人間よ、自分の家へと戻ってください。この時間帯は外出禁止となっています
某日。地上、天下界。
人が住む天下界には夜の帳が下り街は静まり返っていた。夜遅くまで営業している酒場も店を閉じ空には星々の輝きが広がっている。
「ひっく。うー……」
そんな寝静まった街道を一人の男が歩いていた。片手には酒の入った瓶をぶら下げ足並みは安定しない、今にも転びそうだ。顔は真っ赤に染まり一目で酔っ払いだと分かる。酒場の帰りか、その大柄な男は酒を飲んでは街をぶらついていた。
「おーい、誰かー。酒を持ってないか。おい、ちょっと呑ませてくれよ」
そう言いながら適当に目についた家の扉を叩いている。
「ったく、付き合いが悪いぞ! もう寝ちまったてか~。ゴクゴク……、かあ~」
家の住人から反応がないことを乱暴に言い捨て男は去っていく。住人からしてみれば迷惑な男だ。けれど当人は気にする様子もなく好物の酒を飲んでは上機嫌に笑い声を上げていた。
そんな時だ。
「人間よ、自分の家へと戻ってください。この時間帯は外出禁止となっています」
穏やかな声とともに、夜空から羽を持つ者が降りてきたのだ。純白のワンピースの裾を宙に揺らし、可愛らしい女性が男の前に着地する。
この国は天羽との協力関係を結んでいた。それにより天羽の治安維持が行なわれている。なにか問題があれば天羽が赴き、また街の巡回など犯罪を未然に防ぐために活動している。
すべてはみながよりよく過ごせるため。その誇りある使命と優しい願いを持って、今しがた現れた女性の天羽も仕事をこなしていた。
「みな一日の疲れを癒すため眠っています。その眠りを妨げぬよう、あなたも家でお休みください」
女性の天羽は微笑を浮かべ男に接する。そこには威圧ではなく慈愛によって平和を作ろうという彼女の想いが伝わってきた。
「ああー? 俺は帰らねえぞ!」
しかし男は指示に従わず大声で怒鳴り散らしている。自分の行動を咎められ暴れ出す勢いだ。
「ですが、これは規則です」
「うるせえ! 俺に指図してんじゃねえ!」
彼女はただ、平和を作り上げたいと、その理想に頑張っているだけだった。人間というものを愛し信じていた。
「え?」
その顔が驚きと恐怖に引き攣る。
男は、瓶を持った手を振り上げた。
*
天界中央指令局、天羽長室。
天界には夜というものがない。常に光に満ちたこの世界でルシフェルは机に座り筆を走らせていた。書類に目を通し指示書の製作をこなしていく。先日ウリエルと会ったからか、今日はいつもより筆の走り具合がいい。順調な仕事ぶりにルシフェルはやや上機嫌だった。
――ドン! ドン! ドン!
そこへ乱暴に扉を叩く音が響き渡った。ルシフェルの手が止まる。
「天羽長、大変です!」
「なにごとだ、騒々しい」
せっかく順調だった仕事に水を差されやや不機嫌に返事をする。
扉が勢いよく開かれ一人の男性が入ってきた。急いでここまで来たのか息が上がっており、その表情は必死で、じっとルシフェルを見つめてきた。
そのただ事ならぬ気配にルシフェルも身構えた。
そして、男は報告する
。
「天羽が、人間に殺害されました」
その言葉に、ルシフェルは冷水を頭からかけられたようだった。
「……なんだって?」
この瞬間、本当にルシフェルは時が止まったかと思った。それほどの衝撃だった。思考が僅かとはいえ完全に止まり、時間の流れすら忘れるほど我を失っていた。
当日、天界中央指令局は物々しい雰囲気に包まれていた。いや、今や天界全土に渡って緊張が走っている。
ルシフェルは険しい表情を浮かべながら指令局の廊下を歩き、会議室の扉を開けた。
中にはすでに他の四大天羽たちがおり、一つの長方形のテーブルの右側にはサリエルが、左側の奥にガブリエル、手前にラファエルが座っていた。また部屋の左奥にはミカエルが立っていた。ルシフェルが入って来たことに三人ともすぐに立ち上がる。ルシフェルはテーブルの奥である上座に座った。
「座ってくれ」
ルシフェルからの言葉に三人は着席する。
雰囲気は張り詰めている。着席を促したルシフェルの声も固い。みなが真剣な表情でこの会議室に集まっていた。
重苦しい空気の中、ルシフェルが口を開いた。
「本日集まってもらったのはみなも知っての通りだ。……地上で活動していた天羽の一人が、人間に殺された」
