天界の門(ヘブンズ・ゲート)
四つの鍵の内、三つは定められた場所へと赴いた。それは二千年前から決まっていたこと。止まっていた歯車は回り出し運命は再び動き出す。
その時を直前に控え、天羽長、ミカエルはすでに屋上の中央に立っていた。さきほどまで青空が広がっていた上空は暗雲に覆われ、屋上に吹く強めの風がコートを揺らした。それでも扉に背を向け一人で立つ姿は様になっている。暗がりに落とされようともその造形は美の極点だ。切れ長の瞳に柔らかな金髪。モデル顔負けの美貌は薄く笑みを作り、一人歓喜を噛み締めていた。
胸の興奮はさきほどから絶えず暴れている。
「くる……」
表情は恍惚に輝いていた。少年が敬愛なる父に褒めてもらえるような、もしくは恋する乙女のように。待ち侘びた、待ち侘びたぞこの時を。そう思う心の声が止まらない。
「ついにくるのだ、この時が。私の夢が、私の意義が、私のすべてが。ようやく降りてくる」
彼の声を聞く者は誰もいない。それでもミカエルは言う、言わずにはいられないのだ、この歓喜を言葉にしないと気が狂いそうになる。
「偉大なる我らが父より使命を受けて二千年、裏切りに遂行は阻まれ、新たな神理によって地上は激変した。ああ、残念と言うしかないだろう。天主の使命を全うすること、それこそが我らの存在意義、生きている意味だというのに。それを成せぬ劣等感と『あの約束』を果たせなかった後悔。生きているだけで恥と自己嫌悪で全身が腐りそうだった。あるのは無力な自分と関心を捨てた仲間だけ」
ため込んでいた思いが吐き出される。苦心に塗れた二千年の歴史。裏切りと諦観が充ちていく。
「それでも」
そんな状況で、けれど、彼だけは違った。
それはどんなに困難なことだろう。むしろあり得るのか? 大勢の仲間は諦めて、仲間に裏切られ、それでもなお求めることが。
ガブリエルがペテロに言っていたこと。天羽長は奴しかいない。それは単純な強さや指揮官としての能力ではない。
すべては、天主の愛に応えんとする情熱、使命感だ。彼は誰よりもそれに秀でている。彼ほど情熱に溢れ、諦めない、不屈の意志を持つ者はない。その意思の芽はアスファルトを突き破り、大願成就に向かって大樹になる。
ミカエルは謳う。
歓喜せよ。
歓喜せよ。
すべての天羽よ、歓喜せよ。
時はきた、ついに神の愛に応える時だ。
「ついに、叶う時が来る!」
ミカエルの旅路、それはまだ終わっていない。否、ここから再び始まるのだ。
そこへ、扉が開く音が響いた。屋上に現れたのは三体の天羽。
ガブリエル。
ラファエル。
ウリエル。
四大の天羽。天界を開く鍵がここに出揃った。
「では行こうか、諸君」
ミカエルは振り向いた。そこにいる仲間、四大天羽が揃ったのを認める。
四人は四方に立ち、仲間に背を向ける形で並ぶと羽を広げ浮上し始めた。足は屋上から離れ、高く、高く、天高く、地上と雲の中間ほどまで浮上する。
そこで声を上げるのだ、高く、高く、世界の果てまで届くようにと。
「人類よ! 争い、妬み、奪い合うのを止めよ。その必要はない、欲しいのならば与えよう。無限の栄光を。永久の平和を。天主の偉大なる愛に抱かれ安らかに過ごすがいい!」
ついに始まる、二千年前の続きが。ミカエルが抱いた夢の続きが。天主の愛、天羽たちの目的が。二千年もの長きに渡って挫折してきた雌伏の時を乗り越えて。
ミカエルたちの上空、そこに巨大な魔法陣が現れた。このサン・ジアイ大聖堂を覆っても余りある巨大さ。微かな黄色を帯びて輝く白光。神聖なる儀式に邪魔は許されない。サン・ジアイ大聖堂全域を覆う結界は空間、時間、平行世界、世界線。それらを固定化させる。たとえ空間転移、時間跳躍、平行世界旅行、世界改変だろうと干渉は出来ない。
この時は彼ら天羽のものだ。使命感に燃える者はなお猛り、忘れていた者は思い出す。これこそが天羽の役目、人類救済のために使わされた天の御使いだと。
長き時を経て、多くの挫折を思い知り、それでも意志を貫いて。
時はきた。
ミカエルは謳うのだ。愉快に、楽しそうに。待ち侘びたこの日に溢れんばかりの歓喜を叫ぶ。
「聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 全能なる慈悲深き主よ、我らはあなたを崇めよう!」
ガブリエルは謳うのだ。その表情は厳しく、一切の隙のない姿勢と固い口調で告げる。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。万軍の王、その栄光は宇宙を包む」
ラファエルは目を瞑り穏やかな表情だ。祈りを捧げる聖女のように、慈愛に満ちた声色でささやいた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。たとえあなたの姿が見えずとも、我らはあなたを崇めます」
ウリエルは街を眺めていた。上空高くから街を俯瞰する。ここに生きる多くの人々、それと同じ数の生活、人生がここにある。
表情は真剣で、瞳には固い意志が宿っていた。すべては昔から抱いてきた理想、平和の実現のため。
けれど、この時僅かな葛藤が頭を過った。
「神愛君……」
小さな呟きは誰にも聞こえない。それほどまで弱く、か細い声だった。
理想に殉じる決意はすでにある。ただ、心残りが一つだけ。
神愛。地上に残してきた愛する人。彼のことは今でも忘れられない。
(ずっと、平和な世界にしたいって思ってた。笑っている人たちの笑顔が好きだったから)
天羽として生まれてから変わらない願いがある。彼女は人の笑顔が好きだった。だから、悪事を働く者には怒りを覚える。人の笑顔を奪うから。
(こんな私だけど、人の笑顔を見ると胸がホッとする)
清らかで、正しくて、真っ直ぐな心。純真な少女と同じように、ウリエルの性根は真白な羽のように美しい。
(だから、ずっとずっと願ってた。平和な世界にしたいって)
それがウリエルの願い。今も昔も変わらない、彼女の想い。
(神愛君、ありがとう。私は幸せだった。君と共にいられた時間が私の宝物だった)
今自分がしようとしている行為は彼への裏切りになるだろう。そうでなくとも敵対行為なのは間違いない。
彼は人間で、自分は天羽なのだから。
『神愛君だって、ボクのことを知ったらきっと離れていく。ボクの味方になんて、なってくれるはずがない』
そう思ってた。それは当たり前のことで、それが自然だった。
『俺たちは友達だ』
そんな自分に友達だと言ってくれた彼に感謝の念は止まらない。嬉しさは天にも昇らんほどで、胸が痛いくらい。
『ずっと友達だって、約束したじゃないかよぉおお!?』
なのに、自分は裏切ろうとしている。
最低だ、最悪だ。自分はとてもひどいことをしようとしている。嫌われる、絶対に。
それを思い、ウリエルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
だけど。
(だけど!)
