ふっ、いよいよだな・・
かつて、そう、かつて。
まだこの世界に神がいなかった時代。
奇跡も、神理も、信仰も、なにもなかった時代。
その者たちは現れた、この地上へと。
天の御使い。純白の翼を広げ、神の誕生を告げる者たち。
そして、この地上から争いを無くすため、布教に努めた者たち。
その使命は約二千年の時を経た今もなお達成できていない。
天羽の使命。神の教えを遂行する名誉。
一度も。ただの一度も。栄光は掴むことなく、未練は二千年も続いている。
『なぜだ、なぜだルシフェル? なぜ我々を裏切った? なぜ神に逆らう!?』
それはいったいどこで、なにを間違えたのか。
『気づいたんだ』
人を守りたい。
傷ついて欲しくない。
争いを無くしたい。
『人の意思とは、自由だからこそ尊いと』
崇高なるはずだったのに。
誰もが望む願いだったはずなのに。
なのになぜ、それを拒むのか。
『ミカエル。私はもう戦えない』
願いとはなにか?
思いとはなにか?
救済とは、なんだったのか――
*
サン・ジアイ大聖堂の会議室で目を覚ましたミカエルは、起きるなり呟いた。
「残念だよ」
長いテーブルの上座の席に座り、足を組み両手を合わせていたミカエルは視線を下げたまま口を動かす。
「まったく以て。あれさえなければ、ここまで長引くこともなかっただろう。残念過ぎるよ」
憂鬱な表情は彼にしては珍しい。物寂しげな瞳は虚空を見つめている。
「どうしたミカエル、顔色が悪いようだが?」
そこへ声が掛けられた。見れば同じテーブルの席に赤い髪の同僚が座っていた。
「サリエル」
「くっくっくっく。お前も大変だなぁ」
サリエルはミカエルの様子が愉快なのか笑っている。
「おっと、そう怖い顔すんなよ」
それをミカエルが睨みつけるとサリエルは笑うのを止めた。それでも態度は変わらず楽しそうだった。
「二千年前の使命と名誉、ねえ? そいつは確かに。大層ご立派な大義だ。だがなあ、二千年前とは状況が変わった。かつては一柱しかいなかった神が今じゃ三つだぜ? だっていうのに、当初の使命を持ち出すのは筋違いってやつだ」
それは指摘か。それとも単なる悪ふざけか。サリエルは親しい友人にするように悪態をついていく。
「ミカエル。お前の言う使命ってやつはな、もう昔の話だ。終わりだ終わり。いつの話してやがる」
「…………」
「この期に及んで使命だ? ハッ、ちげえな。それはお前の我執だ、やり残した思いを引きずり、未練を晴らしたいっていうだけの」
サリエルは背もたれに体を反らし天井を見上げた。
「ぶっちゃけ、俺はもうどうでもいい。他の連中だってそうだろう。少なくとも、今はな。が、俺はお前を応援してる。じゃなきゃ密告してるぜ、俺の仕事なんでな」
天井に向けていた目を流すようにミカエルへと向けた。
「まったく以て残念だ。天羽を監視する天羽としてあるまじき言葉だね」
「お互い様だろ」
ミカエルからの嫌味を鼻で笑う。
「てめえはてめえの望みを、俺には俺の望みがある。二千年前からな」
二千年前。それは天羽が地上に降り立った時。そこでやり残したことがある。
ミカエルも。
そしてサリエルという男も。
「それまでは目を瞑ってやる。くれぐれも邪魔はすんなよ。『あいつは』、俺の獲物だ」
だが、二人の思惑は同じではない。いわば利害の一致。そのためにサリエルはミカエルに協力しているようだった。ミカエルはなにかをしようとしている。それを知っていながらなにもしないというサリエルの業務違反。そうまでしてサリエルはなにを望むのか。
今度は、それを知っているミカエルが小さく笑う番だった。
「ふん。それほど気がかりだったのか? お前もずいぶん名誉が好きと見える」
顔を下げくっくっくと笑う。まったくもって笑いが絶えない職場である。
反対にサリエルは意識を鋭くさせた。表情も真剣になっていき、思い描く誰かを睨みつけるようにして言う。
「……ムカつくんだよ。それにだ、お前も見ただろう、『あれ』を」
重い響きで呟かれた声にミカエルも笑い声を止めた。サリエルからの言葉に振り返る。
『あれ』の変わりよう。かつてのあれを知っている者からすれば驚愕だ。
「自分の目を疑ったよ。嘆かわしいにもほどがある、あれが今のやつとわね」
「その通りさ」
二人が思い起こす共通の人物。それに一人は失望し、方や一人は怒りを滾らす。
「今の奴は腑抜けだ、ただ生きてるだけの無能ってのは見てるだけでイライラしてくる」
サリエルは怒りと憎しみで燻った声を漏らした。目は吊り上り、全身から蒸気でも吹き出るほど激怒している。
しかしそれもすぐに抑え、サリエルはさきほどの調子で話しかけた。
