荒れるな
あれから数日後、ルシフェルは天羽長室で自分の席に座り筆を走らせていた。木製の本棚やソファが置かれたこじんまりとした部屋だ。棚の上には花瓶が置かれている。落ち着いた雰囲気で、窓から日の光が差し込み部屋を照らしていた。
机の上は書類の山で占拠されている。残されたスペースは手元で読む分くらいだ。それらすべてに目を通しサインを書いていかねばならない。終わるのはいつになることか。見ただけで気落ちしそうな量だが、しかしルシフェルにそんな様子は見られない。むしろ上機嫌に書類を読んではサインを書いていった。表情にも余裕がある。
それも、状況が好転しているからこそだ。
天羽殺害という至上最大の問題を解決してから人類との交渉はうまくいっている。ピンチこそチャンスという言葉があるがその通りであるらしい。あの試練を乗り越えたからこそルシフェルたちは信頼を勝ち取った。苦労しただけに充足感は一入だ。
胸にはまだその時の達成感が余韻として残り、熱はやる気となって筆を走らせている。
「今日中に終わらせるか」
片づけるべき敵に侵攻された机を見渡し、ルシフェルはよしと気合いを入れて手元の資料へと目を落とした。やる気は十分だ、このまま宣言通りに本日中に終わらせてしまおう。
ドン、ドン、ドン!
「天羽長、大変です!」
が、扉を叩く音に直後背中を反った。せっかくいいところだったのだがタイミングが悪い。とはいえ追い返すことも出来ない。
「なんだ、騒々しい」
水を差されたことに若干気落ちしながらルシフェルは扉へ声をかける。
すぐに扉は開けられ男性の職員が入り込んできた。ここまで走ってきたのか息が荒い。必死な表情でルシフェルを見つめる。彼の入室に部屋は一瞬にして緊迫していた。
ただ事ではない雰囲気にルシフェルは自然と身構えた。
嫌な予感が全身を支配する。
花瓶に差した花びらが、床に落ちた。
「天羽が、人間に殺されました!」
「…………」
意識が漂白される。思考はわずかに停止して、現実感が退いていく。。体は固まり、時間だけが流れていく。
「…………」
驚きに、言葉も出なかった。
「天羽長!」
そこへさらなる報せが届く。もう一人の男性職員が走って部屋に現れると、息もつかぬまま大声でしゃべった。
「熾天羽であるウリエル様が、無断で天界の門を通過していきました!」
「なに!?」
ルシフェルはすぐに立ち上がり窓から天界の門がある方向を見た。
「ウリエル……!」
険しい表情で視線の先を睨みつける。
「私が降りた後すぐに天界の門を閉じろ!」
背後にいる部下にそう言いルシフェルは空間転移で天界の門に飛んだ。
広大な青空に浮かぶ巨大な門、天界の門。その全長は十メートルを超える。扉の先は光が溢れており見ることができない。通過は許可制であり多くの天羽が運営、管理を行ってる。現在も扉の周りを天羽たちが巡回している。
その門の前にルシフェルは現れた。見てみれば門の前は騒々しい。どうしようかとみなが焦っているように見える。
そこへ現れたルシフェルに警備していた天羽が近づいてきた。
「ルシフェル様! 今しがたウリエル様が――」
「退いてくれ!」
が、取り合っている暇はない。ルシフェルは近づいてきた天羽を強引に退かし天界の門へと突っ込んだ。
全身が光に包まれる。そのまま落下していく感覚が全身を覆う。これは次元移動を可能とする装置だ。高位次元宇宙である天界から、最下層である天下界へと落ちていく。
青白い空間を下へと降りていく。感覚としては落下に近い。しかし空気抵抗がないからか純粋に引力に引っ張られている感じだ。すると出口である光が見えてきた。その光に全身から突っ込む。
光から出た先、それは天下界の青空だった。背後には今し方自分が出てきたヘブンズ・ゲートがある。
ルシフェルはここの警備していた天羽に慌てて声をかけた。
「ここをウリエルが通ったはずだ! どこに向かった!?」
「あ、あちらです天羽長!」
警備の者は動揺こそしていたが指を指し教えてくれた。ルシフェルは礼を言うのも忘れすぐさま飛んだ。
(間に合え!)
