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天下界の無信仰者(イレギュラー)  作者: 奏 せいや
第1部 慈愛連立編
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かつての仲間


 恵瑠(える)は夕暮れの街を走っていた。小さい足音が響く。がむしゃらに走り、時折両目に浮かぶ涙を拭いながら、なにかから背を向けるように走っていた。

 それで立ち止まる。神愛が追い掛けてきている気配はない。恵瑠(える)は疲れた体を休めようと建物の影に立ち壁に手を付いた。

「ずいぶん辛そうだな」

「え?」

 そこへ声が掛けられた。


 振り返る。声をかけてきた人物は道の中央に立っていた。その人物は、

「ガブリエル?」

 白いスーツ姿をした女性、国務長官ガブリエルは一人っきりで立っていた。

「そっか。あの時助けてくれたのはガブリエルだったんだね」

 ペトロたちに襲われる間際建物が崩れたこと。本来なら出来過ぎだが彼女が裏で行動していたのならば納得だ。


「まあな。さすがに正面切ってやり合うわけにもいかんのでね」

「そうだね」

 恵瑠(える)は小さく笑うが元気はない。その表情からは活気がごっそりと削げ落ちていた。

「ずっと、付けてたんだ」

「当然だろう。教皇派の動きも気になる。それで、お前たちはこれからどうするつもりだったんだ」

「できれば、ミルフィアさんと合流してサン・ジアイ大聖堂に戻る、かな。ねえ、ガブリエルはミルフィアさんたちがどこにいるのか知らないの?」

「さて、私は聞いていないな」

「そっか……」


 それで二人の会話は止まった。ここには二人しかいないからか黙ると寂しげな空気が流れる。

 恵瑠(える)からの質問が終わるとガブリエルは恵瑠(える)の横を通り壁に背を預けた。恵瑠(える)も壁に背中をくっつける。

 町は夕日に濡れている。オレンジ色の光に暗い影。光と影の明暗をぼうと見つめながら、二人は静かに並んでいた。

「まさか、こんなことになるなんてね」


 そこで、初めて口を開いたのは恵瑠(える)の方だった。

 恵瑠(える)もガブリエルも正面を向いている。相手の顔を見ることなく、恵瑠(える)は落ち着いた様子で話していく。

「ごめんね、ガブリエル。たぶん、ボクが一番迷惑をかけたのはガブリエルだから」

「いい。気にするな」

 静かな謝罪だった。それをガブリエルは短く切る。視線を恵瑠(える)とは反対の右上へと向け、彼女も小さく言葉を返す。


「仲間……『だった』んだ。少しくらいはな」

「…………」

 ガブリエルの言葉が、影で覆われた二人の間に溶けていく。

「私にはお前の苦しみは理解できん。したいとも思わんが。ミカエルやサリエルはお前を軽蔑(けいべつ)するだろうが、不思議と私にはお前が嫌いになれなくてね」

「ガブリエルは、優しいから」

「そういう問題ではない。むしろ、これが優しさだとしたなら私は私を侮蔑(ぶべつ)する。それは甘えでしかないからだ」

「ガブリエルは厳しいね」

「当然だ」


 強気に言うガブリエル対して恵瑠(える)は弱気な声だった。意思というものに強さをつけるなら二人はとても対照的だ。

 そんな恵瑠(える)へと向けて、ガブリエルは追及する。

「一人で走って、なにから背を向けていた」

 ガブリエルの質問。それに恵瑠(える)は答えられない。

「お前はいつまでこうしているつもりだ」


 そこで初めてガブリエルが恵瑠(える)を見た。左にいる彼女をガブリエルは見下ろす。

「私は以前言ったはずだ、覚悟はしておけと」

 昨夜、ラファエルを加えた三人で湯船に浸かっている時、ガブリエルは彼女たちにそう言っていた。

「うん…………。でも、ボクは……」

 それは恵瑠(える)も覚えている。覚えているが、しかし、それをどこかで認められない自分がいた。

 ずっとこのままがいいと。

 変わらず、今が続けばいいと。

 しかし。


「いつまでも隠し通せるものではない」

 ガブリエルの断言が、恵瑠(える)の甘い願望を砕く。

 出来るはずがない。この期に及んで、それはわがままでしかない。ガブリエルは容赦なく現実を突きつける。

 それを受けて、恵瑠(える)の視線が下がった。

 いつかは変わる。

 いつかは終わる。

 そんなこと初めから知っていたはずなのに。

 けれど愚かにも、どこかで願ってしまうのだ。


 今ある幸福に浸っていたい。

 壊したくないのだと。

 だけど。

「……うん、そうだね」

 恵瑠(える)は、頷いた。

 現実に、天国も楽園もありはしない。永遠も、終わらない幸福もありはしない。

 それを今更ながら恵瑠(える)は受け入れた。

「聞いていいか」


 そこへガブリエルが聞いてくる。

「なぜお前は自分の道を選んだのだ、堕ちてまで」

「…………」

 ガブリエルの顔は正面に戻っていた。険しい顔のまま目を瞑り、その声はいつも通り真剣なのにどこか悲哀(ひあい)に満ちていた。

「何故だ。よりにもよって、なぜお前なんだ」


 その問いに恵瑠(える)は答えない。ただじっと黙って、ガブリエルの言葉に耳を貸している。

 それは質問というよりも、告白に近いものだったからかもしれない。

 隣人が黙って聞いてくれるからか、ガブリエルは思い留まることなく告白を続けていく。

 そして、ついにそれは核心に触れた。

「誰しもが、『お前に憧れていたというのに』」

「ガブリエル」


 そこで恵瑠(える)が口を開く。ガブリエルの言葉を遮るように。

 恵瑠(える)は正面を向いたまま、背を預けていた壁から離れた。そこから数歩進みガブリエルと距離を取る。彼女に背を向けたまま、恵瑠(える)は答えた。

「きれいな花がね、咲いていたんだ」

「…………」


 今度はガブリエルが黙る番だった。質問に答える恵瑠(える)の言葉を、ガブリエルはただじっと黙って聞いている。

「それをもっと近くで見たかった。実際に触れ合って、話がしたいって、そう思ったんだ」

 恵瑠(える)の独白は続く。静かに、静かに。その声は街の影に消えていく。

 恵瑠(える)は振り向いた。そこにいるかつての仲間を見つけ、恵瑠(える)は穏やかな声で尋ねた。

「そう思うこと、ガブリエルにはないの?」

「…………」


 質問にガブリエルは答えない。目を瞑った顔は険しいままだ。

「ふん」

 その目がゆっくりと開かれた。目は自分の足元を見つめており、ガブリエルは背筋を正すと歩き出した。恵瑠(える)に近づいてくる。そのまま歩き進め恵瑠(える)の横を通り過ぎる間際だった。

「あるものか」

 それだけを言い残し、ガブリエルは消えてしまった。

 この場には恵瑠(える)一人だけが残される。

 ガブリエルからの返答に乾いた笑みを見せながら恵瑠(える)は視線を下げた。

「うん……、そうだね」


 あるはずがない。そんなものは当然だ、なのになにを聞いているのか。愚かな質問だった。

 もしそんなことを思うなら、それは『裏切り』だというのに。

「いつまでも隠し通せない。そして」

 恵瑠(える)は、悲しそうに呟いた。

「味方なんて、いないんだ……」

 そう、裏切りだ。

 それが分かっていたのに、

 愚かにも、

 かつての自分は思ってしまったのだ。

 天上の星ではない。

 地上の花にこそ、愛されたいのだと。


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