四章 闇の中で見守って
キィッという軋んだ音が、背後から聞こえてきた。
夜闇に包みこまれていた聖堂の左右にはそれぞれ長机が列をなしており、それらの間、通路となる中央の空間には、淡い光が射し込んでくる。
それはもう一度軋んだ音を立てると共に細くなってゆき、扉の閉まる重たい音を聞くや否や、ふつりと姿を消していった。後に残ったのは冷たい空気が流れ込んでくる感触と、たった一つの足音だけ。
足音は中央の通路を通ってくると、徐々に近づいてきた。祭壇にほど近い最前列の窓際に座っていたアルベルトは、その音を聞きながらふっと瞼を伏せる。
どうして詠唱ができなかったんだろう。
どうしてエリヴィアさんを、こんなにも近く感じるんだろう。
扉から流れ込んできた冷気が、今更になって彼の頬を撫でてゆく。垂らしている前髪が目にかかったが、しかしそれを払い除ける気力は何故か湧いてこなかった。もやもやとする意識の中、ただ静かに近づいてくる足音だけが、はっきりとしている。
アルベルトは祭壇へと射し込んでくる光を見つめ、それから窓の外へと視線を向けた。今にも泣きそうに潤んだ双眸を、月明かりが更に濡らしてゆく。
揺れる瞳は何を見る訳でもなく、ただじっと窓の外だけを見つめ続けていた。キラキラと光る雪の花は、あるひと時を彷彿とさせてたまらない。
足音は彼の隣までくるとぴたりと止まった。そして椅子を引き出す微かな音をたて、そこに腰をかけた気配を運んでくる。
僅かに漂う人の温もりが半身を伝ってゆき、静寂は瞬時に闇の中に生まれると、この空間でとぐろを巻き始めた。
それでも、揺れる瞳は今ある光景から離れようとしない。
「アル。あなたの友達、良い人ばかりね」
すると静まり返った聖堂内に、ビアンカの吐息のような声がやんわりと響いていった。アルベルトは窓の外から視線を離さぬまま、小さく首を縦に振る。
彼にできた友達は、皆いい人ばかりだった。
高等部では珍しい中途編入をしてきたアルベルトに色のあるフィルターをかけて見ることもなく、倦厭したりもしない。また人と接するのが苦手なアルベルトの性格を受け入れてくれ、体調が悪い時には心配すらしてくれて……。
確かに一人ひとりが個性的な人たちであるとは思うものの、ただ、それさえもが楽しかった。そして、アルベルトはそんな彼らが好きだった。友達としても、一人の人間としても。
しかし反面、それが悲しく思うこともしばしばあった。
もしもまた記憶がなくなってしまったら、一体どうすればいいのだろう。そうしたら、彼らは離れていってしまうのだろうか。孤独な生活が再び待ち受けているのだろうか。
胸がキュッと締め付けられる。
負の感情が負の感情しか生み出さないことなんて、そんなことは知っていた。けれど生まれてきた嬉しさが、どうしてこうも辛い感情を生み出してくるのだろう。
ずっと窓の外を見つめていたアルベルトは、その視線を足元に落とした。失うことが辛くて、目頭が熱くて堪らない。
誰か、教えてください。
俺は一体、どうすればいいのかを……。
「でもね、アル。あの子たちとの友情は、今のあなたを苦しめることにしかならないの。解るでしょう? だから――」
隣にあった温もりは、背後からアルベルトを包み込んでいた。文学科の制服を纏うビアンカの細い腕が、アルベルトの胸の前で固く握りしめられている。
アルベルトは息をのむと、ハッとした。虚ろだった双眸が、今は動揺で震えている。
その後に続く言葉は、きっと死神の持つ鎌よりも、鋭く残酷な色をしているに違いない。
すっと息を吸い込む音が、耳元ではっきりと聞こえてくる。
「だからあの子たちには、もう近づかないで」
音もなく、透明な雫が流れ落ちていった。
動揺で震えた天色の瞳には、もう何も見えていない。
アルベルトは痛む胸で悲鳴を上げると、幾つも幾つも涙を流した。
あの喜びは、自ら断ち切らないといけないの――?