彼の胸は焦燥に急かされ、危機感が警報を鳴らしていた。
ルシフェルが向かう地上ではすでにウリエルが人間の衛兵たちと対峙していた。槍や弓で武装した人間たちを前にしてウリエルは天羽の証である翼を広げ、その手には巨大な剣が握られていた。その目は灼熱の怒りに燃えている。
「なぜだ……」
絞り出された声は怨嗟の塊で、人間たちを前にして笑顔を浮かべていた彼女はここにはいない。
「なぜ!?」
その目は今にも泣きそうで、それでいて怒りを発している。
「止まれ! 動くな!」
人間たちから制止の声が届く。武器はすべてウリエルに矛先を向けているが彼女は意に介さない。そんなもので止まらないほどの怒りが燃えている。
「なぜ、どうしてぇ!」
彼女は叫んだ。涙が飛んだ。
愛していた、愛していたはずだったのに。彼らの笑顔と幸福に幸せすら感じていたというのに。
なのに、なぜ? なぜこんなことをする?
数少ない友人は殺された。その悲しみも痛みもまだ癒えていない。それを飲み、許そうとまでしたのに。
なのになぜ? なぜまたこんな目に遭わねばならない?
なぜ、誰かを苦しめる?
彼女が叫んだ直後、彼女の背後から炎の柱が噴き出した。十メートルにもなるその炎は轟音をとどろかせ天に伸びていく。
「うわああああ!」
その迫力と熱量に人間たちから悲鳴が上がる。こんなものを見せられて平然でいられるわけがない。殺される。誰もが彼女に恐怖していた。
ウリエルは剣先を人間たちに向け、振り上げる。
「止めろ!」
そこへ声がかけられた。ルシフェルはウリエルの背後に立ち剣を彼女の首筋に当てていた。
議論の余地はない。今の彼女はなにをしでかすか分からない。今もルシフェルが止めていなければ本当に人間を殺していたところだ。
「ウリエル。すぐさに剣を捨て投降しろ。さもなくば天羽長権限によりお前を堕天羽とする」
ルシフェルは初めて威圧的な態度でウリエルに告げた。それを受けてウリエルが小さく振り返る。
「……私が、堕天羽ですか?」
その顔は、悲しそうだった。
愛する人間に裏切られ、友人を失った。それだけでも耐えがたい悲劇だったというのに。
人間は、またしても裏切った。
耐えられない。もう。こんなことがあるか。こんなことが許されていいものか。
だから彼女は行動したというのに。
「そうだ」
ルシフェルは言った。彼女の気持ちは分かる。だが、それとこれは別だ。
「……ふ、ふふ」
それを聞いてウリエルは笑った。もう喜劇だ、こんなものは。滑稽にすら思えてくる。
「ふふふ」
この舞台では誠実さも純粋な願いにも価値はなく、なのに理不尽に怒るだけで堕天羽にされるのか。
この世界では、平和を願う祈りすら道化なのか。
人を愛する心も、幸福を願う気持ちも。そのために死んでいった友人の命すら無駄だというのなら。
ここはなんて、救いようがないほどに悲しい場所なのだろう。
「……う、う、ううう」
その時、ウリエルは泣いた。
剣が、手から落ちる。
ウリエルはその場にうずくまり、力なく俯いた。頬を通る涙がいくつも地面に落ちていく。
ルシフェルの来た道から何体もの天羽がやってきた。ルシフェルは剣をしまい部下に告げる。
「彼女を監査庁に引き渡してくれ。……手荒な真似はしないように」
「はい。了解です」
部下たちはうなだれるウリエルを起こしヘブンズ・ゲートへと連れていった。ルシフェルは彼らを見送りながら険しい顔でつぶやく。
「荒れるな」
人間による二度目の天羽殺害。これから起こる激動の予感に、ルシフェルは今から危機感を感じていた。




