私がまた、道を見失いそうになったとき、同じ言葉をかけてくれないか?
「ミカエル」
「は、はい!」
そこで名前を呼ばれミカエルは大声で返事をする。何事だろうかと気を引き締めた。
「あの時、正直に言うと、嬉しかったんだ」
「?」
気をつけていた表情が疑問に緩んだ。あの時、というのがパッと分からなかった。言葉だけではない。ルシフェルの表情はじゃっかん嬉しそうにほころび、声は温かかった。
「私との約束を覚えてくれたいたことを」
「ああ」
それで思い出す。人類に裏切られルシフェルは自分の道を見失っていた。理想には裏切られ情熱の炎は消えかけた。
けれど、ミカエルがそばにいた。彼との約束と熱い言葉は間違いなく彼の胸を奮わせた。
「そんなの、当然じゃないですか」
それをミカエルは当然だと言うが、ルシフェルは懐かしそうに上空に目を向けて、遠いどこかを見つめていた。
「私と交わした約束は、間違ってなどいない、か……」
きっと思い出しているのだろう。会議室で落ち込んでいる自分に、熱意を以て励ましてくれた者の場面を。その言葉に救われた。彼の情熱に迷いは消えて炎は再び逆巻いた。
ルシフェルは上げていた顔を正面に戻した。
「なあミカエル、頼みがあるんだ」
「はい、なんでもッ」
ミカエルはやや前屈みになって答えた。彼からの頼みだ、彼の力になれる。使命感のような、それを果たせる喜びのような気持ちがミカエルを動かした。
「もし」
ルシフェルが言う。彼に、ミカエルに、かつての自分を立ち直らせた者に。
ルシフェルは、願いを託した。
「私がまた、道を見失いそうになったとき、同じ言葉をかけてくれないか?」
その言葉を、その願いをミカエルは黙って聞いていた。
「私が迷った時、もしくは道を誤った時、お前が私を呼び戻してくれ」
「…………」
その言葉に、はじめなにも言えなかった。
それは、彼の真摯な思いに、そこに込められた大きな願いに、多大な責任を感じていたからだ。
これは易々と首を縦に振っていいものではない。ルシフェルは真剣だ。この厳しい状況にたたされて、彼は自分の人生を、万が一の時にミカエルに託したのだ。この願いは彼の人生、誇り、情熱そのもの。天羽長の苦境を支えられる者など、生半可な覚悟ではできない。
それでも。
言ったのだ。
彼を誰よりも尊敬し、強い友情を信じていたから。
「はい」
ミカエルは真顔だった。目つきは力強く、声ははっきりとしていた。声は大きくなかったが、そこにはすべてを受け入れなお果たすという覚悟があった。
それを聞いて、はじめてルシフェルは振り向いた。
「ありがとう」
ミカエルは小さく、されど覚悟とともに頷いた。
どちらも真剣だった。時代の転換期に揺らぐ思いを感じながらも、決して変わらないものを感じていた。
同じ夢を見て、諦めないと約束した。苦悩と失意に殴られようとも。信念を裏切られたって。
一人じゃない。同じ理想を持つ者がここにいる。
二人は、変わらない固い絆を感じ合っていた。
ミカエルと別れてからルシフェルは天羽長室に戻っていた。扉を開け無人の部屋へと入る。自分の部屋という落ち着く空間。そこに身を置き改めて自分の心と向き合った。
天羽と人類の平和。
地上への侵攻。
理論的には合っているはずなのに実態は目的とは真逆の行為。矛盾は葛藤を生み螺旋のように思考が絡まりついてくる。ルシフェルは途方に暮れたように机の前で立ち続けていた。心の整理が追いつかない。
でも、決断しなくてはならない。苦悩はしているが迷っているわけではない、答えはすでに出ている。これは気持ちの問題だ。
思い出せ、自分がここにいる意義を。
奮い立て、最大の名誉を得られる喜びに。
決断しろ。自分は一人ではない。
「……うん」
ルシフェルは、小さくつぶやいた。自分の胸にあるもの。それは意義もあるし名誉もあった。だが、それ以上にあるのは、ミカエルの言葉だった。彼のまっすぐな情念が自分を後押ししてくれている。躊躇っている自分を。それでも二人でなら進める気がする。
「うん」
ルシフェルは呟いた。今日、迷いを捨てる。理想のため、名誉のため。そして、友情のため。
ルシフェルは、部屋を出ていった。
そして、その日はやってきた。あれから数日後の今日。
宣戦布告はすでにした。降伏を勧めたが多くの国は断った。戦う力のない小国でさえ、大国の意向に合わせ反旗をかかげた。それは分かり切ったことだった。戦うこともせずむざむざ降伏などすれば大国から襲われる。よって、ほとんどの国は握手ではなく武器を取った。
