悪女と評判の継姉ですが、こんな私に求婚者が現れました。
このお話はifシンデレラもの『その靴はサイズが合いません。だって男の子ですから。』の続編です。上の継姉が主役で、ほぼ姉妹(姉弟)がお茶会しているだけのお話になります。前回ほどのノリはありません。
高台の城に暮らす王子が結婚してから一年。
城を取り巻くように広がる町はいまだにご成婚祝いのムードが残り、毎日が活気にあふれています。
今日も朝からにぎやかな町中を並んで歩く、年頃の姉妹の姿がありました。
姉の名はヘンリエッタ。妹はジャスミンといいます。
「ねえ、ジャスミン。旦那様にお弁当を渡しに行くということだけど、食事は城で出ているのではないの?」
ヘンリエッタは妹が持つバスケットを見ながら問いかけました。
バスケットの中にはふんわり黄金色に焼けたパンが詰まっています。すべてジャスミンが焼いたものです。
「ええ、ヘンリエッタ姉さま。でも、昨日ピーターがおいしいと言ってくれたこのパンが今朝もおいしく焼けたから、彼に食べて欲しくて」
ピーターというのはジャスミンの夫で、王子の従者を務めています。二人は一年前に出会い、半年ほどの交際期間を経て三ヶ月前に結婚したばかりの新婚ホヤホヤです。
ジャスミンが結婚以来初めて実家に顔を見せたのは今朝のことです。
パンがおいしく焼けたと。そして働く夫にもこれから届けに行くのだと、新妻はまばゆいばかりの笑みを見せてくれました。
「帰ってくるまで待っていればいいでしょうに」
城へ向かうために二人が歩いている坂道は、決して緩やかなものではありません。舞踏会が開かれた時には往復に馬車を使いましたが、今は徒歩です。一歩一歩に太ももへの負荷を感じている横でまったく苦にする様子のないジャスミンに、これが愛の力かしらとヘンリエッタは感想を抱きます。……決して、歳の差が理由ではないはずと。
「パンはなるべく焼きたてがおいしいでしょう?」
「まあねえ」
確かに朝食に食べたパンはたいへん美味でした。
かと言って、渡せるかどうかは別問題です。
結果を見届けるために。なにより、久しぶりに会えたのだから話がしたいということもあって、ヘンリエッタはこうして妹についてきたのでした。
「それにしても、あなたがそういうものを作れるようになるなんてね。驚いたわ」
結婚前のジャスミンは家事が苦手でした。
ジャスミンだけではありません。ヘンリエッタの家は家事全般を担っていた人物が一年前にいなくなって以来、姉妹と母の三人で分担してこなすようになりましたが、誰も彼もが四苦八苦していました。その記憶もまだ新しいのに、たった三ヶ月でジャスミンはおいしいパンを焼けるようになっていたのです。
「ピーターのご実家がお菓子職人なの。彼もいろいろ作れるから教えてもらっているわ」
「なるほどねえ」
話しながら、ヘンリエッタは笑みを絶やさない妹の様子を観察していました。
ジャスミンはとても素直で、身近な人間の言うことをよく聞いてよく真似をする、よくも悪くも人の影響を受けやすい少女でした。そのことで姉であるヘンリエッタは彼女の将来が少し心配でしたが、夫となったピーターはジャスミンのよいお手本になってくれているようです。
正直に言えば、初めてピーターを見かけた時には頼りない男性にしか見えたのですが、王子が錯乱しているようにしか見えなかったあの場にいて、従者としては動揺を抑えることは難しかったのでしょう。後日、ジャスミンを訪ねに来たピーターは大変しっかりとした男性でした。
「私も驚いたわ。実家を訪ねたら見知らぬ方が出てくるんだもの、家を間違えたかと思ったわ」
今朝のことを思い出して、ジャスミンが小首を傾げます。
玄関でジャスミンを出迎えたのは、一週間前から働くようになった使用人の女性だったのです。
「そうね、あなたには連絡をしていなかったわね」
「家も使用人を雇えるようになったのね。お父さまの収入が上がったのかしら?」
「そういうわけではなくて、あの人は」
「……ああ、着いたわお姉さま」
坂道を上りきった所で高い壁にぱっくりと開いた出入り口が見えてきました。使用人用の裏門です。
人間が三人並べるぐらいの幅があるそこへ近づいていくと、横に立つ門番が二人をぎろりと睨みました。
バスケットを下げた笑顔の女を明らかに警戒しています。
気にせずジャスミンは近づいていきました。
「こんにちは」
「物売りはお断りだぞ」
「いえ、お城で働く夫にこれを渡したくて」
「夫?」
「王子さまにお仕えしているピーター・ケンジットという者なんですが」
「ダメだ」
門番はきっぱり言いました。
「外部から予定のない物は持ち込ません」
「どうしてもダメなんですか?」
「ダメだ」
まあこうなるわよねと、ヘンリエッタは黙って成り行きを見守ります。
「せっかく焼いたパンをなるべくおいしく彼に食べてもらいたいんです」
「ダメだダメだ」
話を通そうと頑張るジャスミンの後ろから分厚い壁の向こうを窺っていると、深くベールをかぶった女性が裏門に近づいてきました。町にお遣いに出るメイドといった風情です。
なんとなく見ていると、ベールの隙間から覗く目と目が合いました。
すると女性は目を丸くし、揺れたベールが開いて顔がもっとよく見えるようになりました。
