忍さも持ち合わせていなかった。

 とりあえず見てみるだけは。

 そう思い、ろうの塗ってある封を解くと、エリヴィアはおもむろに便箋を取り出す。そこには繊細な文字で『放課後に学園内にある礼拝堂にまで来てください。待っています』とだけ記されてあった。それ以外には何の記述もされてない。

 しかしこれが一体何を意味しているのか、ということはエリヴィアにもよく解っていた。つまるところ、呼び出しをされたのである。それも、誰かも解らない人物に。

まさか……告白?

 だがその考えをすぐさま一蹴すると、エリヴィアはぶんぶんと首を横に振った。

 バカバカッ、そんなことあるはずないじゃない! 何乙女になっちゃっているのよ、私ったら! だいたい今までに一度として、恋をした例があったっていうの?

 自分の恋への無関心さを確かめてから息を落ち着かせると、エリヴィアは真っ赤になった頬を冷ますように、もう一度、今度は小さく首を振った。とはいえ真っ先に告白を想像してしまうあたり、完全に恋に無関心になれているとは言い難いのかもしれない。

 もう一度冷静になって手紙を読むと、エリヴィアは乱れていた髪を手櫛で梳いた。それから短い息をつくと、手紙を封筒の中にしまう。

『どうしよう』

 ただそれだけの言葉が、エリヴィアの中を渦巻き続けた。

 窓を見つめれば、真っ暗な外の中を困った顔の自分が立ちつくしている。

 私は行くべきなのだろうか。

 それとも行かないべきなのだろうか。

 白い雪はその問いには何も答えてはくれず、ただ時間だけが刻々と過ぎていくばかりだった。


 真っ暗な廊下を歩いていくと、一つだけ明かりがもれている教室があった。

 暗がりの中にぼんやりと見える文字から音楽室ということを確認すると、やけにゆっくりとした動作で扉を開ける。そこにはいつもの面々が既におり、彼らは扉が開くと同時に振りかえると、嬉々とした表情で出迎えてくれた。

「エリィ、お仕事お疲れさま。ずいぶんと疲弊ひへいしきっているね」

 生気見えないよぉー、とつついてくるティアナに乾いた笑い声を上げると、エリヴィアはぐったりとした様子で鞄をおろした。

 結局教室を出て廊下を歩いている最中にも考え抜いたのだが、エリヴィアには手紙に対してどういった行動に出ればいいのかの正解が見えないでいたのだ。

 呼び出されている。この事実に間違いはない。

 宛名も確認した。自分であることは最早明白。

 呼び出された場所や時間。これだって記入されている。問題ない。

 じゃあ何が問題かといえば、やはり差出人が解らないという点、そして要件がまるで解らないという点に尽きるだろう。

 もっともエリヴィアとて、差出人の名前のない手紙にどのような事情があるかくらいは察することができた。単なる書き忘れという場合は実に少なく、その大半が意図的に――それも宛名に記した相手に対して、まだ自分の存在を知られたくないと思っているのである。

 しかしエリヴィアは、これでも一応の常識は持っている。さすがに誰とも知れない人からの呼び出しに、そう易々応じていいものかと迷う部分もあった。だからといって、せっかくの手紙を無視するのか? と考えれば、そこにも迷いが生じてしまい、それをエンドレスで繰り返し続けていたのである。

 とはいえいつまでも迷ってはいられない。本来ならばもう夕日も地平線の向こう側に沈むような頃合いの上、外は今年一番の寒さだ。もしも相手が本当に待っているというのならば、いつまでも待たせておくわけにはいかないだろう。

 それに相手を待たせて悩んでいるということは、すなわちここにいる友人たちをも待たせ煩わせることにしかならないのだ。

 ただの偽善者といえば偽善者かもしれない。もしくは優柔不断とでもいうのだろう。

 それでも、これがエリヴィアの出した答えだった。

 誰がいても、構わない。だから――、

「ごめんね。すぐ戻ってこられると思うから、またちょっとだけ抜けるね」

 身に起こった一連の過程を簡潔に説明すると、エリヴィアは両の手を合わせて懇願した。目の前では三者三様の驚き方をして立ち尽くしている。

「エリィ。もしかしてそれ……告白じゃない?」

 すると当初のエリヴィアのような発想をしたティアナが、半ば放心しながらもそう呟いてきた。

 だが数秒もすればことの大きさに気が付いてしまい、頬を紅潮させ緋色の瞳をめいっぱい輝かせながら、ティアナは自分のことのように嬉しがる。「やだぁ、エリィったら幸せ者!」と一人ではしゃぎだすと、それを男子二人にも同意させようとし始めたのだ。

