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天下界の無信仰者(イレギュラー)  作者: 奏 せいや
第1部 慈愛連立編
176/428

回想

 むかし、そう、これは遠いむかし。とある無人の村に、一体の天羽が舞い降りた。


 時刻は深夜、周りには土を固めた家々が並んでいる。電気がないこの時代、夜空には無数の星々が輝いていた。まるで宝石のようだ。

 けれど、その美しさを称える者はいない。ここは無人の村。周りにある家もそのほとんどが崩れ落ちている。破壊と蹂躙。その後に残った残骸がここだった。

 その中央に白い長髪の女性が立っていた。高位の天羽の証である八枚の翼を折り畳み、一人で佇んでいる。純白のバトルドレス。その姿は夜空の下で一層映え、澄んだ真白の髪は夜風に小さく揺れている。

 その立ち姿は儚い。物憂げな雰囲気を漂わせ、彼女は崩壊した村で沈黙のまま佇んでいた。

 知ってる者からすれば目を疑うことだろう。ここにいる天羽こそが、炎の化身とまで言われたかの四大天羽ウリエルであることを。その輝きは太陽の次に眩しく熱いとまで言われ、数多くの戦場では武勲を立てた。

 その彼女が沈んでいる。存在感も希薄で、風が吹けば灰のように飛んでしまいそう。空虚な心は行き場を失くしウリエルは途方に暮れる。

 ここに来たのは、人間に会うためだった。戦うためではない。裁くためでも滅ぼすためでもない。

 ただ会いたかった。会えずともただ見たかった。

 笑顔を。

 武勲を立てた報酬を。これが私の功績だと、胸を張れる光を。

 だけどどうだ、見るがいい。そして思い知れ。

 崩壊した家を。

 無人の村を。

 自分の無力さを。

 叩き付けられる現実になにも出来ない己を呪うだけ。

 なんと憐れで無様なことか。

 これが結果だ。報酬でも功績でもない。望んでもいない。けれど、これが事実。

 自分が起こした現実なのだ。

 周辺にある村は全部回った。ここが最後だ。天羽たちの布教に抗う者たちが住まう地域、ゆえに先ほど天羽たちによる執行が行われた。それを聞いて駆け付けたが結果はご覧の通り。生存者ゼロ。

 戦った。戦ったはずだ。理想を掲げ、正義に燃えて、求めたもののため全力を尽くしたはずだ。

 なのに、ないではないか。どこにも。欠片も。これが報酬か。今まで理想を信じてきた自分への。

 ウリエルは、途方に暮れていた。もうどうすればいいのか分からない。突きつけられる現実に立ち止まる。歩こうにも行先が分からない。

 これから、なにを信じて進めばいいのか、分からない。

 ウリエルが忘我の心境で佇んでいる中、彼女の背後に別の天羽が舞い降りた。着地前の羽ばたく音がすると両足が地面につく。ウリエルは静かに振り返った。


「ラグエル……」


 そこにいたのは白衣に身を包み、黒の髪を切り揃えた男の天羽だった。精悍な表情をしている、四十代ほどの落ち着いた雰囲気のある天羽だった。

 彼から声が掛けられる。


「ウリエル様」


 畏まった言い方が暗闇に響く。そこには敬愛の念が感じられた。彼の真面目な気質だろう、顔つきも隙のない表情をしている。


 ウリエルは小さく苦笑を浮かべた。

「様なんて付けなくていい、君は偉大な天羽だ」

「いいえ。あなたは四大の天羽。あなた方より偉大な者などいません」


 ウリエルは天羽の中でも最も優れた称号である四大天羽だ。しかしラグエルもそこに三体を足した七大天羽に数えられる高位の天羽。ほとんどの天羽が見上げる偉大な天羽だ。しかし彼から驕りや権力志向のようなものは感じられない。彼はどこまでも真面目なのだ。


「ですが」


 ラグエルが表情を僅かに引き締めた。尊敬の眼差しはそのままに気迫が宿る。


「天羽を見張り堕天羽を裁くのが私の使命。それは四大天羽でも例外ではありません。あなたも執行対象です、ウリエル様」


 彼がここに来た理由。それは(いたずら)でも世間話をしに来たのではない。

 仕事だ。己の役目を果たしに来たのだ。


「これ以上の干渉はお止めになってください。しばらく天界でお休みを。でなければ本当に……」


 ウリエルがしていたこと。地上に降りているのは無断であり、人との接触は規則違反だ。間違いなくウリエルは天羽の法に触れている。

 いかに四大の天羽といえどこのままなら堕天羽だ。そのことにラグエルは心配していた。ウリエルは尊敬する天羽、それが堕天羽になることを彼は望んでいない。そのため警告に留めウリエルを連れ戻しに来たのだ。


「それは……、無理な相談だ、ラグエル」


 しかし、ウリエルは断った。ラグエルの気持ちは分かる。心配してここまで来てくれたのも分かっている。

 それでも、ウリエルは顔を縦には振れなかった。表情は陰を落とし、彼女は彼の申し出を断った。


「なぜ、どうしてですかウリエル様。なぜあなたが!?」


 明らかな拒絶を前にしてラグエルは叫んでいる。理解が出来ない。このままでは間違いなく堕天羽だ、それは分かっているはず。なのになぜ断る? なぜこだわる?

