五章 動き出した刻の音色
朝から空は、どんよりとした雲に覆われていた。
北のリカヴ山脈から吹いてくる風は凍てつくほど冷たく、これから大雪が降るのではないかという不安に駆られる。
詠唱学の実習のため校庭に出ていたエリヴィアは、真っ白な息を吐き出すと眉をしかめた。隣にいるティアナに限っては今までに体験したことがない寒さのためか、さすがに口数が少なくなっている。
遅れて校庭にやってきた男子二人は揃って腕をさすると、ゆっくりとした歩調のまま、やはり同じように空を仰いだ。刺すように冷たい風が、クラスメイトの悲鳴にも似た声を乗せて流れてくる。
「降るな、こりゃ」
グレインは翡翠色の双眸に影を落とすと、唇をきゅっと引き締めた。
雲の流れは刻一刻と速まっており、その色もますます暗くなっている。また陽の光も完全に遮断されてしまっているため、この雲が途切れることはないだろうと予測された。ともなれば、雪が降り出すのも時間の問題だろう。
「えー、これ以上降るの? それは嫌だよぉ。寒くなるもん」
しかしながら、さすがにこの寒さと雪の多さにはうんざりしてきたのだろう。グレインの言葉に敏感に反応すると、ティアナはおもいっきり否定を示した。そしてちゃっかりとエリヴィアの右腕につかまって暖をとっている。
「しょうがないわよ。北部は春が訪れるまでは、毎年こうなのよ? それまでは辛抱しなきゃだって」
優しい声色でエリヴィアがそう言うも、ぐずっているティアナはそれでも嫌だとすり寄ってきた。いつもはぴょんぴょんと揺らしている二つに結わった髪も、心なしか元気がない。
とはいえ今年の冬は一段と寒さが厳しくなっているのも確たる事実だ。そうでなくとも大陸の北部と中央部では気候が違ってくる。それは誰もが知る地理的要素であるために普段は気にも留めなかったのだ……が、ティアナの寒がりようは他の人を逸している。
気温ってそんなにも違うものなのだろうか?
目をギュッと瞑りながら震えているティアナに、エリヴィアは些細な疑問を抱いた。
だが、それにしても……と、指導をしている教師に視線を向けるとエリヴィアは嘆息する。
教室内では音階や詩が混ざり合ってしまうというのは解るが、この寒空の下で詠唱をしろと言うのはあまりに酷ではないだろうか。
彼らのような駆け出しのセイ=ラピリスとは、ただでさえ力を使うのが困難なのである。盟約するオルヴィニアとをつなぐ詩や音階をどのようにすれば上手く発することができるのか、ということにまだコツを掴めないでいるのだ。しかしこれでは、寒すぎて上手く言葉を発することさえままならないではないか。
周囲を見渡してみても詠唱に挑んでいる者はクラスの半分もおらず、皆寒さに身を小さくしている。詠唱している者はしている者で、歯の根が合わずに相当苦戦を強いられていた。音階など、とても聞けたものではない。
せめて太陽が顔をのぞかせてくれれば、少しは詩も詠えるんだろうけど……。
だがそう思ったところで都合よく太陽が出てくれるはずもなかった。それに今のエリヴィアは太陽が出ようが出まいが、とてもではないが詠唱をする気にはなれなかったのである。
疼く右手がぴくっと動くと、エリヴィアの心臓は一際大きく飛び跳ねた。
始めて痛みを感じたあの日以来、彼女の右手には頻繁に激痛が走るようになっていたのである。それは日を増すごとに多く、そして強くなってきている。時にはあまりにひどすぎる痛みに、吐き気さえ催すこともあった。そしてそれは、決まって詠唱に関わることに直面した際に現れてくる。
それがたとえ音階であろうが、構成面であろうが、果てには短剣を手にするだけでも痛みは訪れ、エリヴィアを苛んでいった。
とはいえエリヴィアにしてみれば、セイ=ラピリスとは避けて通れない道であることに変わりない。
将来は叔父のアテヴィルのように、一人前のセイ=ラピリスになって人々の力になりたい。そんな夢を持っている上に、今では学園内、家、教会、街――どこにいようともそれらは毎日のように、人々を癒す音色を奏でてくれているのだ。
人々の生活にオルヴィニア教が浸透している。つまりそれは、人々の生活にがセイ=ラピリス、詠唱が浸透しているといっても過言ではないだろう。
特に今の時期は三日後に迫った聖技祭の話題で持ちきりで、いたる場面で詩に直面せざるをえないのだ。そしてその都度、エリヴィアは襲ってくる痛みに耐えなければならない状況に置かれている。
聞こえてくる詩に眉根を寄せると、エリヴィアはそっと右手に触った。詩が上手くなればなるほど、その痛みは激しく鋭くなってゆく。一人のクラスメイトが、すっと息を吸い込むのが遠くに見えた。
すると音程のとれた美しい詩が聞こえ、同時にエリヴィアの右手はつき立てられた剣をむやみに掻き回されているような痛みを感じる。くっと漏れそうになる声をかみ殺すと、痛みに耐えるように背を丸めた。
