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五章 動き出した刻の音色(2)

     …*…


「大陸北部には、昔からこのような習わしが――」

 教師の声が、一つの音となって教室中を埋め尽くしていった。

 板書の音、ノートをめくる音、筆記具を走らせる摩擦音。普段は気にも留めない様々な音が、どこかひっそりとした印象をこの教室内に与えている。

 それは生気に満ちた音が何一つとして存在していないことが、そもそもの原因なのかもしれない。

 楽しそうな喋り声、溌剌はつらつとした様相、活発な動き――それら人として正となるべきものが一切感じられず、代わりにそこを埋め尽くしているのは、動かされただけの正とも負ともつかない異様な雰囲気のみだ。

 教師の声が、大きくなった。

「ここは重要だぞ」

 生徒たちは真剣になって、板書を写し始める。

 人はこのような場所では、マリオネットも同然だった。何とも知れないモノに操られ、ただひたすらにその時が過ぎゆくのを、一つの劇が終わるのを待ち続けている。

 だから、自らの意思で動こうとする者はほとんどいやしない。つまり誰もが誰もと同じことをしてでしか生きていけないのだ。

 教師が板書をした字を指して口を動かし始めた。生徒たちは黙ってそれを聞いている。

『マリオネットはマリオネットらしく、誰もが誰もと同じように』。

 一見すれば当然のような光景だけれど、気づけば空しい世界を生かされているのだろう。

 しかしそれにすら、人形は気づくことができないでいる。もしくはそれが正しいと、本気で信じ切っているのだろう。

 そして私もその人形の一つ、か。

 窓の外をぼんやりと見やりながら、ビアンカは音もなくため息をついた。

 ……いや。私の場合は、もっとたちの悪いモノかもしれない。

 今まで隠してきたモノの重さ。背負ってきたモノの残酷さ。そして本性を偽りながらもマリオネットのように生き続け、その終焉にしようとしていることの残忍さ。

 それはけっして許されるようなことではなく、いつかそのむくいがこの身を蝕むであろうことはビアンカ自身承知していた。それどころか、もうずっと前からその酬いは訪れていたのだろうとも感じられる。胸に抱いている願いが叶うことがないように、自らが与えただけの痛みを自らの身体で受け止めなければならない状態に立たされているのだから、きっとそうに違いない。

 でも、それでも――。

 ビアンカは授業になど耳も傾けず、じっと外に視線を注いでいた。

 そこからは学園内に植えられている樹木と、その奥に霞んで見える雪原と街。そして一番手前に、セイ=ラピリス科が屯している校庭がはっきりとした姿で映っている。その中でもビアンカは、四人の少年少女の姿を食い入るように見つめていた。

 和気藹々としている、じゃれ合っているようなその姿。今のこの教室内では到底見つけられないような、めまぐるしいまでの表情の変化。

 その平和に包まれたかのような光景に、どうしてか悲しみと怒りを覚えて仕方がない。

 アルベルト。

 小さな唇は、声も出さずにそう呟いた。目はすぅっと細められていく。

 アルベルト。あなたはやっぱり、その場所を選んでしまうのね。

 だがそう感じるや否や胸が締め付けられ、鋭い痛みを発してきた。けれどそれをどうにか排除すると、ビアンカは教室内へと視線を戻す。板書をしている先生の姿が、生徒達の頭の向こう側に見えてきて、そして――。

 もうすぐ、聖技祭せいぎさいか……。

 黒板のわきに書かれた日付を見つけると、それを噛み締めるようにしてビアンカは胸中で繰り返した。終焉へのシナリオが、段々と具現化されてゆく。

 もうすぐ、すべてが終わるわ。

 こくりと生唾を飲み込む。

 教室内は相変わらず、無機質な音に埋め尽くされていた。


     …*…


 ゆらりと灯りが、頭上で揺らめいた。

 教室内には誰もおらず、ひっそりとしている。放課後の校舎内から聞こえる音は数分前よりもはるかに少なくなっており、僅かな音でも遠くまで鳴り響くかのような印象を与えていた。また一つ、誰かの足音がカツンカツンと通り過ぎてゆく。

 そんな中でエリヴィアは黙々と机に向かい、学級日誌を書いていた。

 咄嗟とっさとはいえ「放課後に勉強をしよう」と言ってしまった張本人だというのに、運が悪くも今日は日直だ。こればかりは均等に回ってくるので免れざるをえないのだが、どことなく罪悪感に駆られてしまうのもまた事実。