ビアンカはそっと、アルベルトの首すじに顔をうずめた。陽の光と月明かりの色をした髪が、すっと混じり合う。
「ねぇ、アルベルト。……ずっと、ここにいてよ」
ただそれだけの声が、凍りついた空気を揺らしていった。
…*…
また、礼拝の時間に間に合わなかったな。
午後は食堂で異端者論と心理学をしていたのだが、あっという間に夜の帳は下りていたのだ。気がつけば辺りは蒼い月明かりに包まれ、人の姿もまばらになっており、そこで四人は解散をしたのである。
いつも通りグレインと下校したエリヴィアは急いで丘を駆け上がると耳をそばだてた。にぎやかな雰囲気はまったくもって感じられず、それどころか誰ともすれ違わない。さすがに二日も礼拝に出られなかったとなれば、あのアテヴィルでも呆れ果てているだろう。
どうしたものか……。
聖堂に通ずる扉の前で立ち止まると、エリヴィアは荒い息を吐き出した。わりと緩やかな坂道ではあるものの、駆け上がれば喉も熱くなるらしい。
もう一度息を吐き出し、気持ちを落ち着かせる。額に浮かんだ汗を指の背で拭うと、そっと扉を押しやった。ギィッと重たい音が響いてゆく。
そこには案の定礼拝の声も人々の姿もなかったが、代わりに二人の聖職者がたたずんでいた。一人はアテヴィルで間違いないが、もう一人は――。
「ルフェリック司教?」
エリヴィアは驚き、かえって小さくなった声で呟くと、目の前の光景にポカンと口を開けてしまった。
ルフェリック・アイスナー。彼はこのアルヴェーン地域の教会全てを統括する司教であり、聖地・イルヴァにある教会に身を置く者でもある。初老に差し掛かった面立ちは彼の性格を写し取ったかのように穏やかで、黒い瞳は優しく微笑んでいる。
二人はエリヴィアが帰って来たことに気づくと話を一旦止め、柔らかな表情を向けてきた。エリヴィアは挨拶をしてから二人の顔を交互に見やる。
今日は何か、あるのだろうか。
「エリヴィアさん、うちのアルベルトがお世話になっているようで。ありがとう」
するとお昼にも聞いたようなことをルフェリックに言われ、エリヴィアはとっさに首を横に振った。
「いいえ。友達として、当然のことをしているまでです」
「けどね、エリヴィアさんたちと友達になって以来、あの子は大変明るく元気になりました。家に帰ってくると、毎日嬉しそうに学園でのことを話すんですよ」
今までのあの子からは考えられないことです。
いつもの尊い雰囲気からは感じられない喜びを溢れさせると、ルフェリックはエリヴィアに向ってそう言ってきた。
そういえばアルベルトはイルヴァにある教会に住んでいると言っていたっけ? とお昼の時に聞いた話を思い出す。
正直イルヴァの教会と聞いた瞬間、エリヴィアは度肝を抜かされた。
イルヴァといえばアルヴェーン地域に浮かぶ空島の中でももっとも名高く、オルヴィニアに愛された聖なる地として崇められている場所だ。故にそこの教会といえば誰もが入ることをを許されているというわけではない。しかしそこにアルベルトはビアンカやルフェリックと住んでいるのだから驚きだ。
もしかしてアルベルトが記憶がないっていうのも、そのことに関係しているのだろうか……。
「エリヴィア。今日はすまないけれど、一人で夕ご飯を摂ってくれないかな。これから来週末にある聖技祭についての会議があるから、夜遅くなっちゃうんだ」
するとぼんやりしているエリヴィアに向かって、アテヴィルはそう告げてくる。
今日は良い日になると思っていたけど、驚かされてばかりだわ。
だがそう思うと同時、エリヴィアはもうそんな時期になるのかとも感じていた。
聖技祭とはその名の通り、セイ=ラピリスの誕生を祝したお祭りのことである。ここではディネイ・セイ=ラピリスによるオルヴィニアからの神託や、セイ=ラピリスの力を初めて神から与えられた聖女を祝した聖歌隊の歌などが披露されるのだ。
その他にも地域ごとに様々な催しをしており、このアルヴェーン地域では毎年聖歌隊のほかにも、セイ=ラピリスたちによる聖歌や詩が披露されている。これからの会議は、さしずめそれらのことへの最終確認だろう。
エリヴィアはアテヴィルの言葉に頷くと、がんばってねと一声かけた。それから大人しく下がると、教会のわきにひっそりと建っている家へと帰ってゆく。
部屋の明かりをつけたエリヴィアはふとキッチンへと目を向けるも、そこから遠ざかっていった。
どうせなら覚えているうちに、今日の復習をしておきたい。
自室へと足を向け、エリヴィアは机の前に座った。目の前にある窓からは帰りに通ってきた道や街を望むことができるのだが、今は夜の闇に閉ざされていてそれも叶わない。晴れた日の朝などはどこまでも続くような世界に心が躍るものだが、目の前に広がっている光景にはそのような感覚とはまったく違ったものを感じさせられた。
正とも負とも取れない、曖昧な風景。
だが、いつまで見ていても埒が明かないと感じると、エリヴィアは足元に置いておいた鞄に手をかけた。そこからノートと筆記具を取り出すと、ぱらぱらと目的のページを探し始める。
今夜は苦手な異端者論をして、それから――。
「痛っ」
すると突如生まれた激痛に、エリヴィアはノートを放り出してしまった。
一体自分の身に何が起こったのか解っていないエリヴィアは、ただ茫然と自分の手とノートとを交互に見やる。
今、何が起こったの?
痛みを感じた右手には、今だに殴られたような痺れと刺されたような痛みが残っていた。血液がそこに集まってくるかのよな、そんな感覚さえ感じられる。
信じがたいものを見たような眼をすると、エリヴィアは自らの手をじっくりと眺めた。
指先、甲、手のひら、腕――。しかし痛みはあるというのに、そこには傷も痣もない、いつもと変わらない手が存在していた。
サァッと血の気が引いてゆくのを嫌でも感じる。
エリヴィアは信じがたいように手をグーパーさせると、もう一度眺めてから、おそるおそるノートへと手を伸ばしていった。触れるまで、あと指の先ほどもない。
「――ッ」
だが勇気を振り絞ってノートを掴んでみても何ともなく、それはあっさりと持ち上がったのだった。痛みもなく、普段通りの感触が手のひらを伝わってくる。エリヴィアはどうして?と目をぱちくりさせた。
さっきのは一体、何だったんだろう。
深い静けさが、キンという音を連れてくる。
いくら考えても導かれない答えを考えながら、ノートを凝視した。
そこにはアルベルトと共に綴った一つの詩が記されている。