ウリエルは目を見開いた。そこには決意がある。濡れた瞳が輝いた。
(私は、世界を平和にしたい!)
生まれた時から抱いた理想。
(今度こそ!)
それを成就するために。
決意が悲しみを乗り越える。覚悟が迷いを断ち切った。
世界の平和。燃え尽きた理想の灰から、新たな意志が蘇る。
(神愛君、好きだった、君のことが……)
今一度悲恋の表情で彼のことを思い、気を引き締めた。
ウリエルは新たな決意を瞳に映して、気迫の表情で口にする。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。我らが天主よ、あなたの大いなる力、大いなる愛、大いなる光は万物を満たす!」
四人の詠唱、それによりこの場は尋常ではないほどの神気に満ちていた。静まり返った空中で、しかし息を呑むほどの圧倒的存在感がある。
降りてくるのだ、次元を超越する扉、上位次元たる天界と天下界を繋ぐ扉が。強大な霊的質量の出現、その前兆だけで肌が押し潰されそうな圧迫感を覚える。
その本体が、ミカエルの言葉の後に現れた。
「天主よ、あなたの光は地上を照らし、あなたの愛は世界を包む! 光よ、それはあなたの愛、世界に降り注ぐ普遍の慈愛。解き放て、光よ。今こそ天主の愛が地上を包む時!」
上空に広がる魔法陣のさらに上。そこに全長80メートルを超える長方形の扉が現れた。白い石工細工のような重々しくも荘厳なる扉。
出現時、その威容を称えるかのように雲が晴れ渡った。天に蓋をする暗雲は吹き飛ばされサン・ジアイ大聖堂の上空だけが切り取ったように青空になる。降り注ぐ光が彼ら天羽を照らし出し、奇跡の出現に彼らも応える。
「「「「開かれよ!」」」」
一斉に声が上がる。四体の叫びが重なり空に広がった。
さあ、その時だ。
天主の愛を示す時。
叫べ、歓喜を上げよ!
「「「「天界の門!」」」」
四体一同の叫びと共に、重く閉ざされていた扉が動き出した。
扉が僅かに開く。その隙間から眩い光が漏れ出し、あまりの眩しさに向こう側が見えない。
けれど現れる。それは白く塗り潰すほどの光から。
扉の隙間、そこから十メートルもの天羽が現れた。淡い赤色をした僧衣のような服装をしており髪も同じく赤い色をしていた。羽を広げれば二十メートルにもなり、両足は激しく燃えていた。彼が進んだ跡にはしばらく炎が残っている。
それを道しるべにするように、隙間から多くの天羽が現れた。大きさは人と同じであり、白衣に純白の翼を羽ばたかせ、次から次へと現れる。その数は数百、さらに増えてすでに千に達している。天羽たちはいくつもの隊列を作り飛行する。その様は鳥の群れが羽ばたくようで、そうした群衆がさらにいくつもあるのだ。
空が天羽に埋め尽くされていく。青空に浮かぶのは白い雲ではなく白い翼。まばゆい光だ。
行進を続ける天羽の中、最初に現れた十メートルの天羽が腰に手を伸ばす。三メートルものラッパを手に取り、それを吹き鳴らしたのだ。
響き渡るラッパの轟音。第一の号令。
審判の時を告げる音色だ。
響き渡る、響き渡る。高く、高く、世界の果てまで届くようにと。
告げるのだ、天羽と人類の対決を。
決戦が始まったことを。
「ふふ、ふ、ハーッハッハッハッハッ! ハッハッハッハッ!」
ミカエルは笑っていた。待ち望んだ光景を仰ぎ、両腕を大きく広げ、勝利を確信する。
天羽軍。それは無限の軍勢。際限ない神造体の群れ。
それを率いて挑む。戦う。負けるはずがない。
「私の勝利だ!」
ミカエルは笑っていた。大笑が空気を震わす。いつまでも、いつまでも、ミカエルは歓喜に染まり笑っていた。
人類と天羽の争い。ウリエルという名の堕天羽を巡る戦い。
そこで発生する第四の信仰者というイレギュラー。
門を開いた神官長ミカエル。
打倒された教皇エノク。
失意に落ちた無信仰者神愛。
数々の思惑が入り乱れる中、この戦いがどのような結果を生むのか、まだ誰も知らない。
戦いは、始まった。