 エリヴィアは日誌にある感想欄への記入を終えると、やっと肩の荷が下りたとばかりに脱力した。それからふと、窓の外に視線を移す。

 やっぱり当分、止みそうにないか。

 そこには音もなく、深々と降り続けている雪の姿が見て取れた。雪は衰えることなく、地上にある白をより厚く、より深いものへとしてゆく。

 染め上げられた、白い世界。

 そこにある物、その先にある物、すべてを覆いつくしてしまう冬の遣いに、エリヴィアは恐れを抱いた。『これ』という明確なものはないのだが、全てを染め上げてしまう力の強大さに漠然とした恐怖を感じてならないのである。

 大きな力の前で、私たち人間はちっぽけだ。

 年を経るごとにそれを知ってしまったからこそ、そう思うのかもしれない。今は昔のように、純粋に雪が奇麗だと思えなくなってしまっていた。

 たとえそれが、オルヴィニアが生み出したという神聖で純潔な色だとしても……。

「エリヴィアさん。すみません、遅くなってしまって」

 すると教室の扉が開くと同時、そんな声が聞こえてきた。

 どうやら走ってきたらしい。クラスで収集した課題を提出に行っていたアルベルトは、ほんの少し呼吸を乱しながらやってきた。

 エリヴィアは窓から視線を離すと、学級日誌を閉じる。

「大丈夫よ。私も今、書きあがったところなの」

「そうだったんですか? それは良かったです」

 実は先生に、全員分の課題が揃っていないことで問い詰められてしまい、気づいたら随分と時間が経っていましたから。

 苦笑を浮かべるアルベルトに、エリヴィアもまた同じような表情を浮かべた。

「それは災難だったね。別に集まらないのは日直の責任じゃないのに」

「まさかこんなに怒られるとは思いませんでした」

「神学の先生は、結構頑固なのよ。前も日直の子がこっ酷く怒られていたもん」

 だからそんなに落ち込まないでと言うと、エリヴィアはちょんと首をかしげた。それから筆記具を鞄にしまおうとすると、アルベルトが窓の方へと歩んでいくのが目に入る。

「雪、本格的に降ってきましたね」

 エリヴィアはきょとんとした表情のまま振り返り、頷いた。

「そうだね」

 筆記具やノートを詰めてから鞄の口を閉めると、それを机の上に置き去りにしたままアルベルトのもとへと近づいてゆく。口元は笑っているのにどこか寂しそうなアルベルトはエリヴィアの方にちらとも向かず、ずっと窓の外を見つめていた。天色あまいろの双眸に、外と同じ光景が小さく映っている。

 ここのところ、アルベルトの態度や表情には嫌な変化が付きまとっていた。

 勿論、転校してきてまだ一週間しか経っていない者にそう思うのは、エリヴィア自身おかしいと感じている。しかしいくら笑っても何をしても、それはまでうわべだけ。どこかで一線を引かれているような気がしてならなかったのだ。まるで心の奥には今まで以上の闇が潜んでいて、それをアルベルト自身隠しきれないでいるかのようで……。

 無論、アルベルトが大きな闇を抱えていることはエリヴィアも承知している。打ち明けられた時の衝撃は、今でも忘れられなかった。だからこそ近頃のアルベルトが心配でたまらないのだが、それを彼自身に聞いてもいいのかと問われれば、それはそれで躊躇ためらわれる。

 人には悟られたくないこと、検索されたくないことがあるのは当たり前だ。

 もしも訪ねたことによって、そこに土足のまま踏み入れてしまったとしたら……。

 そうしたらアルベルトは、さらに悲しい思いをしてしまうのだろう。けれど優しい彼は、それでも笑って許してしまうに違いない。でも、私はそんなアルベルトを……。

 エリヴィアはきゅっと目を瞑ると、その考えをすべて闇へと葬った。

 今はそんなことで、アルベルトに変な気遣いをしてはいけない。逆に傷つけでもしたらどうするのよ。

 廊下からは二つの足音と、楽しそうな話声が聞こえてくる。

 二人は揃って口を閉ざしたまま、ひらひらと落ちゆく雪ばかりを眺め続けた。遠くには白く霞んだケルン山脈とそのふもとにある街が、そして上空には高さも大きさも違う空島テルンが浮かびながら雪の中で凍えている。

 空島テルンはどうして、そこに浮かび続けているの?

 空島テルンはどうして、神様がくれた地上だと言われるの?

