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序章 儚い世界の扉

 その年は早くに冬が訪れた。

 気流に乗った空島テルンが時折月明かりを隠しては、ゆらりゆらりと空を彷徨さまよっている。徒広だだっぴろい森の中では月明かりしか頼りになるものがなく、蒼い月明かりが消えてしまうと、途端に心細いような気持に駆られるかのようだった。雪に覆われた大地からは全ての音が消えてしまっているのだから、なおさらに。

 ああ……でも、今はそれさえどうだっていいかもしれない。

 だらんと下ろした腕からは、握られていた短剣がとすっと落ちてゆく。天を仰いでいた僕は、どうしてだろう。この身を包みこんでくれる大きな光に、身を任せてもいいのではないかと感じていた。

 これに包まれていれば、もう色んなことから解放されるんじゃないだろうか。

 確信はなかったけれど、どうしてか「そうなんだ」と思い込んでいた。もしかしたら目の前にいる彼女が、僕にそう感じさせてくれていたのかもしれない。勿論、それにだって確信はないのだけれど。

 冷たい風が、僕らの身体を蝕んでゆく。

 さらさらと揺れるリリアスの髪があまりにも美しくて、僕はその光景に思わず見惚みとれてしまった。夜闇の中でさえ映える黒髪が、まるで絹糸のようにさらさらと流れていて……。

 けれどリリアスの紫色の双眸は、いつものように凛としていなかった。優しくなかった。そこには言いようのない悲しみと驚きだけが宿っていて、そしてその瞳は、ずっとずっと僕の姿を見つめ続けている。

 解っていた。いや、僕はどうして彼女がそんな表情をしてしまっていたのかを、とうとう解ってしまったのだ。

 だから、「ごめんね」って。

 本当はそう、謝りたかったんだ。心の底から謝って、それでリリアスの身体を抱きしめてあげたくって。

 けれど僕の身体は、それをしようにも動いてはくれない。白くて強い光に包まれてからは心だって軽いのに。あの日以来初めて、そう思えるようになったっていうのに。それなのに、それを行動に移すだけの力が、僕の身体にはもうなかったんだ。

 白い光が徐々に消えてゆくと、僕は膝からくず折れてしまった。微かな音を立てて、膝が、両手が、雪の中に埋もれてゆく。そしてその横には、さっき落としたばかりの短剣が、同じように埋もれてはきらきらと輝いていた。その青白い光に、僕はそうっと目を細める。

 僕は一体、何をしていたんだろう。

 僕は一体、何をしようとしていたんだろう。

 僕はやっぱり、今日のように過ちを犯していたのかな。

 あれは全部、そんな結果の行き先だったのかな。

 考えれば考えるほど、頭の中がごちゃごちゃになっていく。そしてそれと同時に、身体からも力が抜けていってしまった。身体が白い大地に近づいていく中、頭も芯からぼうっとなっていく。

 しかし僕がその場に倒れなかったのは、リリアスが僕を抱きしめてくれたおかげだった。

 震えているその腕で、倒れかけた僕をかばってくれている。

 そんなことを考えて、僕の胸はキリリと痛んだ。

 僕はあんなことをしようとしたのに、それでもリリアス。君は僕を支えてくれるんだね。

 あの日誓った約束を、守ろうとしてくれるんだね。

 意識が段々遠のいていく。

 空島テルンがまた月を隠しては、ゆっくりとその前を通り過ぎていった。裸の木を揺らしながら、風が何重にも音を奏でていく。

 しばらくそんな音を聞いていると、冷たいものがぽつりと僕の目元に落ちてきた。それはひどく儚くて、細やかな感情のかけらで。

 僕はその軌跡きせきをたどりながら、自由じゃない唇をそっと開いた。

「……リリアス、どうしたの……?」

 紡がれた言葉は、思いのほか小さく、震えている。

 また、彼女に向けて伸ばそうとした腕は存外重くて、なかなか上がってはくれなかった。すぐに力尽きてしまうかのような感覚に囚われ、それでも僕は懸命にリリアスに向かって手を伸ばそうとする。

 寂寞せきばくが声も出さずに駆け抜けていった。

 背中からは、リリアスの体温が伝わってくる。

「リリ……ア、ス……」

 声だって思うように出てはくれなて。それがもどかしくて、やるせなくて……それでも彼女のために、僕は言いたいことを言おうと思った。

 ひとたび息を止め、それからすぅっと息を吐く。熱い呼気が、虚空に溶けていった。

 ゆっくりと上がっていった手が、リリアスの髪にそっと触れる。それは細くてきれいで、でもほんの少しだけ冷たくって――。

「ね。もう……泣かないで」

 もう一度目元に雫が落ちてくるのを感じながら、僕はふわりと微笑んでそう言った。

 指先が微かにリリアスの頬へと触れる。

 リリアスは驚いたように双眸を見開き、それから悲しそうに表情をゆがめた。紫の瞳には先刻よりも多くの涙がたまっていて、それは堪えようと我慢するたびに頬に輝く線を描いている。

 きれいだった。

 本当に、本当にきれいだった。

 僕はすぅっとその顔に笑みを浮かべると、口元にも双眸にもゆるやかな弧を描かせる。けれどそうすると同時に、僕の身体からは完全に力が抜けていってしまった。リリアスに触れていた手が、滑り落ちそうになってしまう。

 ずっとずっと、一緒にいたかったのに。

 そう約束したはずなのに。

 それなのに、僕の身体は言うことを聞いてはくれなかった。深い悲しみが、僕の心中に生まれてくる。むさぼってくる。

 ねぇ、リリアス。

 もっともっと、君と話したかった。

 いろんな場所へ出かけて、色んなことを感じて、いっぱい笑って、たまには泣いて……。

 けど、それももう無理みたいだ。

 指先が、足先が、冷たくなっていく。視界がぼやけて、リリアスの表情もとうとう見えなくなってしまった。

 最後の呼気が、肺から押し出されていく。

 それでもリリアスは、今にも落ちそうになる僕の手を頬に当てて、小さな嗚咽を幾つももらしていた。

 北風が、一層強く吹き抜けていく。

 その日はやけに、月が輝いていた。



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