約束だぜ、エノク。次に戦う時は、俺を越えてくれよ
今はエノクを連れていくことはできない。それは信用がないとかではなく、大切な弟まで巻き込めないから。それでこの愚直過ぎる弟が落胆するというのなら挽回の機会を与えよう。
勝負は勝てなかった。でも、次に勝てるように。
「約束だぜ、エノク。次に戦う時は、俺を越えてくれよ」
その顔を、エノクは見上げていた。
憧れの兄からの約束。今日は勝てなかったけれど次がある。これで終わったわけじゃない。
自分の道はまだ続く。その先で。
今度こそ。
「分かった……!」
この兄を、越えてみせる。
「約束する、絶対に!」
悔し涙をかみ殺し、この思いを胸に刻みつける。
「次戦う時は、あなたを越えるッ」
エノクは、約束した。
「おう、期待してるぜ」
そう言ってエリヤは歩き出した。公園からいなくなる。エノクは地面に伏したまま兄が遠ざかっていくのを感じる。
「う、う……!」
涙の勢いは弱まっていたが胸はまだ熱い。なんとか揺れの収まった頭で起きあがる。
その頃にはエリヤの姿は影もなく自分一人がいるだけだった。
寂しい思いはない。悔しい思いは無論まだ残っているがそれは負担ではない。むしろ原動力。この思いがあるからエノクは進める。
約束を果たそう。大勢の人を救う。この国の役に立つ。
そして次に戦う時こそ――エリヤを倒す。
ここからエノクの道が再び始まった。エリヤに追いつくという目標だけでなく、約束を果たすという新たな目的が加わった。
これから長い間、エノクはその道を進むことになる。そこには多くの困難が待ち受けていることを彼は知らないが、この騎士はそのすべてを達成していく。
エノクは歩き出した。明日に向かって。
教皇エノク、始まりの一歩だった。
*
エリヤは孤児院にたどり着いていた。扉を開ける。
「兄さん!」
玄関口に入るなりシルフィアが駆け寄ってくる。出かけるとは伝えてあったがいろいろ不安だったんだろう。
「兄さん? エノク兄さんは?」
「あいつはあとで戻るよ」
「また喧嘩ですか?」
「そういうわけじゃないんだが、まあ、あいつは大丈夫だ。それよりもあいつはいるか?」
「はい。今はリビングで休んでいます」
「そうか」
エリヤは緊張の面もちでつぶやく。ここに来るまでもおかしな連中がいないか注意はしていたがまだここには来ていないらしい。ラグエルの声では明日とのことだが予断は許されない。
「シルフィア、お前の服をくれないか」
「ええ!?」
シルフィアは一歩後ろに下がり体を反っている。おまけにエリヤを不審者のような目で見上げていた。
「んだよその反応は。お前なに考えてんだ」
「いや、兄さんがいきなり変態宣言をしたのかなって……」
「ちげーよ!」
緊張感のない妹にムカムカするがなにも知らないのだから仕方がない。
「俺じゃなくてあいつに貸してほしいんだよ」
「え? あいつって、エルさんのことですよね?」
「エル?」
「え、違うんですか? 名前を聞いたらそう答えていたのですが」
それを聞いてエリヤは片手を額に当てた。
(あいつはもっとまともな偽名が浮かばないのか)
そう思ったが敵対していた自分にうっかり名前をこぼしてしまうようだし、瞬間的判断力は低いのだろう。
「ああ、そのエルのことだ。今はまだサイズが合わないがどうしてもいるんだよ」
「ああ」
それでシルフィアもなんとなく察する。熟練の信仰者なら自分の年齢をも変化できると知っている。あの人がそうなのかと半信半疑でただ相づちを打った。
「一式だけでいい。他にも服あるんだし、別にいいだろ?」
「……下着は、ちょっと恥ずかしいんですけど……」
シルフィアの抗議を無視してエリヤは玄関にあがる。彼女の隣を通り過ぎリビングに向かった。
「あとタオルとかもてきとうにカバンかリュックにつめて用意してやってくれ。旅支度だ」
「ちょ、あの」
シルフィアは聞きたそうな顔を向けていたがエリヤは構わず進む。
「よう」
「エリヤ」
リビングではソファでウリエルが座っていた。家の中なのだから外せばいいのに今もカーテンを被っている。
「ウリエル、じゃなかった」
名前を呼ぼうとしてさきほど聞いた偽名を思い出す。