(これが正義か!?)
一つの悲劇は、大きな惨劇を生んだ。
人間による天羽の殺害。多くの悲しみは怒りと不満に変わり天羽と人類への戦争へと繋がった。
地上は今、かつてないほどの悲劇に満ちている。
嘆きが。
泣き声が。
怒声が。
悲鳴が。響く。響く。響く。空まで届かんほどに。
けれど、すべては燃え去り消える。
これは救済ゆえに。罪ある者も、罪の無い者もすべて。天羽軍による圧倒的な力の前に人類は為す術もなく敗戦と逃走を繰り返す。
そこに慈悲はない。
地上に救いはなく。
空に希望はなく。
英雄は、どこにもいなかった。
*
嘆きが、嘆きが聞こえる。苦しいと、熱いと、痛いと。叫び、泣き、泣き叫ぶ。
(やめろ)
悲鳴が聞こえる。助けを呼ぶ声が聞こえる。いくつも、いくつも。そこに怒声を混ぜて。
そんな彼らの胸を、剣が無慈悲に貫く。深く、いくつも。逆らう者に慈悲はなく、悲しむ者に救いはない。いくつもの涙が地面を濡らすが、いくつもの血が大地を汚すが、すべては無為に終わり燃え去り消える。
そして、地上から声はなくなる。
(やめろ!)
沈黙。それは恐怖。
(やめろ!)
諦観。それは絶望。
(やめろ!)
建物に押し込められた人類を、地上の遙か高みから羽を持つ者たちが見下ろしている。
空に希望はない。
あるのは恐怖、人類史における暗黒期だ。
(なぜだ、なぜこんなことをする!?)
地上に笑顔はない。
すべての人間を管理下に置くために、白い羽は空を飛ぶ。どこまでも、そこに人がいる限り。
そして、迎え撃たんと武装した兵士たちを、神の愛に逆らう者として処刑する。
彼らの求めた自由に、希望に、今まさに、剣が振り下ろされた。
「止めろぉおお!」
ベッドの上でルシフェルは目を覚ました。叫びながら上体を起こす。今まさに殺されんとする兵士へ手を伸ばすが、指先には誰もいなかった。
ルシフェルが目を覚ました場所は戦場ではない。自分の部屋でも中央局にある天羽長室でもない。見慣れたものとなった監査庁の一室だ。窓にはカーテンが閉められ室内は薄暗いものの、白い壁紙に凝った家具が並び天井には小さめのシャンデリアがぶら下がっている。控えめに言っても豪華な部屋だ。天羽の物とあって人間の王室よりも品はいい。
しかし、ルシフェルの精神は刻一刻と削られていた。
「はあ……はあ……」
さきほどまで見ていた光景が脳裏に蘇る。夜の町だった。人々は決められた建物に押し込められ自由を奪われていた。その様はまるで家畜だ。食料を与えられるだけの生活。それに耐えられず脱走するものの、その者は見つかりその場で……。
「う、うう!」
ルシフェルは片手を頭に当てる。表情は苦悶し精神に亀裂が入る。
ここに来てから、一週間以上が経っていた。ルシフェルはここで外界と遮断された生活を送っている。情報を入手することも発信することもできない、完全な軟禁状態だ。
だが、聞こえる。聞こえてくるのだ。次元を隔てた天界にいながらも、地上の声が。それは読心術、もしくは精神感応といった類のものなのか。無意識に他者の感情が流れてくる。
彼らの声が、彼らの絶望が、今も聞こえてくる。
『ぎゃあああ!』
悲しみが押し込まれてくる。
『がぁあああ!』
怒りが流れ込んでくる。
「はあ! はあ!」
日に日に強くなっていく地上の声。ふりほどこうにも止められず、耐えられず眠りについたものの夢にまで出てくる始末だ。
そこで見た、地上の惨劇を。絶望を。嘆きを。
(なぜ、なぜだ!?)
あれから一週間。たったそれだけの時間で、地上は広大な監獄だった。
四六時中、起きても寝ても嘆きが流れ込んでくる。ルシフェルはおかしくなりそうだった。頭が割れそうだ。怒りに我を忘れそうになる。悲しみに胸をえぐられる気分だ。
(これが正義か!?)
