誰しもを、救いたいと願う私は、わがままだと思うか?
「ミカエル」
「はい」
ミカエルは真剣な表情で答える。ルシフェルは視線を足下に向け顔色は暗かった。
「誰しもを、救いたいと願う私は、わがままだと思うか?」
正義はあるが、冷酷になりきれない。理想はあるが、冷徹にはなりきれない。
行き着いたはずの結論が右に左に行ったり来たり。未だに迷っている、この期に及んでもまだだ。
ミカエルは沈痛な思いを顔に出して問いに答えた。
「あなたの考えはとても立派です。正しいものだと思います。でも……」
ルシフェルの悩みは分かる。痛みも共感できる。それでもルシフェルを案じる身としてはそのまま同意することは出来ない。
「この場において、その考えは危険です」
ここは戦場。正義や理想だけでは生きられない。甘えは死に繋がる。友の死など見たくない。
ミカエルの進言をルシフェルも当然理解していた。自分の考えが甘いことも承知している。正しい。正しいのはミカエルだ。自分よりもよっぽど正確に状況を捉えている。
それでも。
「……そうだとしても、私は……」
未だに割り切れない自分は、どれだけ甘いのだろう。どれだけ愚かなのだろうかと、自分を責めつつもやはり、すぐに割り切ることは出来なかった。
「なんだあの炎は!?」
そこで大声が挙がった。次々に天羽からも人間からも大声が聞こえてくる。
何事だ? ルシフェルもミカエルもすぐさに振り向いた。
ここにいる全員がそれを見上げている。その巨大さに連行する足も止まり唖然と見上げていた。
それは、巨大な炎柱だった。距離はかなり離れているがそれでも分かる。天高くまで上がる炎があるのだ。直後、この場を衝撃波と爆音が襲った。熱い。熱風とともに運ばれた音は発生から時間差を置いてこの場に届きみなから声が挙がる。ルシフェルの髪も衝撃波に激しく揺れた。
とてつもない光景だった。一つの炎の柱が伸びて雲にまで到達している。まるで火山の噴火のよう。いや、それでもこんなにも高くない。明らかに異常な、それでいて尋常でないエネルギーだ。
自然界に、こんなもの存在しない。
ルシフェルは、炎を見たまま聞いた。
「ミカエル、あの方角には誰がいる?」
「えっと、あの方角ですともともと我らと対立関係にあった国なので――」
「誰がいるんだ!?」
答えをはぐらかすミカエルに振り向きルシフェルは怒鳴った。
ミカエルは質問に率直に答えず状況を説明している。明らかに話題を逸らそうとしている。けれどもルシフェルから強い語気で聞かれ、観念したように誰かを明かした。
それは、最悪の答えだった。
「ウリエル様です」
その名前に、ルシフェルは全身に電流が走った。
「ちっ!」
ルシフェルは翼を広げる。すぐさに地面から離れ炎柱へと飛び立った。
「ルシフェル!」
ミカエルの呼び声も空しく、ルシフェルは音速を遙かに越える速度で消え去っていった。
焦燥が、ルシフェルの翼を急かしていた。
(なんてことだ……!)
見落としていた重大な欠陥に悪態を吐く。自分が迷っているために気が回らなかった。
今回の地上侵攻。迷っている者がいた一方で、人間側にもともと増悪を抱いていた者たちもいた。そうした天羽からすれば今回の侵攻は待ちに待った機会。同胞を殺害された憎しみを殺意に変えて、武器を研いで待っていた者ならば容赦はない。
(急がなくては!)
ルシフェルは表情を歪め突き進む。天にまで伸びる炎の柱を目指し、近づくにつれ周囲の熱量が上がっているのが分かる。
そして目的地に着いた時、眼下に広がる光景は、炎獄を描いたような凄惨な光景だった。
町が燃えていた。崩れていく人の住居は人々の知恵と努力の結晶だ。彼らが歴史とともに積み重ねてきた文明が、圧倒的な炎に呆気なく崩壊していく。大地は炎に包まれて、逃げまどう人々はすでに火の手に覆われ手遅れとなった炎の牢屋に捕らわれていた。
「ひどい……」
上空から見渡すルシフェルにも彼らの悲鳴が聞こえてくる。圧倒されるほどの数百、数千という膨大な悲鳴。町を飽和する悲痛の数々に、ルシフェルはどこから手を付ければいいのか、わずかとはいえ見失っていた。
その時だった。建物が崩れる下、そこに三人の親子がいた!
