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天下界の無信仰者(イレギュラー)  作者: 奏 せいや
第1部 慈愛連立編
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試練はその者の本質を暴く。重要なのは、なにを選択するかだ

 演説前、ルシフェルとミカエルは会議室で待機していた。ルシフェルは席に座ったまま両肘を机に立て顔は俯いている。意気消沈というべきか、今の彼にはいつもの覇気がない。

 ルシフェルの様子をミカエルは背後から見つめる。その瞳が憂いに細められた。なんという弱々しい背中だろう。普段の彼は自信と快活さに溢れ、星のように輝いていたというのに。目の前にいる彼の背中は翼をもがれた鳥のように、行方を失い途方に暮れているみたいだ。

 ミカエルの目線が寂しそうに下がる。


「ミカエル」

「はい」


 ルシフェルから名前を呼ばれすぐに返事をする。緩んでいた背筋を整えた。


「君は、どう思う?」

「私ですか?」


 背中越しに聞かれる。どう思うとは、人間による天羽殺害事件のことだ。それについてミカエルの意見が聞かれている。


「私が意見するなど」

「いや、いい。聞いてみたいんだ」


 本来補佐官が口出すことではない。これは四大天羽によって決められる最重要問題だ。ミカエルは口を濁すがルシフェルは改めて聞いてきた。

 声は疲れの色が滲んでいた。


「私は……」


 天羽長からの質問にどう答えたものか。ミカエルは思案する。軽々しく言えることではない。とても複雑な問題だ。天羽たちの心情をくみ取らなければならないが、人間たちとの関係を悪化させることもできない。判断が天秤のごとく揺れ動き思考を鈍らせる。


「よく、分かりません。ただ」

「ただ?」


 複雑な問題だ。絶対に正しいと言い切れる答えなど導けない。いや、そんなものははじめから存在しないのかもしれない。

 思考はきしみを上げる。

 けれど、思いならば一つだ。現実の問題とは反対に自分の心は一つのことだけを訴える。

 思いとは、時に現実よりも純粋だ。


「一人の悪行で、人類すべてを憎むことは誤りです。そうならないか、それが心配です」


 それが答え。具体的な方法など分からない。どうすればいいのかもてんで思い浮かばない。それはそれで無責任な発言だと叱責されるものかもしれない。けれど思いは本物だ、こう思うことに嘘も偽りもない。

 人類の平和。それを願っている。

 この思いに、嘘は吐けない。


「そうだな……」


 ミカエルの答えにルシフェルは小さく呟いた。具体性に欠ける役に立ちそうにもない意見だ、聞き流しているだろう。ミカエルはそう思った。

 すると、ルシフェルは俯かせていた顔を持ち上げた。どうしたのかと疑問が過ぎる。

 ミカエルが見つめる先。そこにある背中が、さきほどよりも大きく見えた。


「私たちと人類の交渉はまだ始まったばかりだ。困難の一つや二つ、あって当然だ。試練はその者の本質を暴く。重要なのは、なにを選択するかだ」


 声は、以前より力強くなっていた。

 

「この問題を解決するには、どちらか一方だけを見ていてはだめだ。どちらにも気を配り判断しなくては」


 事後法という厄介な問題。これを無視すれば人類は不信感を抱くだろう。しかし飲んだとしても天羽の怒りは収まらない。どちらを選んでも悪化する。あちらが立てばこちらが立たずだ。考え出せば迷宮のように答えが見つからない。雁字搦めのパズルだ。

 けれど一つの指針が道を示してくれた。それは荒れ狂う大海での羅針盤か、見失いかけていたものを教えてくれた。


「人に怒り、人類を憎まず、か」


 答えは決まっていた。ルシフェルの声には自信と活気が宿っていた。落ち込んでいた意気が晴れ渡っているのが分かる。

 ルシフェルの答え。それはどちらも立たせること。思考の天秤は右でも左でもなく、真ん中を選んだ。

 しかし、それはもっとも難しいことだ。秤はすぐに揺れる、乱れる。それを水平に保ち続けることなど困難だ。

 それでもその道を行くのか。

 試練はその者を試す。ここでどちらかを選択することも可能だ。それは容易い。けれど真に志しが高い者ならば、困難こそ正しい道。それを選べるかどうか。試練はいつも、自分を見つめている。


「私たちの同胞を殺めた者は間違いなく悪だ。それは人類たちにも訴えるべきことだ。しかし裁くことはしない。人類とともに歩むべき道をここで閉ざすことはない。それに反感を覚える仲間もいるだろう。それらの者に対し、私は訴え続けていく」

「天羽長……」


 彼の迷いのない言葉にミカエルは聞き入っていた。落ち込んでいる彼など彼らしくない。いつもの彼が戻ってきた。その喜びを感じるとともに、その強さに憧れる。

 夢が阻まれ、情熱に水を差される。ショックを受けるのは当然だ、普通の者なら諦めてしまう。

 しかし彼は諦めない。それだけの、強さがあるからだ。

 ルシフェルは椅子を動かしミカエルへ振り向いた。その顔は英気に溢れ、微笑んでいた。


「ミカエル、つき合ってくれるか?」


 憧れの者からの誘いに、ミカエルは元気に答えた。


「はい。当然です、天羽長」



 ルシフェルによる演説は予定通りに行われた。そこで彼は今回の事件を悲劇であると説明する一方、人類との関係を終わらせるような選択はしてはならないと天羽に説明した。このことはリアルタイムで天界中のいくつもの空に映し出され全天羽に伝えられた。当然失意をあらわにする者もいた。このことに憤りを覚えていた者は少なくない。