 どうやら他人事だと思うと、妄想も膨らむらしい。

「それ、きっと告白だよ! それに放課後の礼拝堂だなんて……雪が降っていて曇っているのが残念だけど、それでもロマンチックぅ! うらやましいったらありゃしないわね、このモテモテさんが!」

 キャーキャーとピンク色の声をあげては飛び回っているティアナは、あまりの想像力についていけなくなっているエリヴィアをばしばしと叩いた。自重できなくなっているのか、思った以上に力が強くて痛い。

「ねえねえ、やっぱり基準は顔? それとも学科? それとさ、告白されたらおっけぃしちゃうのは当然だよね?」

「いや、その……」

「そうしたら、一番抜けはエリィになっちゃうんだね。あ、別に気にしなくてもいいよ。私たちは恋人いない同士で、それなりに春を探し続けるからさ」

「だから、まだ何も――」

「それにしても、とうとうエリィにも春が来たのかぁ……。そうだ、今度絶対紹介してよね。エリィの彼氏さん」

「………」

 既にエリヴィアが告白をされて且つ結ばれることは、ティアナの中では確定事項なのだろう。どんな人かな? というところまで妄想の手を伸ばすと、もうその人と会う予定まで立てている始末だ。

 もう、何も言わなくていいかな?

 一人でお祭り騒ぎを起こしているティアナにがっくりと肩を下げると、どうしたものかとエリヴィアは思考を巡らせた。とはいえこのまま黙っていれば、ティアナの妄想はさらに膨れ上がるだろうことは目に見えている。

 だからといって得策があるかと言われればそうでもなく、しょうがないとばかりにティアナの背後にいる男子へと助けの視線を飛ばした。

 誰かが止めてくれれば、少しはティアナの暴走も止まるだろう。そう踏んでいたからだ。

 しかし、女がこれなら男はあれと言うべきか。

「こ、こいつに告白ぅ? は、何それ?」

 こちらはありえない物を目撃してしまったとばかりにあんぐりと口を開けては、見る間に顔色を悪くしているグレインがいた。わなわなと震えた唇で「世界の終りが訪れた」とだけ告げると、目元に手の甲を押しやったままクラッと数歩下がってゆく。

 アルベルトに支えてもらってまで悲劇のヒロインの真似をしているグレインを見ると、エリヴィアのこめかみがぴくりと動いた。

 まあ、実に演技派なこと。

「だいたいエリヴィアを好きになるだなんて、なんつうもの好きだよ!?」

 だがエリヴィアの心中など露知らず、か。グレインはしおれていた上体をガバッと飛び起こすと、今度はいきなり叫び始めたのだ。今まで手にしていた短剣が、カランと小さな音を立てては床の上へと落ちてゆく。

 後ろで支えていたアルベルトはグレインの豹変っぷりに驚くと、パッと両手を胸の前で上げた。

 それにしてもグレインってば……私に喧嘩でも売っている気なの?