人類との、戦争が始まった。
晴れた日だった。まだ建築技術が発達していないこの時代、並ぶ建物は土を固めたブロックを重ね泥で固めたものだ。土地柄もあり黄土色をした家々が広がってる。とある大国の一つ。昼間のこの時間、今日のような晴れ模様なら町人たちの活気ある声が街道には溢れるはずだが、しかし現在それはなかった。
町の一角、大通りに立つのは鎧を被った兵士の列。全身を鉄の鎧で覆いかぶとも被っている軍団だった。対して距離を空けて対面する天羽の一軍。こちらは空を飛ぶためにも軽装な防具で銅と腕だけに装備している。互いに千にも及ぶ数の両者がにらみ合っていた。
一発触発の緊張が漂う。戦意はこの場に充満し、この場で立っているだけで心の弱い者は吐きそうだ。それほどの重圧がこの場に圧しかかっていた。
天羽軍の一番前にはルシフェルとミカエルが立っている。互いに銅と小手の鎧を付け腰には剣を下げている。正面には数百という敵陣が並び、自国の大きな旗がいくつも風に吹かれて泳いでいた。
状況は動かない。始まりの時を躊躇うように両者じっとにらみ合い、開始の時を待っていた。
「ルシフェル」
その時、隣にいるミカエルから声をかけられた。青さの抜けないミカエルに兵装姿は似合っていない。
「相手からしてみればこの戦いは防衛戦。攻めるのであれば」
ミカエルはそれ以上は言わなかった。続きはルシフェルも分かっている。
攻めるならこちらからだ。この戦いは経緯はどうあれ天羽がしかけたのだから。
「分かっている」
固い声で返事をする。正面にいる敵から目を逸らさないまま。ここで立ち尽くして無駄に時間を過ごしていてもなんにもならない。
自分で決断し、攻めなくてはならない。
(そうだ、その覚悟はしたはずだ)
誰に言う出もなく、自分に言い聞かせた。こうなることは分かっていたはず。
(こちらから攻める。それで、彼らを殺めることになろうと)
理想のための犠牲だ。無駄な死ではない、必要悪の、仕方のない行為だ。
戦うと決意した。逃げる気もない。神の使命、果たすことこそ最大の名誉。
(人を、殺める……)
けれど、どこかで、思ってしまうのだ。
(彼らは、自分を、もしくは誰かを守るために戦っているだけだ。悪でもなく、罪でもない。むしろ、人間の善い面ではないのか……)
戦意に満ちた表情の裏側で、心に引っかかりを感じてしまう。
迷いとは捨てるものではない。解決しなくては雑草のように生えてくる。
「くっ」
ルシフェルは小さく顔を振った。いけない、迷いが生まれている。頭から不審を払い落とす。天羽の長である自分が迷っていては他の者の志気を下げかねない。使命感が自分を正した。
示さねばならない。まず自分こそが、天主の意向を見せるべきだ。
こうしてはいられない。責任感からルシフェルは自身の腰に差した剣に手を伸ばした。
瞬間、敵も勢いよく剣を引き抜いた。即座に構える。不安と恐怖に急かされるように。
敵の動きを注視する中で、ルシフェルは見てしまった。
かぶとの奥から、怯えた瞳が一斉にルシフェルを見つめてきていた。
「…………」
それを受け止める。視線から伝播する彼ら一人一人の思いが胸を貫いてくる。それは冷たいナイフのように彼の心に突き刺さった。
柄に伸ばした手が止まっていた。剣を掴む直前で動きは止まり、手は震えている。
「ルシフェル……?」
不審に思ったミカエルが声をかけてくる。けれどルシフェルに応える余裕はなかった。
それどころではない。それどころではなかったのだ。
しまったと思うのも遅すぎた。
ルシフェルほどの実力者ならば人の心を見抜くなど造作もないことだ。呼吸をするほど自然に行える。むしろ戦場というこの状況、防衛本能ゆえか意図せず相手の意思を読み取ってしまった。
無意識に、相手の心が流れ込んでくる。
『死にたくない……死にたくない……』『殺される……! ここから逃げたい』『怖い!』
「…………」
頭の中に入り込んでくる数百という負のオーラ。たとえるなら自殺志願者か鬱患者で充満した密室に入れられた気分だろうか。自分の方までおかしくなりそうだ。感情がダイレクトに入ってくる分それ以上に精神が汚染されていく。
死の恐怖。怯え。不安。この場に満ちているのは勇猛果敢な戦意などではない。恐怖。それだけだ。
ルシフェルの表情が、だんだんと退いていく。額を一筋の汗が流れ落ちていく。