このまま歯の根が合わないで、詠えないでいてくれればいいのに。
だがそれすら無駄な願いとなってしまい、徐々に寒さに慣れてきたクラスメイトたちは口々に詩を口ずさんでゆく。
幾つものメロディと同調して大きくなってゆく歌声。それに比例するようにして、エリヴィアの表情は一層歪んでいった。
授業だから仕方がない。
そんなことなど解ってはいるものの、叫びたいほどの痛みは時を増すごとに激しくなっていくばかりだ。苦しい。
奥歯が悲鳴を上げるほど噛み締めると、エリヴィアはぎゅっと目を瞑った。閉ざされた視界ではちらちらと数多の光が瞬き合い、眼尻にひんやりとした感触が伝わってくる。反面身体は燃えるように熱く、右手に限っては焼けただれているような錯覚にさえ陥った。指の先からは、爪が一枚一枚剥がされていくかのような痛みが走ってゆく。全ての熱が、痛みが、そこに凝縮されていった。
痛い。辛い。
助けて、誰か!
「――ィ? ……ぇ、エリィ!」
すると耳元で大きな声をかけられ、エリヴィアはハッと我に返った。刹那、激痛に苛まれていた右手から嘘のように痛みが引いてゆき、麻痺していたその他の感覚もすんなりと戻ってくる。
先ほどまで幼子のようにエリヴィアの腕にしがみついていたティアナが、懸念そうな表情を浮かべながらエリヴィアの顔を覗き込んでいた。大きな緋色の瞳は、エリヴィアの紫色の瞳をじっと見つめて放さない。
よくよく見やれば、近くにいたグレインやアルベルトもまた顔色を変えては、じっとこちらを見つめていた。寒風がさぁっと駆け抜けてゆく。
「ねぇエリィ、どうしたの? 辛そうだったけど、具合でも悪い?」
「う、ううん。大丈夫だよ。何でもないって」
「でも……」
「ちょっとね、考えごとをしていただけ。大丈夫だから」
さっきまでとは打って変わり、エリヴィアは気づかれまいと必死になっていた。
さっと現れ、さっと消えていく、見た目には変化のないこの痛み。
こんな不可解なことを、誰にも言えるわけがない。エリヴィアはそう感じていた。
自分でも信じられないようなことを、一体誰が信じてくれるていうの?
誰かに言えばこの痛みから解放してくれるっていうの?
そんな都合のいい話が、あるわけがない。きっとおかしな人って思われて、それで終わりに決まっている。だから私は、私に対する嘘を吐き続けなければならないのだ。
心配をするティアナの言葉を打ち消すと、エリヴィアは大丈夫と言い張った。それしか方法がないと、そう解っていたから。
しかしさすっていた右手をぐっと後ろに引かれると、その言葉さえ自らの口に打ち消されていった。足がもつれ、バランスが崩れ、仕舞いには他人のもののような短い悲鳴が空気を切り裂いてゆく。
やだ、転んじゃう。
尻もちを付くであろうことを予想すると、エリヴィアはきゅっと目を瞑った。だが彼女の予想はことごとく裏切られ、柔らかい物にぶつかる小さな音に包まれると、転倒しそうだった身体は何かにしっかりと支えられている。
恐る恐る目を開けると、最初にびっくりしたティアナの表情が目に入ってきた。彼女の手前ではアルベルトが、何かを言いかけたように口を開いている。そして、
「正直に言えよ。考えごとなわけねぇだろ」
という低い声が耳元で聞こえ、また背中からも振動として伝わってきた。耳には温かな息遣いが感じられる。
さっと振り返るとすぐ近くにグレインの顔があり、そこでようやく彼に掴まれ支えられているのだということを悟った。エリヴィアは羞恥と苛立ちで顔を真っ赤に染めると、戦慄く唇を引き締めてから咄嗟に視線を逸らす。
「……考えごとよ。勝手に決めないで」
「じゃあ、何を考えたのかを言ってみせろよ。まっとうな答えを言えたら信じてやるさ。……なぁに、心配すんな。めんどくせぇからそれ以上の追及はしねぇからよ」
「――ッ」
挑発的とも威嚇的とも取れるグレインの瞳は、エリヴィアの恐れていた物を的確に射抜いてゆく。
さすがは幼馴染、か。エリヴィアがグレインのことを知っているように、グレインもまたエリヴィアのことを知っているらしい。
厄介な相手に見抜かれたわね。
エリヴィアはそう思うも、すぐさま考えを巡らせた。
早く言わないと、さらに怪しまれるわ。考えるのよ、グレインの言うまっとうな答えを。考えごとを……。
目の前でグレインの表情が、みるみる勝ち誇ったものへとなってゆく。
ホラ。何もないんだろう。考えていたことなんて。
視線がそう言っている。
「聖技祭、あるでしょう?」
だがエリヴィアはグレインが口を開く前にそう言うと、次なる言葉を巡らせた。ふぅんという声が、吐き出される。
「あるな。今週末に」
で、それがどうした?