ルシフェルは空間転移を用い彼らの頭上に現れるなり落下してきた建物を切り裂いた。炎を纏った建築の成れの果ては大きな音を立て地面に落下した。ルシフェルはすぐに振り返れば三人は無事だった。突然現れたルシフェルを恐ろしそうに見つめている。
「早く逃げろ!」
叫んだ。この町は危険だ、絵に描いた地獄のようだ。
「走れ!」
ルシフェルが二度叫んだことで親子は走り出していった。ルシフェルは彼らから目を離し炎柱を見上げる。この地獄を作り出している張本人を探して目を動かした。
いた。それはすぐに見つかった。純白の羽を八枚広げ、宙に浮かぶ美麗の識天羽。
その名を、ルシフェルは叫んでいた。
「ウリエルゥウウウ!」
白い長髪を熱風に揺らし、ウリエルは冷淡な瞳で正面を向いていた。眼下の悲鳴には目も暮れず、町の上空を浮遊していく。いつもの白のワンピースではなく、ドレス調の白衣に鎧と剣を携え、壮烈さと美しさが融合している。
その様はまるで漂う死神だ。人々は彼女の姿を見上げ恐怖する。死がやってくる。すべてを燃やし尽くす炎の化身。抵抗も、怒りも、悲しみも、すべて、すべて灰になる。
残るのは灰、そして絶望だけ。
人々は戦慄し、最後の声を上げる。
そして思い知るのだ。
「我らが天主は人類の平和を望んでいた」
彼女こそ、
「しかし、おまえたちはその愛を知らぬどころか、踏みにじり、裏切った!」
審判の天羽。
「この炎は神罰の代行、神の怒りを知るがいい!」
神の炎。
「すべては理想のため、平和のため。邪魔な異物は灰となるといい!」
後に伝説となる、天羽ウリエルだということを。
彼女の叫びと同時に新たな火柱が立ち上がる。青空に突き刺さる第二の炎柱。
彼女を討伐しようと人間の兵士たちも馬に跨がり悪路の中を駆けつける。弓を、もしくは槍を手に彼女に投擲するが、
「無駄だ」
彼女が発した炎にすべては燃やされた。駆けつけた兵士の部隊も足場から噴き出した炎にまたたくまに消滅してしまう。
圧倒的だった。天から現れた羽を持つ者。それは神理のない、人理時代と呼ばれるこの時において無敵だった。
悪夢だ。逃げられない、どうしようもない業火が人の罪を消却していく。
差別などない。区別などない。これは、救済ゆえに。
「止めろぉおお!」
しかし、それを阻む者の声が現れた。
ルシフェルは翼を羽ばたかせウリエルに駆け寄った。互いに宙を浮遊する。ルシフェルはウリエルに掴みかかった。
「天羽長?」
突如現れたルシフェルにウリエルは軽い驚きと怪訝な顔つきになる。
「なぜだ……、なぜこんなことをしたぁあ!?」
「なぜ?」
ルシフェルの切迫した問いに疑問の色はさらに濃くなった。
なぜならば、彼女に悪気はない。むしろあるのはたぎる使命感と正義の心だ。
「あなたこそなにを言っている? 彼らは敵だ、私たちの目的を阻み、神の愛を否定する者たちだ」
「だからといって殺したのか!?」
けれども、そうだとしても。
今も聞こえてくる、多くの悲鳴と炎が燃える音。こうしている最中も多くの命が散っている。
ルシフェルには、理解できなかった。
ルシフェルの善性と、ウリエルの正義がぶつかり合う。
「彼らは戦う気だった。これは正義の戦いだ、交渉の余地はなかった」
「お前……、これが正義か!? 反対する者を弾圧し、殺し、同調する者だけを囲って! こんなものが私たちの正義か!?」
「そうだろう!?」
「!?」
ルシフェルは否定の数々を並べるが、ウリエルからの肯定に衝撃を受けた。
ウリエルは表情を引き締めルシフェルを見つめている。天羽長相手に一歩も引いていない。
「天羽長、はじめに無礼を謝っておきます。すみません。ですが、間違っているのはあなただ!」
ウリエルの気炎が吐かれる。
「今はあの時とは違う。イヤス様はおっしゃった。犠牲を覚悟で人類を救えと言ったのだ。その意義は人類の平和のため。幸福のため。私もそれを望んでいる! 真に救われるべき人類のために、悪しき者たちを罰するのだ!」
「天主はたしかにすべての人間を管理しろとは言ったが、殺せとは一言も言っていない!」
「目的を阻む者がいるのなら、倒さずしてどうやって理想を叶えるんだ!?」
ウリエルもルシフェルの胸元をつかみかかった。ルシフェルを睨み、強い意思が瞳に浮かぶ。
さらに、ウリエルは叫んだ。
「さきに殺したのは、向こうではないか!?」
「…………」
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。