 人間に。


「誰もがあなたに憧れていた。尊敬していた! その迷いのない目と、神の愛に応えんとする情熱に、すべての天羽が敬服していたというのに――」

「ラグエル」


 ラグエルの熱弁をウリエルは冷めた声で遮った。無表情に近い顔で。


「私がしてきたことのすべては……」


 ラグエルの言っていた客観的な評価。ウリエルを称える数々の言葉。

 しかし本人からしてみれば虚しいだけだ。そんなもの飾りでしかない。本当のことを自分は知っている。


「人を殺したことと、同族を殺したことだけだ」

「ウリエル様……」


 それだけのこと。言ってしまえばそれだけのことだった。

 これのどこがすごい? どこが素晴らしい? こんな醜悪でしかないものを今まで正義だと思い込んでいた。

 けれど気づいた。すべては虚構の正義だったことを。


「私はね、ラグエル。気づいてしまったんだ。私が行なってきた行為によって生まれた、人間の苦しみ、痛み、悲しみ。それらすべてがひどいことだと。今では、ルシフェルの言っていたことが良く分かる」

「反逆者の言葉です! 耳を貸すことはありません!」


 ウリエルの言葉に、即座にラグエルが噛み付いた。


「いや。私はもっと早くに耳を傾けるべきだったんだ。彼の言葉が今では重い。人間の意思とは自由であるからこそ尊い。それを誰かが奪うべきではなかったんだ」


 そう言うウリエルの顔は儚く、下を向いている目は遠い昔を見ているようだった。

 その時、ウリエルの瞳から涙が零れた。


「ウリエル様……?」


 静かな落涙。涙はゆっくりと頬を伝っていく。

 思い出す。思い返す。湖の底から泥が舞い上がるように、記憶が浮上する。

 蘇るいくつもの記憶。自分の過去。それら過ちの歴史にウリエルは今も涙が零れている。


「救えると信じていた。私の行いで、いつか、誰しもが幸福になれると。地上は愛で満たされ、平和がみなを笑顔に変えると。私はそう信じて今までを生きてきた!」


 悲しみの諦観、悔恨の怒り。ウリエルの心は揺れている。悲しみと怒りが行ったり来たり。


「だけど……、それは間違っていた。私は、目の前を見ていなかった。まさに今、そこにある悲劇から目を背け、信仰の輝きに目が眩んでいただけだったんだ」


 思い出すだけで押し潰されそうだ。瞼を閉じれば裏側には過日の光景が見える。燃える街、悲鳴を上げる人々。

 それを容赦なく行う自分。


「私の炎で、多くの人が亡くなった……。苦しみ、痛みながら。彼らは泣いていたんだ」


 悲しい。それだけしかない。


「なぜ気づけなかった? 私は、本当は、その苦しんでいる彼らをこそ救いたかったのではなかったのか!? 苦しんでいる者を救いたい、笑顔に変えたいと、そう思っていたはずなのに!」


 怒り。それしかない。


「私は、誰も笑顔に出来ていなかった。私の行いは、私の努力は、私の信仰は! ぜんぶ、無価値なものだったッ」


 ウリエルは泣いた。叫び、涙を飛ばした。こぼれた涙が宙を飛ぶ。

 ウリエルは叫んだ姿勢を正した。顔は依然と下を向き、前髪に隠れて表情は見えない。まるで幽鬼のような佇まいでウリエルは言った。


「ラグエル、私はもう戦えない」


 告げたのだ、もう戦えないと。

 戦うための動機を失った。今となっては抜け殻だ。理想も正義も失くしてしまった。

 だがそれは彼女だけじゃない。これは誰しもが陥るかもしれない、理想の代償なのだ。


『兄さん、私はもう戦えない』


 それはとある信仰者の言葉。これから二千年後の未来でも起こる葛藤だった。誰であれ苛まれる理想と現実。それほどまでにこの矛盾は深いのだ。

 救うために殺す。

 この矛盾を背負って生きていくにはあまりに重い。理想に燃え、未来に想いを馳せて、己を厳しく律しようとも。困難には気持ちを鼓舞し、理想のためにとすべてを捧げても。

 いつしか気づく。

 現実と理想の乖離。

 救いたかった。守りたかった。平和を作り愛を育てたかった。

 そのために殺すこと。壊すこと。争いを起こし命を刈り取ること。

 悲劇どころじゃない。ひどい喜劇だ、醜悪すぎて笑いが出てくる。

 同時に、涙が零れる。

 気づいた瞬間自分が保てなくなる。自己矛盾に押し潰される。

 ウリエルは気づいた。だから彼女は戦えない。戦うために必要な動機がなくなってしまったから。あれほど熱く燃えていた信仰心は燃え尽きて、吹けば飛んでいく灰へと変わってしまった。

