そんなこと、当たり前のことじゃない
それから母さんは抱きしめる腕を解いた。俺は涙を拭き取る。でも駄目だ、すぐには収まらない。けれどそれは母さんも同じだった。見れば片手で涙を拭っていた。
そんな姿を見てホッとする。
俺はなんだか笑ってしまうが、周囲から突然甲冑を着た騎士が現れた。
「な」
見れば家を囲まれてる。そして正門に目を向ければ、
そこには鬼のような気迫。鋭い眼光を滾らせて立つ一人の男。
聖騎士第一位のペトロがいた。
「宮司神愛。貴様を拘束する。理由は分かるな」
声にはすさまじい情念を感じる。猛獣のような闘志を強固な理性で押さえつけている。この男が感情に任せて動くことはないだろうがとてつもない戦意だった。
教皇誕生祭のパレードを襲撃したこと。
あれはゴルゴダ共和国の伝統ある祭りだ、それを邪魔されたとなればなんとしても捕まえなければならない。
「動くなよそこの少女、もし不審な動きを見せればただちに実力でいかせてもらうぞ」
ペトロはミルフィアを見ていた。その目は一瞬の動きも見逃さない気迫がある。
「くそ」
俺は改めてぐるりと見渡した。家を囲っている騎士たちの数は多い。いくつもの列が包囲している。これだけの人数をよく用意したなとも思うが、ミルフィアの攻撃を警戒すれば当然か。むしろそのために時間をかけてきたんだろう。
どうする。ここには俺たちだけじゃない、母さんと親父もいる。仕方がなかったとはいえ巻き込みたくはなかった。もっと早くに出ていれば。
下手には動けない。ここを押さえられた時点でどうしようも出来ない。
悔しいがなにも出来ない中、母さんが前に出た。なにをするつもりかと思ったが、母さんはペトロに話しかけた。
「久しぶりね、ペトロ」
「え?」
久しぶり?
どういうことだ、母さんとペトロは知り合いなのか?
母さんの言葉にペトロはしばらく黙っていたが、視線をミルフィアから母さんに向けた。
「こうして出会いたくはなかったが、しかしいずれこうなる気はしていた。それはお前も同じだろう、アグネス」
初対面の話し方じゃない。ペトロと母さんは知り合いだったのか。まったく知らなかった。
いや、そもそも俺は母さんのことを何も知らない。親父は優秀な信仰者だったと言ってはいたが、俺の知っている母さんとは結びつかなくて。
「お前の息子、宮司神愛は無信仰者として生まれてきた。そいつは多くの不幸を生む」
「主の侮辱は――」
「ミルフィア止めろ」
「ですが」
「…………」
ペトロの言葉に即座にミルフィアが反応するが止めさせた。今もミルフィアが動いただけで周りの騎士が一斉に攻め込む気配だった。これだけの数で攻められたらこの家はめちゃくちゃだ。
「事実そいつはしてはならぬことをした。これ以上の不幸を生まぬためにも、そこの男を引き渡してもらおうか」
ペトロから母さんに催促される。パレードを襲撃した俺はれっきとした犯罪者だ。
俺は母さんを見つめた。俺の隣に立つ母さんはペトロに正面を向けている。いったいどうするのか。断るか、やはり引き渡すか。
母さんは、答えた。
「それは出来ないわ」
「母さん」
その答えに嬉しさが広がっていく。母さんの横顔は精悍としておりペトロ相手に堂々と対峙していた。
「なに?」
母さんの答えはペトロにも意外だったようで戸惑っている。
「まさか、逆らうつもりか?」
ペトロはまっすぐ睨みつけながら母さんの名前を呼んだ。
「アグネス・ボヤジュ」
「今は宮司アグネスよ、ペトロ」
それを慎ましやかに母さんは否定する。そのままの口調で母さんは続けた。
「あなたの要求には応えられないわ。この子は、私の息子なのよ」
「正気か? 第一、お前は自分の子供を嫌っていたのではなかったのか?」
俺は顔を背けてしまった。ペトロの言っていることはなにより俺が一番知っている。俺を拒絶し一晩中泣いている姿は今でも夢に出るほどだ。
それに俺を生んだことで両親までも非難の的になりよく近所からいやがらせを受けてきた。こんな人通りの少ない丘に家が建ててあるのも人から避けるためだ。窓ガラスに石を投げられ何枚割られたことか。それで親父や母さんには迷惑をかけた。
母さんは俺のことを嫌っていたし、同時に苦しんでいた。
「……そうね」
母さんは視線を下げて話し始める。
「あなたの言う通りよ。私は自分の子が煩わしかった。でも、それは母親として失格だった。我が子と向き合おうとせず、自分の考えに縛られ、目の前の現実を見ようともしなかった。誰よりも苦しんでいたのはこの子だったのよ」
母さんは顔を上げた。その目は、強い意思に満ちていた。
「私が今後、母としてこの子にしてあげられることは少ないわ。でもね、だからこそ全力を注ぎたいの」
それは母としての決意表明みたいなものだった。今まで母親として出来ることをしなかった代わりに、これからはそれを全うしようと。
「慈愛連立の信仰者としては失格だぞ。馬鹿な真似は止めろ」
「馬鹿な真似、か。そう見られても仕方がないかもしれないわね。でも、考えてみてペトロ」
ペトロから非難されるが母さんの決意は変わらない。俺を守り通す気だ。その意思は固い。
でもこの時だけ表情を柔らかくして、母さんは微笑とともに言った。
「母が子を守る。そんなこと、当たり前のことじゃない」
その言葉にこの場の誰も口出しできなかった。否定できない。それほどまに母さんの言葉は共通の価値観で、母という存在そのものだったんだ。