グレインははっきりとそう言うと、エリヴィアに次の言葉を促した。栗色の髪が、風に吹かれて靡いている。
「そのせいでね、叔父さんが毎晩遅いの。聖職者だから、聖技祭についての会議があるんだって」
「へぇ」
興味のなさそうな相槌が耳を掠めた。
グレインの呼吸が、鼓動が、一々背中越しに伝わってくる。
エリヴィアは唇を舐めると、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「だから、もし皆が良ければだけど……放課後に勉強したいなって思ったの。テストも近いしさ」
もしかしたらこの速くなっている鼓動も、グレインにはバレてしまっているのではないだろうか。
一気に言葉を吐き捨てると、エリヴィアはそんな不安に駆られた。自分に相手の鼓動が聞こえているということは、相手にも同じように聞こえているに違いない。
相も変わらず、グレインはじっとエリヴィアの顔を凝視している。
生唾を飲み込むと、エリヴィアは息が詰まるのを感じた。ティアナやアルベルトからの視線も、ひしひしと伝わってくる。
もう、早く何か言いなさいよ。
さんざん激痛に襲われたせいか、普段よりも格段沸点が低くなっているらしい。痺れを切らしたエリヴィアは声を上げようと息を吸い込むと、グレインをキッと睨みつけた。
何よ。いつもは『めんどくせぇ、やる気ねぇ』って何もしないくせに!
「……だとよ。どうする? 勉強すっか?」
だがそれを実行に移す手前、グレインはエリヴィアの背をポンと押すと、ティアナとアルベルトに向かってそう言葉を投げかけていたのだ。そして振り返るなり、二ィっと意地の悪い笑みを浮かべてグレインはこっちを見ている。
拍子抜けしたエリヴィアは、閉じるに閉じられない口をパクパク開閉させると目を瞠った。これは果たして、してやったのか、してやられたのか……。
「やるっ、やるやる! わたしは絶っ対に賛成!」
すると先刻までのローテンションはどこへやら。ティアナは真っ先に身を乗り出すと、鼻息も荒くビシィッと挙手までして勉学に励む意思を示していた。二つに結わった髪は、ようやく元気を取り戻して飛び跳ねている。
続いてアルベルトもにっこり微笑むと、「ぜひ、お願いします」と告げてきた。
出まかせや心にないことを言ったわけではないのだが、まさか即興の言葉でここまで進んでしまうとは……と、エリヴィアは我がことながら驚愕した。隣に来たグレインは頭を小突いてくると、面白そうだとばかりに口角を上げている。
「だとよ。で? いつから勉強始めんだ?」
「そりゃあ、今日からでしょ! 思い立ったが吉日よ!」
あ。グレインも勿論参加ね。それと、やっぱり場所は音楽室にしようか。大丈夫。テスト期間の二週前だから、どのサークルも休みだもの。音楽室だって使えるって。
しかし強引にグレインから主導権を奪うと、ティアナは表情を華やがせながら口早にいろいろなことを決めていってくれた。
おいてけぼりをくらったグレインは少々寂しそうにも見えたが、それすら気にしている様子はない。本当、ティアナは勉強のことになると熱心だ。
「えー、めんどくせぇよ」
と言いながら、グレインは明後日の方角に目を向けた。いつものような二人の言い争いを、アルベルトがどうにかなだめようと奮闘している。
ああい、いつもの光景だ。
けれど目の前にいる彼らには到底手が届かないのだろうと感じると、エリヴィアは臙脂のスカートを力いっぱい握りしめた。未だに手のひらは、得体のしれない感覚に囚われている。
グレインは、私の中の何かに気づいたのだろうか……。
小さな衣擦れの音は、すぐに彼方へと消えていった。
幸せそうな三つの声に、心が涙を流している。