 また、答えのない疑問が脳裏に浮かんだ。エリヴィアはそれを頭から振り払おうとするも、一度考えてしまったら最後。自分で納得するか諦めるまでは延々と悩んでしまうことは、経験上解りきっている。

 エリヴィアは手を伸ばすと、そっと窓に触れた。ひんやりとした感触が手のひらを伝っては、ゆっくりと骨の髄まで凍えさせてゆく。また、窓に映っている自分の姿があまりに虚ろな目をしていることにも気づき、何とも言えない気持ちになった。

 こんな表情をするなんて、みっともない。しゃんとしなさいよ。エリヴィアは自分に向って活を入れる。

 それから目を瞬かせると、そういえば先週、グレインに空島テルンについて尋ねたのを思い出した。面倒くさがりのグレインは特にこれといったことは言わなかったが、果たしてアルベルトならどうだろう。

 気まずい雰囲気を打破するためにも持って来いだと感じたエリヴィアは、先週のことを頭に思い描きながらアルベルトの肩を叩いた。かげりを瞳ににじませているアルベルトが、なんですかとこっちを向く。

 だがいざ言うとなると、それがあまりに突飛とっぴなのではないかと感じてしまい、言葉選びに苦戦した。

 エリヴィアは胸を落ち着かせると、すっと窓の外を指でさす。

「あのさ、大陸中に空島テルンってあるでしょう? あそこって今の科学じゃ解明できない存在だし、『神様が与えてくれた特別な地上だ』とかも言われたりしているけど、実際は浮かんでいるだけで、生態とかは地上と大差がないわけじゃない。それだったらさ……空島テルンって一体何のためにあるんだとアルベルトは思う?」

空島テルン……ですか」

 寒空の下に浮かんでいる空島テルンへと視線を定めると、アルベルトはゆっくりとした口調でそう言ってきた。

 やっぱり質問が漠然としすぎたかしら? それとも話の振りが唐突過ぎたかしら? と、エリヴィアは心配になってくる。しかしアルベルトは、グレインのように「めんどくせぇ。知らねぇ」と投げ出すこともなく、うんと小さく唸ると口を開いた。

「ぼんやりと覚えているだけで、あんまり信用できないかもしれませんが……。それでも大丈夫ですか?」

「ええ、構わないわ」

 だがすぐに『覚えている』という単語が引っかかり、エリヴィアはまた堂々巡りになるのかなと感じた。きっと未解明の科学的な話だろう。そう括っていたからだ。

 アルベルトはすっと息を吸うと、いつくしむような瞳で空島テルンを見やる。そして「昔の話です」と切り出して話し始めた。

「ずっと昔、大陸北部には空島テルンがなかったんです。なので空を見ても雲くらいしか浮かんでいない、徒広だだっぴろいばかりの空がそこにはあったんです。人々は南方にある『神の与えた特別な地上』を夢に描きながらも、それでも幸せそうに暮らしていました。ところがある冬の日、突然大きな地鳴りがすると、ケルン山脈の一部が剥がれていったんです。……ほら。ちょうど山脈の中央から東にかけて、大きく抉れていますよね。あそこから剥がれた山の一部がふわふわと空に浮かんでいったんですよ。人々は驚き、それと共に歓喜しました。『これがきっと、神が与えてくれた特別な地上なんだ』と。その日を境にして、この大陸北部には空島テルンが生まれたんです」

 しかしエリヴィアの落胆はすぐに否定されることとなった。それどころか、アルベルトの話を聞くごとにその表情は期待の色に満ちてゆく。

 アルベルトの紡いでいく話は、今までエリヴィアの聞いたこともないようなものだったからだ。

 まるでおとぎ話を聞かされているような、優しい音色。その内容は実際に目にしてきたものを語られているようで、エリヴィアはふと眼を閉じると、その時の光景を夢想した。

 きっとここに住んでいた人々は、あの空島テルンを見ては拝んでいたのかもしれない。それだけで太陽の光が、ずっとずっと明るく感じられたのかもしれない。

「だからといって、空島テルンがどうして浮かんでいるのかっていう理由にはなっていませんよね」

 小さな声で謝ってくるアルベルトに首を振りたくると、エリヴィアはそんなことないと大きな声で言った。アルベルトは目を丸くしている。

「だって私、ずっと前から『どうやって空島テルンができたんだろう』って思っていたんだもの。だから今ね、すごいすっきりしているの。アルベルトの話で、やっと一つの疑問が解けたのよ」

 ありがとう。

 溢れる思いを一気に吐き出すと、エリヴィアは今までにない満面の笑みを浮かべた。今も胸がドキドキしてたまらない。まるで楽しい冒険に出かけたみたいだ。いや、違う。アルベルトに冒険に連れて行ってもらったんだ。

「いえ。お役にたてたのなら」

 すると彼女の勢いに圧倒されていたアルベルトもまた、銀色の髪を揺らすと淡い微笑みを浮かべてきた。

 すっかり浮かれていたエリヴィアには、その時のアルベルトが辛そうだったのか嬉しそうだったのかなんて、まるで覚えていない。ただ微笑んでくれたということを肯定的に受け取ると、エリヴィアはすくっと姿勢を正し、

「じゃ、そろそろ二人の所に行こっか」

 もう一度空島テルンを見つめると、エリヴィアはそう言った。

 空島テルンは雪にまみれながら、ふわりふわりと浮かんでいる。



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