 ウリエルの変貌。それはかつてと比べものにならないほど憔悴したものだった。それを目の当たりにしてラグエルの表情が曇る。


「やはり、間違いだった。あなたは人間と接触し過ぎた。地上への布教が交代制なのは我々天羽が人間に染まらぬようにするためだ。我々の崇高さと純真さを保つため、人間との接触は最小限に保たねばならない。だが、あなたは戦場に居すぎた。あなたならば大丈夫だろうと楽観していたが、よもやあなたがそこまで……!」

 ラグエルに去来するのは後悔だ。憧れや尊敬は時に目を曇らせる。誰もが予想だにしていなかった。ウリエルがこうも変わってしまうこと。だが誰も彼女の苦しみに気付いてあげれなかったこともまた事実。

「失望か?」

「…………」


 ウリエルの言葉にラグエルは答えられない。


「褒めては、くれないか」

「…………」


 返答はない。そのことにウリエルは寂しそうだった。それを見てラグエルも寂しそうな表情を浮かべた。

 その後表情を引き締める。気持ちを切り替え、ここに来た目的を思い出す。


「ウリエル様、あなたに堕天羽登録の警告を発します。身柄を拘束し、天界へと連行します。抵抗する場合、堕天羽の認定を行ないます」


 天羽を見張り堕天羽を裁く。それがラグエルの役目だ。その性質上彼の位は高い、七大天羽なのも頷ける。その執行となれば四大天羽であろうとも逆らえない。


「ウリエル様。どうか応じてください。私も出来るだけ便宜を図ります。みなもあなたの帰りを待っている!」


 ラグエルの言葉に偽りはない。ウリエルの行為が天界で裁かれることになっても擁護はするし、多くの尊敬を集めるウリエルが戻ってくることは天羽みなが願っていることだ。


「…………」

「ウリエル様!」


 けれど、ウリエルは答えない。黙秘を続けている。

 代わりに、


「ラグエル」


 ウリエルはラグエルを見た。

 悲しそうな瞳で。

 夜の暗がりに純白の翼が広がる。翼が開く音と共に八枚の羽が展開された。羽自体が微かな光を発しウリエルを照らし出している。ウリエルは左の掌を上に向けると、そこから炎が渦を巻いて現れた。熱風に煽られ白色の長髪が巻き起こる。

 輝く翼、揺れる長髪は優雅だ。渦を巻く赤に、なびく白色。暗闇の舞台に白衣のドレス。彼女の持つ色彩が幻想的なまでの一致を見せる。

 その中で、彼女は悲哀に満ちた瞳を向けていた。


「ごめんなさい」


 それは問答の終了を意味していた。言葉ではすでに止められない。彼女の諦観はそこまで深く、固かった。


「……フッ」


 ラグエルは笑った。あれほど拒まれ続けていたことに胸は焦燥していたというのに。彼女は堕天羽としての道を進もうとしている、止めねばならない。ここで止めねば彼女は敵になってしまう。それだけはなんとしてでも阻止しなければならない。

 そう思うのに。

 それすら失念するほどに、


「お美しい……」


 彼女は美しかった。見目も、その心も。悲哀の美とでも表現するような、そんな儚いがゆえの美しさがあったのだ。

 その美しさに心を惹かれ、ラグエルは小さく笑った。

 抵抗はしなかった。ウリエルから放たれる炎の奔流を、ラグエルはむしろ受け入れた。


「がぁああ!」


 全身を呑み込む炎熱、体を蝕む熱量にラグエルは声を漏らす。

 ウリエルの攻撃に吹き飛ばされたラグエルは地面に倒れた。それを見てウリエルは翼を羽ばたかせ、夜空へと飛び立った。決別の言葉はなく、無言での別れだった。

 飛び立つウリエルを見送りラグエルは瞳を閉じる。その表情は、微かに笑っていた。

 この日より、ウリエルは正式に堕天羽となった。天界の法を破り天羽を裏切って。

 それから少しして天界紛争は終戦した。堕天羽たちは逃げ去り、同時にルシファー協定により多くの天羽は天界に戻り、天界の(ヘブンズ・ゲート)は閉じられた。残された天羽だけが特別に人間に紛れ、彼らを見守り続けていくことになる。

 人類史における天羽の歴史。それはこうして幕を下ろしたのだった。


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