「約束は覚えてるなミカエル。てめえの独断独行、報告を遅らせるかわり」
「邪魔はしないさ」
ミカエルは静かに答える。サリエルの思いに応えるように。
納得したのかサリエルがフッと笑う。
そこでサリエルの目が窓に向かった。
「あ? 騒がしいな」
音はしていない。窓から見える景色にも異変はない。ゆえに並みの信仰者では気づかないだろう。
しかしサリエルは気づいていた。聞こえないものを聞き見えないものを見る。とりわけサリエルは『眼』がいい。視力という意味ではなく別次元の意味で。それでサリエルは『視た』のだ。
教皇宮殿に異変が起きている。戦闘だ。誰かが教皇派と戦っている。そこでサリエルはさらに視た。
「イレギュラー……。おいおい、本丸に殴り込みかよ」
サリエルは立ち上がった。視線は窓の外をじっと見つめている。
「行くのか?」
「様子を見てくる。それにやつも気になる。……分かってる、手は出さねえよ」
ミカエルの忠告を半分くらいにしか聞いていない様子でサリエルはその場から消え去った。
行先は教皇宮殿。
オラクルである彼もまた空間転移を用い一瞬でこの場から消え別の場所へと現れていた。教皇宮殿が見える敷地内、庭にある木の裏だ。そこから宮殿の様子を伺う。
瞬間、ある部屋が気になった。それは彼だからこその勘だ。戦場で戦士が働かせる第六感。これがラファエルなどの裏方専門では分からなかったに違いない。
サリエルはその部屋へと転移する。
そこには二人の少女、加豪と天和がある手紙を読んでいた。
「誰!?」
サリエルの登場に加豪が振り向いた。
「こいつはとんだ見つけ物だ」
しかしサリエルは意に介さない。それよりも注目すべきはその手紙。
同僚が残した、自分たちの秘密。
知られてはならない。今はまだ。
それは計画。
それは陰謀。
それは審判。
彼ら神官長派が動き出す、それは、最後の時なのだから。
「それを渡してもらおうか、お嬢ちゃん」
サリエルは一歩近づいた。同時に腰から拳銃を取り出し、手紙を持つ赤い髪の女の子に突きつける。
「そして、ついでに死んでくれや」
獰猛かつ余裕のある顔。本気だ。サリエルは人殺しだろうと自然に行なえる、そうした者特有の自信に似た雰囲気があった。
その態度に加豪の表情が引きつる。
(この男、強い……!)
初見ではあるが加豪は相手の力量を見定め、それゆえに緊張していた。相手から漂う強者ならではの余裕、それは加豪から見ても強敵だと告げていた。また空間転移をしてきた時点で相手はオラクル。
相手が悪すぎる。このままでは殺される。
加豪とサリエルで睨み合いが一拍続く。瞬間、部屋全体が突然揺れ出した。
「なに!?」
本棚から本が一斉に飛び出した。加豪も天和もなんとか姿勢を支えるが、この揺れの正体が分からない。
だが、この事態にサリエルは加豪以上に苛立ちと困惑を浮かべていた。
「メタトロンだと? エノクの野郎、誰と戦ってやがる!?」
サリエルには視えている、この揺れがメタトロンの登場によって起きたものだと。
だが分からない。メタトロンを出すほどの敵とはなにか? あれは世界的に見ても最大の神託物だ、ゴルゴダ共和国が誇る最終兵器と呼んでもいい。パレードを妨害された時にも出したが、あれはいわばパフォーマンスだ。伝統ある教皇誕生祭を妨害する者には容赦しないという周知への見せしめもあった。そのメタトロンを頻繁に登場させては威厳もあったものではない。メタトロンはここぞという時に出すべきものだ。
そのメタトロンが戦っている。
相手は誰だ? まさかイレギュラー? あり得ない、メタトロンが出るまでもない。それはパレード戦を見ても明らかだ。
サリエルは一瞬の思考に耽る。困惑が意識にわずかな空白を生んだ。
「天和、今の内よ!」
それが加豪たちの好機になった。この揺れとサリエルの動揺を見逃さず加豪が扉を開け出て行ったのだ。天和もすぐに後を追い部屋を出て行く。
揺れは収まった。逃げ出した二人を追おうとサリエルも扉へと駆け寄ろうとする。
「ちっ! この――ん?」
そこへ、空間を超え、彼へと宛てた声が聞こえてきた。
「んだよミカエル、今取り込み中だ。ラグエルが手紙を出してやがった」
その声に対してサリエルも応対する。オラクル同士で可能となる遠距離対話によってサン・ジアイ大聖堂にいるミカエルから話を聞いていた。
その内容に、苛立っていたサリエルの表情が笑みに変わっていった。
「ほう……。分かった、回収してラファエルに渡せばいいんだな。わーってるよ。了解だ」
通話を切りサリエルは天井、やや斜めを見上げる。口端を僅かに浮かべ、サリエルは愉悦の表情でつぶやいた。
「ふっ、いよいよだな……」
間もなく、始まりの時が来る。




