残念残念
頭の中で転移先を決める。行きたい空間をイメージしそこへ飛ぶことを念じる。
次の瞬間にはペテロは教皇自室の扉の前にいた。立派な彫りのある扉をやや乱暴にノックする。
「エノク様、ペテロです。入ります」
ペテロは扉を開け中へと入った。
まるで一流ホテルの一室を思わせる部屋だった。全体的に白色をした内装、洗練されたデザインだ。ペテロは進み寝室のドアノブに手をかけた。
「入ります」
そこには天蓋付きの巨大なベッドがあった。その上にはエノクが横になり休んでいた。
ペテロは静かに歩み寄った。神愛との戦闘によりメタトロンを破壊された反動は信仰者自身にも跳ね返る。神託物とは信仰心の具現、それを砕かれるというのは信仰心そのものの負傷だ。それは天下界にとって重傷だ。それこそ高位な信仰者ほど負担は大きい。
ペテロは内心このままにしておきたいという気持ちを抱きつつも、相反してベッドの脇に立った。そして静かに声をかける。
「エノク様、神官長派が軍を率いて襲撃してきました」
「ああ、分かっている」
ペテロの声にエノクが答える。少し疲れの色を露わにしながらも穏やかな声だった。返事の跡にエノクは瞼を開いた。
「すまんな、負けてしまったよ」
しわがれた声がひどく寂しく聞こえる。ペテロは黙ったまま顔を横に振った。
「今でも信じられません。少年と戦っている時、エノク様はどちらに?」
「空間の乱れを感じた。少年はメタトロンに任せ私は少女を攫った者の跡を追ってみたが、駄目だった」
恵瑠の遺体喪失。それをその時からエノクは探っていたのだ。ペテロは自分を不甲斐なく思うと同時に教皇の素晴らしさを改めて思い知った。
「二兎を追うもの、だな。私もまだまだだ」
「いえ、十分立派です」
ペテロは優しい口調で言った。だがいつまでもこうしてはいられない。辛いところ心苦しいがこの場から避難してもらうしかない。
「エノク様、やつらの狙いはあなたです。ここから一刻も早く退避を」
「防衛はどうなっている? 他の者の避難は?」
「現在行っています。聖騎士隊が守りを固め、非戦闘員はその隙に。エノク様もお早く」
「……そうだな」
ペテロに促されエノクは起き上がった。ベッドから降り立ち上がる。
「空間転移では空間の揺れを悟られる危険性がありますので、私が護衛として先行します。郊外にある小さな教会へ、まずはそこへ退避しましょう」
「ん」
エノクの服装は白い礼装のままであり、ペテロの背についていく形で寝室を出た。そのまま自室の扉へと向かう。
「残念残念」
しかし、聞こえてきた言葉に二人の足が止まった。
「貴様ッ」
ペテロは急いで振り向いた。
白のカーテンが閉じられたベランダの前、そこには神官長ミカエルがいたのだ。
気づかなかった。空間転移を行なえば空間の軸に多少の変調が起きるものだが、こうも悟られずに行うとは敵ながら見事としか言いようがない。
「せっかく会いに来たのだが、もしやこれからお出かけの予定だったかな?」
ペテロはすぐに剣を抜くと切っ先を向ける。対してミカエルは不敵な笑みを浮かべ二人を見つめていた。
「おいおい、止めてくれよ。ノックをしなかったから怒っているのかい? とはいえその程度で剣を向けてくるだなんて、君の度量は残念だと言わざるを得ないねぇ~」
「なにをしに来た?」
「なにしにだって? 残念、私が答えるとでも?」
ペテロは剣を両手で構えた。
「分かっているだろう?」
それでミカエルは話し出した。しかしそれは臆したというわけではなくこの状況を楽しんでいる振る舞いだ。
ミカエルは答える。ここへ来た理由。それは転じてこれから先なにをしようとしているか、ミカエルはその目的を告げた。
「救済さ」
不敵に、不気味に、余裕のある笑みで、ミカエルはそう言った。
「君たち人類では人を救えない。不平等、飢餓、争い。それらは地上から消えぬ病巣だ、いわば君たちは病気なんだ。それに見かねてね、我々の神は胸を痛めこう命じたわけさ。君たちの苦しみを、取り払えと」
ミカエルは大仰にそう告げる。これは神の使命、お前たち人類は病人であるので大人しく治療されろと、そう言ったのだ。
その言い方にペテロも真剣な口調で反論する。
「慈愛連立の教えは互いに手を取り合い苦しみを分かち合い、痛みを克服することだ。誰かの管理下に置かれることを平穏とは呼ばない、それは支配だ」
世界に争いは今もある。人類に問題は山積だ、解決の糸口は見つかっていない。
けれど、痛くても、苦しくても、助け合い協力して、この世界でも共に生きていこうと頑張っている者がいる。
それを否定されるのは、ペテロには我慢ならなかった。
「そうか。では残念だけど」
ミカエルは笑みを残しつつ声を落とした。青い瞳を冷酷に細め、ミカエルはペテロを見つめる。
「君には消えてもらおう、神の愛を拒む者」
「やってみろ!」