最後の、審判の時だ
もう、昔のようには戻れない。
無邪気に笑い、笑顔で夢を語り、共に笑い合うことは。
もう、後戻りは出来ない。
ゴルゴダ共和国の内戦、多くの犠牲。
たとえこの身が引き裂かれ、心が砕けることになろうとも。
この身は元より、天羽なのだから。
*
ウリエルはサン・ジアイ大聖堂へと戻っていた。場所は今は使われていない客室。全体的に白の内装に質素な部屋だ。
ウリエルは羽を消し部屋の中央で佇んでいた。物静かな部屋に空虚な心が根を張るように居座っていく。
神愛と、最後の別れをした。天羽である自分にできた初めての友達だった。大切な時間だった。
だけど、それももう終わり。
これからはもっと大規模な戦争になる。天羽と人類の。全人類を巻き込む大戦が行なわれる。
守りたかったもの。叶えたかったもの。
世界の平和。
みなの笑顔。
それは、この日を以て瓦解する。
「私は……」
理想と現実の乖離がウリエルの胸を締め上げていく。ウリエルの瞼の奥から再び涙が零れた。
なぜ、こうも上手くいかないのだろう。理想に向かって走っているはずなのに、いつも手段は逆走している。近づくと信じていながら、気づけば夢から遠ざかるばかり。
人と楽しく暮らしたいという願いすら、叶わない。
傷つけて、
裏切って、
これが、天羽として生まれたにも関わらず、人を愛した代償なのか。
なんて惨いのだろう。ただ平和を願うだけなのに。ただ皆が笑顔になれればいいと思うだけなのに。
いつだって。そういつだって。
自分が立っている場所は、死体の上なんて。
「ん……」
こぼれそうになる嗚咽を噛み殺す。泣き叫びたいほどの悲しみを押し留める。
扉がノックされる音が響いた。振り返る。扉が開かれ入室してきたのはガブリエルとラファエルだった。
「辛そうだな」
開口一番、そう言ったのはガブリエルだった。厳しい口調の中に彼女なりの気遣いが感じられる。
けれど、そんなものここではなんの役にも立たない。今からすべてが終わるというのに。
「平和の実現。理想の達成。お前の望むもの。どうだ、私たちと袂を分かち、なにか得られたか?」
それは以前からウリエルを知っている者だからこその問いだった。二千年前の戦場で誰よりも理想と正義感に燃えていた天羽であるウリエルを。そして現実に挫折し、正道ではなく異端へ道を変えた彼女を。
そこに答えを求めた。争うことなく平和を作ること。みなが笑顔になれる世界、それを胸に抱いて、地上で一人、孤独になろうとも歩んでみた。
でも、最後はこのザマだ。
「私は、なんなのだろうな」
つぶやきは細く、針を己に刺すような痛みがあった。苦心、悲痛、失意。
もう、理想に燃えるのも限界だ。
正義は燃え尽き理想は錆びた。
あるのは、二千年前から変わらない現実という壁だけだ。
「私に出来ることは、けっきょく、殺すことだけだった。私は……」
理想へ捧げた努力、費やした思い。けれど見返りはなく、徒労という現実だけが渡される。
「私は、変われなかった。なにも出来なかった。どんなに願っても、言葉にしても、平和な世界なんて出来ない」
教皇派と神官長派の戦い。仕組まれたものだったとしても、もしかしたら止める方法はあったかもしれない。こんな犠牲を出す前に、もっと早くに終われたかもしれない。
「出来なかったんだッ」
だけど説得に意味はなく、どれだけ言葉で言っても届かない。最後まで叫んだ恵瑠の願いは、ついぞ教皇派の人間には受け入れられなかった。
道では少女を助けても母親から疑われ、街の人々に非難された。
教皇派に捕まえられ、どれだけ説明しても信じてはもらえなかった。
人間の限界。もしくは平和の困難さか。言葉なんて安い土産みたいなものだ、どんなに送っても人を動かすことなんて出来ない。
最後まで人を信じて、言葉で伝えて、平和を願って、それだけを叶えたくて。
最後に殺された。
それが恵瑠。栗見恵瑠として生きた人の生涯だった。
平和とは、どうすれば実現できるだろう? どうすれば叶うだろう?
