無事でよかった……!
天和は五十鈴から目を離すと、曇天の空を見上げていた。
「無我無心って、強いのに使えないのが痛いわね」
「……それ、天和殿が言います?」
今日のおまいうである。
「そう言うなら天和殿がなんとかしてくださいよ。天和殿なら一瞬でござろう?」
「めんどくさい」
「……いや、めんどくさいって。さきほどあなたが――」
「五十鈴」
「はい」
「めんどくさい」
「分かりましたよもう~」
この人のマイペースには同じ無我無心といえどお手上げだ。どうすることもできない。
次の瞬間、五十鈴の目は鋭く細められ教会を見上げていた。視線のさきには倒したはずのラファエルがいた。
「……まだ生きてますね、あの天羽」
そう言うと五十鈴の手にはいつの間にかクナイが握られており慣れた手つきで逆手に持つ。おどけていた彼女から静かな殺意が漏れる。まるでスイッチが切り替わったように、自然なまでの意識の移り方だった。まるで服を着るように人を殺せるかのような感性。
間違いなく、彼女は殺人に身を置いた闇の住人だった。
「私が始末しておきますか」
「しないくていいわ」
それを天和が止める。まさか止められると思っていなかった五十鈴がおどけた調子に戻る。
「およよ? いいのでござるか? 天和殿のことバレてしまうでござるよ?」
「記憶はすでに消してあるし大丈夫よ」
「しかし危険でござるよ。消すなら今が一番でござる。殺さぬのは何故でござるか?」
情報漏えいを防ぐならばここで息の根を止めておいた方が確実だ。死人に口なし。忍者である五十鈴としてはそれしか思い浮かばない。
天羽というだけで危険であるのに、いったいどんな理由で止めたのか。
天和は答えた。
「なんとなく」
「なんとなくでござるか……」
そんな理由で止めたのかと五十鈴はまたも呆れ顔になってしまう。その後やれやれと頭を掻いた。
「はあ~、天和殿のなんとなくは頑固でござるからなぁ」
「じゃあいいでしょ」
「はいはいでござる~」
そんなこんなでしぶしぶだったが五十鈴は納得したようだった。
するとまたもやなにか感じ取ったのかここに来る道を見つめた。
「ん。何者か近づいているでござるな」
こちらに来る気配に五十鈴は姿勢を正す。
「消えるの?」
「拙者も知られてはならぬ身なので」
どうやら普段は隠れていなければならないらしく五十鈴は両手を合わせ印を結んでいた。そのまま頭を小さく下げ瞳を閉じる。
「それでは拙者は消えていますが、くれぐれも気を付けてくださいよ」
お調子者らしい明るい声で言う。上忍くノ一というには性格はそんな感じではない。
五十鈴は片目を開いて天和を見る。
だが消える前、真剣な声で、自制を求めるように、彼女のもう一つの名を呼んだ。
「『薬師如来殿?』」
そう言い、五十鈴は現れた時と同じように空間へと消えていった。
天和は黙って五十鈴の言葉を聞いていた。早い動きで流れていく黒い雲を見上げている。
反応はない。ただいつものように、平然と、平静に、表情はみじんも動くことなく立ち尽くしている。
彼女はなにを考えているのか、それは誰にも分からない。
けれど。
彼女がほんの少しだけ、寂しく見えるのは一人だけだからだろうか。
「天和ー!」
天和が一人佇んでいるとここへ来た道から声がかけられた。
見れば、そこにいたのは加豪だった。息を切らし必死な表情で走ってくる。
「あ、来た」
走り寄ってくる加豪が天和の前で立ち止まる。肩を大きく動かしていることからよほど一生懸命走り回ったのだろう。別れてからたいした時間は経っていないものの、仲間とはぐれた時間はそれよりも長く感じたはずだ。それがこうして無事に再会できたのだ。
その第一声。それは鼓膜が破れるほどの大声だった。
「こぉんの、バカ! どこ行ってたのよ! めちゃくちゃ心配したんだからね!」
加豪の大声が顔に吹きかかる。めちゃくちゃご立腹だ、眉間のしわがやばい。
「ごめんなさい。ちょっと気になることがあ――」
言葉の途中、突然加豪が抱き寄せてきた。天和の背中に腕を回し彼女の大きめの胸が顔に押し付けてくる。
「無事でよかった……!」
「…………ん」
だが、文句は出てこない。
加豪は心底安堵している。本当に心配していたようだ。無事な天和を見てホッとしている。最初に怒鳴ったのもそれだけ辛かったんだろう。
加豪から解放され天和はボーとした目で見つめた。
「まったく、あんたは相変わらずね」
「まあね」
むしろ戸惑う天和も見てみたい気もする。
加豪は天和から地面に顔を向けた。派手に壊れ地盤がでこぼこだ。同時に支点も壊れている。
「天和が無事だったのは良かったけど、ここの天羽はどうしたの?」
「さっきと同じ。ここには誰もいなかったしはじめからこうだったわ」
「そうなの?」
加豪は改めて周りを見渡してみた。荒れている以上戦闘はあったのだろう。護衛の騎士たちも倒れている。それに加豪は顔を悲しくした後教会を見上げた。
一階部分が一部前に出ている。その屋根の上、壁がへこんでいた。瓦礫などが転がっている。
しかし、そこには誰もいなかった。
「そう……」
それで加豪は納得する。疑問はあるが天和がこう言う以上そう信じるしかない。
天和はちらりと横目で教会を見上げた。そこにはラファエルが横になっていたはずだが、どうやら五十鈴が上手く働いてくれたらしい。
「どうも私たちの知らないことが起きてるようね。でもこれで支点の二つが破壊された」
「いいえ、それともう一つ。北の支点も破壊したようね」
「ほんとう? ならあとは一つね」
結界の支点の三つは破壊された。順調なことに加豪は素直に喜ぶ。このままいけば天界の門の完全開放を防げる。
「この調子なら大丈夫そうね」
希望が湧く。目的達成まであと一歩だ。
だが、天和は無情にも加豪の期待を否定した。
「いいえ、どうやら手遅れだったようね」
「え?」
見上げる。頭上に浮かぶ天界の門は聳え立つほど大きくまるで山のようだ。威容を誇る門には幾百にもなる天羽たちが回遊しながら守っている。
その門が、とてつもない勢いで開いていくのだ。扉の動きが目で分かる。今までは動いているのか見ても分からないほどゆっくりだったのに。
「そんな!?」
みるみると開いていく扉に加豪は凍りつく。この調子などと悠長なことは言っていられない。訪れようとしている、終わりの時が。
「開くわ。このままでは、確実に」
「早くしないと!」
天和と加豪は天界の門から視線を外す。支点は残り一つ。
「残りの支点の場所は……」
加豪は最後の一つがある場所を頭の地図に描き、そこへと顔を向けた。
「北区、ヴァルカン美術館」
そこが最後の一つ。そして。
「神愛……!」
神愛が向かっている場所だ。彼がそこを破壊できるかどうか。それにすべてが掛かっている。
「宮司君、間に合うかしら」
時間は残りわずか。絶望の時はすぐそこだ。無限の軍勢はそこまで来ている。
天界の門を巡る攻防。人類と天羽の戦い。
それは、一人の少年に託された。




