まったくもって残念残念
もう、昔のようには戻れない。
無邪気に笑い、笑顔で夢を語り、共に笑い合うことは。
もう、後戻りは出来ない。
ゴルゴダ共和国の内戦、多くの犠牲。
たとえこの身が引き裂かれ、心が砕けることになろうとも。
この身は元より、天羽なのだから。
*
教皇の自室。そこではエノクとミカエルが対峙していた。さきほどまでいたペテロとガブリエルの姿はない。エノクは精悍な表情を保ち、ミカエルは不敵な微笑を浮かべる。この場の空気は緊迫し戦いは無言のうちに始まりそうだった。
「教皇エノク。かつての聖騎士第一位にして魔王戦争の英雄。神託物メタトロンは第二世代にも関わらず七大天羽に認定。君は非の打ち所がない。まさにゴルゴダ、慈愛連立の信仰者のシンボルだ」
張りつめた空気の中、しかしミカエルは話し出した。今まさに戦わんとしているエノクを誉めだす。
「だが」
しかし目を見れば分かる。この男が本気で賞賛などしていないことを。
「君には人間の限界というのが見えていない。人類では平和の実現など不可能だ。自由という名の免罪符を振りかざし、君たちは発展と、それにともなう争いを行っている。誰かが自分の幸福を望めば、それは他人からの搾取に他ならない。人類に必要なのは平和ではなく秩序だと思わないかい?」
秩序。聞こえはいい。人間には欲望がある。あれが欲しい、これが欲しい。自由も平和も幸福も欲しい。無闇に欲する心は統制を失い結果争いになる。そうだと分かっていても誰しもが欲望を抑えられない。であれば、望むべきは平和ではなく秩序なのかもしれない。
しかし、それは詭弁だ。要は言っているのだ、秩序という耳に心地いい言葉を使って。
必要なのは、管理だと。
秩序を維持するには、それを管理する者が必要だ。それを担う者こそが天羽だとミカエルは言っていた。
それを聞いてなんと答えるか。エノクの表情は依然と威厳と貫禄を併せ持ち、ミカエルの言葉を聞いていた。
ミカエルの言葉に、エノクは答えた。
「すべては救えなくても、救えた者の中に意味はある。すべてを救うためでも、すべてを犠牲にしては意味がない」
「ほう」
エノクの言葉にミカエルが唸る。ミカエル自身自分がなかなかの詭弁家だと自負していたが、この言葉には舌を巻いた。
「これはこれは。言うじゃないか。今は君が上回っていたってことでいいよ?」
うざい。
ミカエルはこれ見よがしに言った後、またしてもこれ見よがしに額に手を当て顔を振った。
「だけどねえ、それが人類の限界なのさ。犠牲が伴う発展、弱者が切り捨てられる平和。そんなものは偽りだ。悲しすぎる。君も辛いだろう? 誰かが導いてやれねばならない」
ミカエルは額に当てていた手を外しエノクを見る。
「人間以外の誰かが」
その目は鋭い眼光を宿していた。
刺し貫くほどの視線。飄々としていた態度からすさまじい気迫を放つ。
油断してはならない。この男こそ、無数に存在すると言われる天羽の長なのだから。
「我々がそれを願ったか?」
ミカエルの視線をまっすぐに受け止めて、なおエノクは厳格な態度を崩さない。
「願ったさ。世界よ平和であれ。毎日、どこかで、誰かが、願ってる。叶える時だ」
「お前たちの平和と、彼らが願った平和は違うものに見えるが」
「ふふふ」
「…………」
エノクは真っ当なことを言ったつもりだが、ミカエルは突然笑い出した。含み笑いだったそれはすぐに大笑に変わった。
「はっはっはっは! やはり貴様等は残念だ。ああ、哀れだ。まったくもって」
突如笑い出すミカエル。それをエノクは鋭い視線で見つめ続ける。
「分かっていないのはお前の方だエノク。お前は慈愛連立でありながら」
ミカエルは笑う。おかしくて仕方がないと。もしくは滑稽か、慈愛連立を代表する信仰者ですら本質が分かっていないと、ミカエルは嘲った笑いを上げる。
「天主イヤス様に逆らうのか?」
慈愛連立の創造者。すべての慈愛連立の信仰者が崇める三柱の一つ。生前での行いは聖書となり現在でも多くの数が出版されている。
イヤスは慈愛連立の頂点であり神の中の神だ。エノクもその思想、行動に感嘆したからこそ慈愛連立の信仰者として専念してきた。
だが、ミカエルははき違えていると言う。
「私たちとお前たちの平和が違う? 馬鹿を言えよ、お前たちが信仰している慈愛連立。それが目指す平和こそが我々だ。間違っているのはお前たちなのさ」
間違っている。そう言われてエノクも黙っていられない。
「かつて、その者はすべての者の幸福と、すべての者の救済を望まれた。イヤス様が人類の支配を望んでいると?」
不可解だった。聖書に記された人物像、なにより慈愛連立の教え。困っている者を助けよという教義から外れている。イヤス様本人がそんなものを望んでいるとは信じられない。
「君たち人間にあの方は理解できないさ。平和? いいや。あの方の考えにあるのはそんなものじゃない。あるのは――」
エノクの困惑をかき回すようにミカエルはさらなる事実を投下する。
「愛さ」
「愛?」
どういうことかとエノクは聞き返す。
「その強大な愛! 人類すら包むほどの愛! その大きさゆえにお前たちでは計れないだろう。山のふもとでは山頂が見えないように。それほどまでにあの方の愛は大きく偉大なのだ。あの方の愛は宇宙よりも広い!」
ミカエルは両手を広げ大仰に伝えた。天主の偉大さを称える天羽そのままに。
「分かったかい? どちらが間違っているのか」
真偽は不明。ミカエルがでたらめを言っている可能性はもちろんある。慈愛連立の本質を見誤っているという指摘をどう受け止めるか。
「なるほど」
「納得したかい?」
エノクは表情を変えることなくつぶやいた。
「そうだな」
エノクは認めた。ミカエルからの質問に肯定で答える。
納得したのは事実だ。なぜなら、
「なぜ、あの時ヨハネが逆らい少年たちを宮殿内に入れたのか」
「なに?」
納得した。しかしそれはミカエルの話ではなくヨハネの決断と行動だった。
「私は、私の信じる信仰を進む」
エノクは己の信じる道を外すことはなかった。たとえ誰がなんと言おうとエノクの考えは変わらない。
エノクが信じ尊ぶのは困っている者を救うという慈愛に満ちた信仰の道。今も昔も変わらない。
エノクは慈愛連立ではなく、己の信仰に生きると決めたのだ。それこそが、己の慈愛連立だ。
「残念。まったくもって残念残念。残念至極」
その答えにミカエルは心底残念だと顔を横に振る。深いため息を吐いた。
「では仕方がない」
ミカエルは気を切り替え正面を向いた。
話し合いはこれでお終い。議論に意味はない。すでにサイは投げられた。
両陣営、教皇派と神官長派のトップがにらみ合う。この争いの趨勢を決める戦いの火蓋が、落とされた。