なにを信じればいいのか、もう分からない。
けれど分かることはある。これまでの人生だ。
それに、意味なんてなかった。恵瑠の生に、意味などなかったのだ。それを知った。自分の願いなど子供の夢でしかなく、現実は甘くないと。願えば叶うほどそんな容易いものじゃない。
痛感する、舐めるなと。平和とは、求めれば手に入るような陳腐なものじゃない。苦しみ、悲しみ、悩み、そうしたものを積み上げ完成する積み木の城こそが平和なのだと。
彼女の願いは、初めから無理だったのだ。
「私のわがままも、ここで終わりだ」
夢から醒める。どんな理想もどんな幻想も、現実の前には水泡となって消える。それほどまで脆い。現実に打ちのめされた彼女は失意の中へと沈んでいく。
「ウリエル……。それでいいの?」
ラファエルから心配する声が掛けられる。本当ならおかしな質問だ。でも、彼女の気持ちを思えばそう聞いてしまう。今までの想いや行動を終わらせてしまっていいのかと。
「ほかにどうしろと? もう一度裏切って、お前たちの敵になれと? それで平和になるのか?」
「それは……」
ウリエルからの返答にラファエルは表情を暗くして俯いた。返す言葉もない。気持ちを汲んであげたくても現実の前には空虚でしかない。
「諦め、当然か」
ガブリエルがつぶやく。
「諦め……、そうだな。私は諦めたのかもしれない。理想はしょせん、……理想だ。誰も傷つかない平和なんて、無理だった」
「…………」
ウリエルの言葉をラファエルは黙って聞いていた。彼女が言うと今の言葉は痛々しい。あまりにも。誰よりも理想に燃えていた彼女だからこそ、なおのこと。あれほど平和を望んでいた彼女がそれを口にすることに。
ラファエルは悲痛な思いを胸に抱きながら、そっと口を開いた。
「争いと、悲鳴。血と涙の雨が大地に降り注ぐ。けれど、そんな雨もいつかは晴れるわ。それを見て笑顔になる人がいる。いつの日か。そのいつかのために、私たちは今雨を降らすのよ」
それがラファエルの精一杯の言葉だった。雨降って地固まる。虫の良い話だろう。でも、ウリエルの胸を宥めるための、これが精一杯。これから先、天羽と人類の戦いでさらに多くの犠牲が出る。
けれど、その血が、その犠牲が、真の平和を確固たるものにする。その血を最後の犠牲にして、その後未来永劫の栄光を掴もう。争いのない、誰も苦しまない世界の実現を。
そのための戦い。そこに意味はあるのだと、そう伝えた。
ラファエルの言葉を聞いてどう思ったか。要らぬ慰めだと怒られるか。
ウリエルはしかし、優しい声で答えてくれた。
「お前は優しいな、ラファエル」
「……ううん」
ラファエルは顔を横に振る。自分はなにも解決していない。ただ言葉で誤魔化しただけ。
「ウリエル。これは革命だ。時代を変える。優しいだけでは世界は変わらない」
ラファエルの言葉の後にガブリエルが言い寄る。ラファエルが慰めたのなら次は励ましだ。やる気を促し世界の変革、それを成すため心に火を点ける。
「ありがとう、ガブリエル」
「礼には及ばんさ」
二人からの言葉を受けてウリエルは彼女らを見つめた。
「ガブリエル。ラファエル」
その目は真っ直ぐとしていた。今まで歩んできた旅路、そこにあった苦悩と挫折を踏み締めて言う。
「私は、世界を平和にしたかった。誰も苦しまない世界にしたかった。でも、それは無理な夢だった」
悲観。失意。ウリエルの語る言葉は諦めに染まっている。
「けれど」
しかし、その声に今一度決意が宿る。
「私は、どうしても叶えたい。この世界を平和にしたい。誰も泣かない世界に!」
それは不可能な夢、無理な理想だ。だけど、それでも叶えたい。どうしても実現させたい。
なら、手段を変えるしかない。その道が、たとえ夢と逆行していても。友との別れになろうとも。
ウリエルは、恵瑠は、新たな一歩を踏み出した。
「行くわ、私」
嘆きと悲しみ、穢れた地上。
救済という名の破壊。
新時代の再建。多くの犠牲を糧にして――
その先へ。
「たとえ殺戮の天羽と呼ばれても構わない。称賛もいらない。感謝などされなくていい。恨まれて結構」
そう、願うだけでは駄目だ。
祈るだけでは駄目だ。
行動しろ、進むのだ。
理想に向かって。
夢に向かって。
体を引き裂き、心を砕いて。
進め。
掴め。
「それで、この世界を平和にしてみせる」
その先にある、光を目指して。
「最後の、審判の時だ」
ウリエルは部屋を出て行った。その後に続きガブリエル、ラファエルも扉を通っていく。
廊下の先、目指すのは屋上だ。そこで己の使命を果たす。
ウリエルの瞳は使命と理想に、静かに燃えていた。