 しかしルシフェルの説明は続く。一つの誤りによってすべてを憎むのは間違いであると。この困難を乗り越えた先の未来と平和のために選択しなければならない。

 ルシフェルが説く言葉には強い情熱があった。平和を作りたい。その願いが言葉の節々から感じられた。悲しみと苦しみ。それを踏まえ、平和を作る難しさを話し、その上で言う。

 人類との共栄のため、平和を実現するために。

 必要なのは怒りではなく、罪を許すという慈愛の心なのだと。

 その演説に初めは反感を覚えた天羽も徐々に考えを改めていった。彼が演説を終える頃、この決定に反論するものは減っていた。

 それはルシフェルの強い意志があってこそ実現できた、歴史に残る演説だった。

 時を同じくミカエルはすぐさに地上へと降り王族たちと話をまとめ上げた。他国からはその高貴な姿勢に敬服を表され、事件を起こした国の王族からも一部感謝が伝えられた。政治だろう、表だって自分たちの非は認められなかった。だが、もしかしたら粛正として侵攻されるのではないかと、ある高官は夜も眠れなかったと話してくれた。その者と話をしてミカエルは思い知った。

 彼らも怖かったのかと。今日に至るまで天羽の決定に怯えていたのだ。

 苦しみを憎み、人を憎まず。かつてルシフェルが教えてくれた言葉を、ミカエルは理解できた気がした。

 それからも、ルシフェルは天界での演説に走り回っていた。

 同胞殺害という訃報(ふほう)に胸を痛めていた仲間たちへ実質上の無罪を言い渡すのは心苦しかった。会場に、時には木の下に。場所を問わず集まってもらった天羽の目の前で話をする。中には途中で泣き出す者もいた。それでもルシフェルは懸命に話した。人類全体との友好のため、ここは抑えて欲しいと。彼の情熱は本物だった。ルシフェルも亡くなった天羽のことは悲しいが、それでも理想を語った。その熱は彼らの心にも次第に伝わっていき、ルシフェルがそう言うのならと改めて賛同を示してくれた。

 ルシフェルとミカエルの行動、それに他の四大天羽たちもルシフェルの決定を受けてから縁の下で活動していった。そうしてこの問題は収束を見せ始め、ついには解決へと至ったのだ。

 人類は尊敬を。天羽は未来への理想を。ルシフェルたちはその架け橋となり、和解へと至った。人類と天羽との法ができたのだ。

 努力が、報われた結果だった。


「よかったな」


 とある丘の上でルシフェルは隣に立つミカエルに話しかけていた。芝生がそよ風に靡かれ気持ちよさそうに揺れている。頭上には青空が広がり眼下には浮遊する島と雲が流れていく。ここには二人しかおらず穏やかな時が流れる。


「はい」


 ルシフェルの声にミカエルは清々しい顔で答えた。よかった。本当にそう思う。はじめはどうなることかと思ったが、結果的に成功を納めた。

 多くの者たちの協力があった。ここにはいないがガブリエルもラファエルも、サリエルも熱心に取り組んでくれた。当然他の者たちも。彼らとの連携がなければ今をこうして迎えることは出来なかっただろう。

 それもすべて、この天羽の決断のおかげだ。

 ミカエルは横をそっと見つめる。

 真っ直ぐと正面を見つめる、ルシフェルの横顔がそこにはあった。絹のような滑らかな長髪、精悍な顔つき。他を圧倒する存在感なのに威圧感はなく、周りを引き込む陽性のカリスマ。

 ミカエルは小さな高ぶりを覚えていた。以前はこうして間近で見ることも叶わない偉大な天羽で、会うよりも前から憧れていた。それこそそこら中にいるファンの一人のように。

 なのに、こうして並んでいる。これまでのことでミカエルは実感していた。

 彼は、幻想ではなかった。本当に素晴らしい天羽なのだと。

 憧れは実体を持った尊敬に代わり、尊敬は喜びに繋がった。

 私が尊敬していた天羽は、真実素晴らしかったのだと、歓喜の思いを禁じ得ない。

 ミカエルは、本当にルシフェルを尊敬していた。

 丘に風が吹く。その風に当てられて、黒と金色の髪が揺れていた。

 そこでルシフェルもミカエルを見つめてきた。目が合う。互いに困難を達成した仲だ。視線が交わるだけでその気持ちが通じ合う。


「ふふ」

「はは」


 二人は、どちらからともなく笑い出した。


「「はっはっはっはっは」」


 丘の上に愉快な笑い声が広がる。今回、最大の事件を円満に解決できた。困難はあったが胸を埋めるのは疲労でも鬱屈でもない、気持ちのよい達成感だ。

 よかった。

 これに尽きる。

 二人は笑った。互いの功績を称えるように。認め合うように。


「これからも付き合ってくれるか、ミカエル?」

「はい、天羽長」


 ルシフェルからの問いにミカエルは明るく答える。断るはずがない。頼まれなくても自分からやるつもりだ。


「ルシフェルでいい」

「え」


 が、そこで言われた言葉に一瞬驚く。


「いえ、それは」


 さすがに天羽長の名前を呼ぶのは躊躇われる。補佐官とはいえ自分は大天羽でしかない。

 けれどルシフェルは笑顔を浮かべ、ミカエルを見つめ続けていた。


「……はい、ルシフェル」


 その笑顔に、ミカエルも明るい顔で応えた。

 笑い合えること。この時間がたまらなく嬉しくて、二人の絆を深くしていく。固くしていく。

 ミカエルは楽しかった。笑顔で笑い合えるこの一時が、最高の宝物だった。


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