ルシフェルが言うがみなに動揺はない。すでに知っている。というよりも、知らない者は天界にいない。
これは、重大な事件だ。
ルシフェルの言葉を引き継ぎミカエルは手帳を開いた。
「私から簡単に説明させていただきます。先日深夜、無断外出している男を天羽が注意しました。ですが男は指示に従わず、その場で天羽殺害に及んでいます。この件についてすでに容疑者の身柄引き渡しを要請していますがその国は拒否しており交渉は決裂に終わっています。私からは以上です」
手帳から顔を上げる。この事態にミカエルの顔も緊張に固まっている。
人間による、天羽の殺害。この報せはすぐさに天界に知れ渡り多くの驚愕と悲嘆を与えた。天羽たちは同胞の死に涙を流し、犯人には激しい怒りを投げる者もいた。天界は今これまでにないほどに荒れていた。
そして、この事態にどう対処するのか。その動向に全天羽が注目している。
この会議はその方針を決める、四大天羽によって行われる最高位の会議だった。
「この事態に対して」
ルシフェルの言葉にみなが彼に顔を向けた。なにを言うのか、それに集中した。
「まずは、亡くなった天羽に哀悼の意を捧げる」
ルシフェルは真剣ながらも悲しみを滲ませていた。眉間にシワを作り目を瞑り、祈るように顔を下げる。それに倣いみな犠牲になった天羽に祈りを捧げた。
ゆっくりとルシフェルが瞳を開ける。
「そして、残念でならない」
目を瞑っていた四人へ、悔しそうな声が聞こえてきた。
人の幸福。地上の平和。それだけを願ってきた。人を愛していたのだ。だからこそ天主の使命にも心から賛同できた。
だが、今回の事件が起きてしまった。油断していた。どこかで人を善性だと思い込んでいた。自ら問題を起こすようなことはしないと。
油断していた。それを今回の件でルシフェルは痛感していた。
「今回の事件により多くの天羽が心を痛めている。それだけに天羽の殺害はあってはならない、重大な事件だ。事件が起こった国には引き続き容疑者の引き渡しを要求し事件の解明につなげていきたい」
そこまで語ったルシフェルだが、そこから急に視線を下げた。
「だが」
口調が変わる。その表情は心苦しいように歪み、もしくは消沈していた。
彼の油断。それは人が天羽を殺害しないと思い込んでいたこと。そのことにより重要なものを欠いていたことだ。
「天羽殺害の事件。これは重大な事件だと認めている。しかし、天羽を殺害した者、害した者。これを裁く法ができていない」
そう、天羽と人類では内政干渉の取り決めはしていたものの、それ以外の決まりがまだ空白だったのだ。
そこには人間が天羽を殺害した場合、どういう刑罰を与えるか、それすらも決まっていなかった。
しまったと思うのも遅すぎた。むしろなぜこれを最初に決めていなかったのか。それは分かってる。
人間を、愛していたからだ。まさかこのようなことをするとは思っていなかった。
甘かった。ルシフェルは重苦しい息を吐くのをぐっと堪え、話を続けていく。
「もしここで我々が我々の裁量で、強引に容疑者を裁くことがあればそれは明確な事後法となる。それは人類に大きな不信感を抱かせるだろう」
事後法とは起きた事件に対して、その後に出来た法で裁くことだ。いわば不意打ちであり、法律の意義を壊してしまうため事後法はしてはならないとされている。
今回の事件、最大の争点がそれだった。この事件を裁くことは事後法に該当する。
それは法律的観点からすればしてはならないことだ。
だが、そうだとしても今回のこれは重大、かつ悪質だ。これを裁かないというのはそれはそれで問題がある。
この前代未聞の大事件を前にして、天羽長としての器量が試されてる。
ルシフェルは険しい顔でみなに向かって言った。
「結論を言えば、私はこの件を、ジュルーム国に任せようと思う。同時に今後このようなことがないよう、法を作り上げていく。それが私の意見だ」
彼は、己の考えを述べた。
それは事後法にならぬよう、天羽側で裁かないということ。人類側に配慮した形だ。感情ではなく理論を優先した、今後の両者にとって最善の選択だ。
「みなの意見を聞かせてくれ」
が、そうだと思っても百パーセントの賛同を得られないのも分かっている。欠点がないわけではない。ルシフェルはみなの意見を募った。
それに最も早く答えたのはサリエルだった。
「ダンナ、俺から言っていいかい?」
「かまわん」