「へぇ。私のことを好きになる人って、そんなにもの好きなんだ」

 凄んだ目つきで睨めつけると、グレインは大仰に後ずさりながら震える指でびしぃっとエリヴィアを指した。

「ああっ、当たり前だろう! おまえなぁ、いかに自分がしつこいくて意地っ張りなのか、もう一度その頭で考えてみろ!」

「ちょっと! そこは努力家とかって言えないわけ?」

「よーし、意地っ張りは認めたな!」

「そういうわけじゃない!」

 まったく、どうしてこうもおちょくられなきゃならないんだろう。

 っていうか、そもそもにして私は一言も『告白をされる』だなんて言っていないのに。

 頭のねじがすっかり緩んでしまったグレインの奇妙な行動から目を離すと、エリヴィアは唯一平常時のままのアルベルトへと視線を向けた。それからふっと微笑む。

「ごめん。すぐ戻ってくるから、この二人のこと頼まれてくれないかな?」

「……あ、はい。お気をつけて」

 だがこちらもまた呆けでもしていたのだろう。

 慌てて頷いてくるアルベルトに見送られながら、エリヴィアは音楽室をに後にした。

 でも……。

 扉を閉め、廊下を少し突き進むと、エリヴィアは一度音楽室の方へと振り返る。しかしそれは見間違いだと思い込むと、エリヴィアは駆け足で階段を下ってゆく。

 アルベルトがどこか物悲しげなのは、いつものことじゃないか。


 礼拝堂は食堂の隣にある。

 エリヴィアはそこへと一目散に向かうべく、今だ降り続いている雪の中へと身を投じた。

 ふわりふわりと漂っている雪は外気よりもなお冷たく、頬に当たれば針に刺されたかのような痛みにさえ苛まれる。コートでも羽織ってくれば良かったと、今更ながらに後悔した。さすがに制服のみでは寒すぎる。

 構内を照らしている微弱な街灯が、エリヴィアの白い息を映し出した。

 待っている相手も、きっと凍えているに違いないだろう。一刻も早く着かなければと、礼拝堂を見据えてひた走る。

 やがて食堂のある小さな丘が見え、その奥にひっそりとたたずむ礼拝堂も目にすることができた。エリヴィアはほんの少し顔をほころばせると、残りの距離を一気に走り抜く。

 頭や肩に積もった雪を軽く払い除けると、深呼吸をしてからエリヴィアは礼拝堂へと続く扉を開け放った。すべての音が雪に吸い込まれてゆく静寂の中、ギィッという鈍く軋んだ音が、やけにはっきりとした音で空気を震わせてゆく。

「あの……すみません」

 夜の微細な明かりが暗がりにある礼拝堂内に射し込むと、やがて一つの影が浮かび上がってきた。エリヴィアは遠慮がちな声で呼びかけると、そっと中を窺う。

「あら。来てくれたのね」

 するとそこには先日出会ったばかりの少女、ビアンカの姿があり、エリヴィアは心なしかほっとした。

 そうか、手紙の送り主はビアンカさんだったんだ。

 彼女がゆっくりとした動作で振り返っている中、エリヴィアはやや小走り気味にビアンカの元へと駆け寄っていった。背後で重々しい音を立てながら、扉が閉まってゆく。

 それにしても、夜の礼拝堂ってこんな感じなんだ……。

 真っ白の壁は、今や夜闇に塗られて青白い色をしている。ステンドグラスから射し込む明かりも普段より幾分か暗い色をしており、また灯りをともしていないせいか、窓から入る光がやけに神秘的である。

 ここにオルヴィニアがいると言われたら、信じてしまうかもしれない。

 興味深げに辺りを見回すエリヴィアに妖艶に微笑むと、ビアンカは口元を手で隠した。この空間と同じ紺色のスカートをはためかせながら、エリヴィアの方へと近づいてくる。

「ごめんね、急に呼び出しちゃったりして。びっくりしたでしょう?」

「いいえ。それより、こちらこそ待たせてしまってすみませんでした。……そういえば、今日はどうして……?」

 そういえば手紙には、そのようなことは一つも記されていなかったと思い出す。

 疑問の目を向けると、ビアンカはブロンドの髪を揺らしながら肩をすくめた。

「ちょっと、昔話をしようと思って」

 だが、それこそあまりに想定していなかった内容で、エリヴィアは返す言葉がなかなか出てこなかった。

 昔話?

 頭の中が、こんがらがってくる。

 それって私にしか言えないようなことなのかな?

「私が文学科で地域の歴史や民俗学を学んでいることは、前にも話したわよね。実はね、そこでセイ=ラピリスの成り立ちについて興味深い話が出てきたの」

 自分が専攻している分野だからか、そのことを話しているビアンカはいつも以上に生き生きとしているようにも見えた。

 しかしセイ=ラピリスとなれば、エリヴィアも興味を引き立てられるのは否めない。こくんと小さく頷くと、ビアンカに続きを話すように促した。それを満足そうに見ていたビアンカは「そうね」と前置くと、すっと目を瞑る。

「どこから話し始めましょうか」

 ビアンカはあれこれと思案すると、一言ひとこと言葉を紡ぎ始めていった。

 深々と降りつもる静寂の中、彼女の繊細な声だけが響き続ける。



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