叫ぶように自問する。これまで信じてきたものの正体へ、糾弾するかのように。
(これが、私たちの理想か!?)
責めるように自問する。これまで目指してきたものの結果へ、非難するかのように。
ルシフェルは立ち上がった。歩いてみるものの足取りは不確かで壁に手をつく。歯止めの利かない感情の流入に苛まれながらもルシフェルは謁見の間で天主イヤスとした会話を思い出していた。結論として、自分では神の意向を変えることはできなかった。それどころから指揮権を剥奪されこの様だ。
なにもできない自分。
無価値な自分。
なんとかしたいと思うのに、なにもできない。
不甲斐ない。やり場のない怒りと悲しみだけが貯まっていく。
そんな一週間だった。
だが、この部屋に一週間ぶりの変化が起こった。
部屋がノックされる。ここに来て初めてのことだった。
「少し待ってくれ」
誰だろうか。ルシフェルは気分の悪い意識を気丈にも整える。次に念じることで着替えを済ませた。服装が瞬時に装着される。気品のある白のロングコート。白のズボンにはシミ一つない。
「入ってきてくれ」
ルシフェルの声に合わせて扉が開かれる。そこから現れたのはアモンだった。青の短い髪に人なつっこそうな瞳は相変わらずだ。
「よう兄貴」
「アモン?」
彼の登場にルシフェルの眉間にしわが寄る。軟禁中の今、会いに来るのは監査庁の者と予想をつけていたが彼の所属は別のはずだ。サリエルが面会の許可を出したのだろうか?
「なぜおまえがここにいる? 見張りはどうした?
」
本来面会には見張りの者が一人以上はつく決まりだ。それでルシフェルは聞くがアモンはばつが悪そうに頭を掻いている。
「いやー、それはちょっとね」
「まったく、お前というやつは」
どうやら黙って忍び込んだようだ。どうやって正面から入り込んだのかは知らないが悪知恵の利く男だ。
「まあ俺のことはどうでもいいじゃないですか。それよりも兄貴の方だ。驚いたぜ、捕まったって聞いてね」
「それで心配しに来てくれたのか?」
「時間はかかっちまったがな」
飄々とした態度をしているがアモンなりに案じてくれていたようだ。こうして忍び込んでまで来てくれたことといい、本気で心配だったのだろう。以前の助言を無駄にしてしまったことを胸中で申し訳なく思った。
「大丈夫ですか?」
「…………」
アモンの質問にルシフェルは目を逸らした。正直に告白すれば大丈夫というわけではない。さきほどまで発狂する寸前だった。こうして会話ができているのはそんな姿を見せたくないという一心だけだ。なんとか乱れる精神を理性がつなぎ止めている。
ルシフェルの中身はぼろぼろだ。それがアモンにも伝わったらしく寂しそうに目が泳いだ。
「なあ兄貴」
不穏な空気が漂う。アモンの言葉は弱々しく、同時に緊迫していた。それだけで彼がなにを言おうとしているのかルシフェルには分かる。
「現在天羽を統括しているのはガブリエルなんだが」
「アモン」
アモンはそのまま話し出そうとするがそれは危険だ。
「心配しに来てくれたのは嬉しいが、もうここから出た方いい。この部屋は監視されている、それ以上は」
ルシフェルがここにいる理由は外界との遮断だ。それにここは監査庁。当然不審なやりとりがないか監視、ないし盗聴はされている。忍び込んだだけでも規則違反だというのにこれ以上の情報提供は重罪だ。冗談では済まされない。
だが、アモンは指摘に悪びれた様子はなく扉へと歩き出した。そのまま扉を開ける。そこには槍を持った見張りの天羽が立っていた。背中姿がルシフェルからは見えるがしかし動きは見られない。ルシフェルに情報提供をしようとしたアモンが近くにいても注意どころか振り返ることもしなかった。
代わりにアモンが振り返る。
「大丈夫さ、今の見張りはこちら側だ」




