間章 手にしたものは悲しみか絶望か
吐き出される息は、熱くて熱くてたまらなかった。咽は焼けただれた後のように張り付き、どれだけ息を吸おうにも吐き出すばかりで追いついてくれない。
額からは珠のような汗が無数に滴り、風を受けるごとに宙へと散っていった。
駆ける足はとうに鉛のような重さを纏っていて、本当は一歩だって踏み出すのが辛い。振っている腕はただ空を掻くばかりで、それが酷くもどかしかった。なかなか目的地が見えないのが悲しかった。
それでも僕は、持てる限りの力を使って走っていった。紅葉した木々が、どんどん後ろへと追いやられる。
目まぐるしく変わる風景と先刻知らされたばかりの現実に、僕は吐き気がした。
張り付いた呼気が咳となって吐き出され、胸が咽が、重くて鈍い痛みを発してくる。眦にほんの少しだけ涙が浮かんで、でも、そんなことなどどうでもよかった。
地獄のように長い時間走り続けた僕は、ようやく見慣れた町へと入る。外にいた人たちは僕の形相を見ると、何事かと立ち止まっていた。けれどそれすら嫌で、僕はぎゅっと目を瞑って走り抜けていった。肩に衝撃があったけれど、それにすら立ち止まらない。
嫌だ。
僕は走りながら、首を横に振りたくった。
嫌だ嫌だ。
現実なんて、受け止めたくない。
けれど――それならどうして、僕は現実のある場所まで必死になって走っているの?
解らなかった。
僕には何にも解らなかった。
ただ、拒絶する感情とは裏腹に、行かなければならないとどこかで感じていた。
受け入れなければならないと、本当の僕は思っていた。
しかし受け入れるには、まだ僕の器は小さいということも本当は解っていて――。
診療所の扉を威勢良く開けると、僕はなだれ込むように中へと入っていった。その場にいた誰もが事情を知っているかのように、僕の顔を見ては憐れんだ表情を向けてくる。
「あなたが、息子さん?」
一人の女性にそう聞かれると、僕は縋るような思いで彼女を見つめた。これから起こることが、告げられることが、全部嘘だと言ってほしかったんだ。
けれど瞳で解ったのか、女性は僕の手を引くと奥の部屋へと連れていった。
嫌だ。
また心がすべてを拒否している。
でも、完全に拒否をする前に、目の前の扉は開かれてしまった。そこには白衣を着た中年の男性と、よく見知った二つの――。
「……ぁ………」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
暴れるように脈打っていた心臓の鼓動は途端に小さくなり、滾るようだった血は音もなく冷めていく。
熱くて痛かった咽からもすべての感覚が消えてゆき、それでも視線だけは目の前の光景に張り付いたままで……。
力の抜けた足は、かくんと折れまがった。
足が、指が、冷たくなっていく。
「うああああぁぁぁぁ――!!」
最後に聞こえた咆哮は、瞬く間に現実を伝えてきた。
僕はすべてを、受け入れてしまったのだ。
両親の葬儀が終わってから、家の中はすっかり寂しくなっていた。
祖父母も既に他界しており、また引き取ってくれるような親戚もいない。一人っ子の僕が両親の死と共に与えられたのは、孤独という残酷な世界だった。
そして惜しみない愛情を注がれて育ってきた僕は、その孤独な世界すら本心では受け入れることができないでいたのだ。
今まで与えられてきたものが、今は何一つとして残っていない。
『事故だった』
その一言で済まされてしまう事実は、しかし僕にとってかけがえのないものを一瞬にして奪い去っていったのだ。
僕はそれが許せるほど、大人じゃない。
蒼い闇が、ゆらりと不気味に揺れ動く。
着替える気力もなかった僕は葬儀での格好のまま、自室でずっと膝を抱えていた。
虚ろな目は虚空をじっと見つめ、だからといって何をするわけでもない。ただ無意味に時を消費し、そこにい続けた。ただそれだけだった。
秋の夜風が、カタカタと窓を叩いてゆく。
月明かりは朧々(ろうろう)と闇を照らしており、淡い明かりを足元に落としていた。
細やかな埃が、窓から射し込む月明かりの中を舞っては、どこかへと姿を消してゆく。
すると、視界の端に誰かの足が入ってきたのだ。
僕は死んだような瞳を、ふっと上げる。
そこにはたった一人の青年の姿があったのだ。黒く長い髪は風もないのに靡いており、目元は暗くてよく見えない。しかし二ィっと笑っている口元だけが、やけに印象的で幻想的で……。
彼は僕の前でしゃがむと、そっと手を差し伸べてくる。
そして、僕に向ってこう言ったのだった。
「さあ、その手に今一度温もりを欲するか?」
それはひどく魅力的な言葉だったことを、今でも覚えている。