相手の顔を見て、ヘンリエッタも目を丸くしました。知っている顔だったからです。いえ、正確には記憶にある姿とは少し変わっていますが、確かに知っている人でした。
顔を合わせたのは一年ぶりです。“彼女”がこの姿になった時、まともに確認する時間もありませんでしたが、骨格が変わって顔の輪郭が変わっても、面影はちゃんと残っていました。
すぐに驚きから立ち直り、ヘンリエッタが彼女に呼びかけようとしたその時です。
「——シンデレラ! ここにいたんだね、探したよ」
「うわあっ!?」
横から突然現れた男性にむぎゅっと抱きしめられて、女性はすっとんきょうな悲鳴を上げました。
「ライアン! おまえどうしてここに!?」
「今日のランチは時間が取れるから一緒にしようと言ったじゃないか。君の散歩はいつもルートがバラバラで順路が読めないよ」
「嘘つけ! おまえいつもいっつも」
「……王子ー! 王子、どこへ行かれたのですかー?」
「あら、ピーターの声だわ」
遠くに聞こえる男性の声に、門番とかけ合っていたジャスミンがすぐに反応しました。
「ああ、呼ばれている。君も早く戻ろう」
「ちょっと待てライアン、——待ってば!」
声は可愛らしいのに乱暴な言葉で文句を言い続けながら、女性は奥へと連れて行かれようとしています。
彼女は呆然としているヘンリエッタに向かって手を伸ばしました。
「義姉さんたちぃぃぃっっ!!」
ヘンリエッタとジャスミンは急遽王子の客人ということになり、中へ通され、ランチにお邪魔になりました。
今は、王太子妃の自室でお茶までいただいています。
ヘンリエッタは手の中のカップを見つめていました。
繊細な花の絵が描かれたティーカップ。模様の中にさりげなく刻まれているロゴは国内最高峰を誇る工房のものです。注がれたルビー色の紅茶は深い香りがして、いつまでも嗅いでいたい気分にさせます。
ジャスミンは隣で楽しそうにお菓子を摘んでいます。
パンは厨房へ持って行かれ、ピーターの口に入るかどうかわからなくなってしまいましたが、今はお菓子に夢中なので気にしていませんでした。
「ランチをご一緒した上に、お菓子までいただいちゃって」
「せっかく義姉さんたちに会えたんだしな。ジャスミン義姉さんがピーターと結婚したのは知ってるけど、だからって俺が会えるわけじゃないし」
小さなテーブルの向かいでティーカップを持つ指の形が様になっているのは、元義弟で現王太子妃のシンデレラです。
弟が王太子妃。意味がわからない文章ですが、ヘンリエッタもあの時のことはいまだによくわかりません。
一年前、王子の花嫁探しのための舞踏会が催されました。
次の日、舞踏会で見初めた女性を探し回ってヘンリエッタの家に立ち寄った王子は、男であるシンデレラに向かって君に間違いないと迫り、そこへいつのまにか侵入していた謎の老婆が割って入ると、シンデレラは女の子になっていました。そしてヘンリエッタを始めとした家族が呆然としている間に、シンデレラは王太子妃となっていたのです。
シンデレラは今は豪華なドレスを身につけ、ウエストを引き締めて強調された胸元からは立派な谷間が覗いています。
(本当に女の子になったのねえ)
今この場にはヘンリエッタたちしかいないために口調が昔のままですが、隙のない姿勢で座る姿はどこからどう見ても気品に溢れた美女です。
お妃教育の賜物かと考えかけて、そうではないとヘンリエッタは思い直しました。以前のシンデレラにも、ふとした時に所作が美しいと感じていました。亡くなった実母の教育がよかったのでしょう。そういうところも、義弟だった頃のシンデレラになかなか文句がつけられない理由でした。
そう、すべては過去のこと。
今のシンデレラは王家の一員です。
本来なら庶民には踏み入れることのできない城の奥。高価な食器に触れ、一流の料理を口にして、家事一切を押しつけてこき使っていた元義弟とのお茶会。
すべてが夢の中の出来事のようで、頭の中がなんとなくふわふわしています。
とりあえず、ヘンリエッタは紅茶の香りを深く吸い込みました。
「私はシンデレラに会えて嬉しかったけど、王子さまは不機嫌だったわね。二人きりのお食事にお邪魔しちゃって申し訳なかったわ」
「違う。あれは、……あいつは人見知りだから」
「王子さまは人見知りなの?」
「そう。義姉さんたちに緊張してただけだから気にすんな」
ヘンリエッタは意外に思いました。シンデレラを食いつきそうな勢いで見初めた態度からは、王子が人見知りには見えなかったからです。
「王子さまが人見知りだなんて大変ねえ」
「人の顔が覚えられないから人見知りなんだよな。挨拶されてもどこの誰だかわからないから人前に出ると疲れちゃって。俺が一緒にいられる時はフォローするけど、そうじゃない時は本当に疲弊して帰ってくるな。……暗い庭園を一人で歩いていた“女”の心配はできたのに、どうして普段はああなんだか」
しかたない奴。
そう言ってシンデレラは溜め息を吐きました。
呆れているような、それでいて心配している顔を見つめながら、ヘンリエッタにはわかったことがありました。
王子は顔で人を判断しないからこそ、家族が知らないところで性別がころころ変化していたらしいシンデレラを、性別無関係に特定することができたのです。
「ヘンリエッタ義姉さん? ずっと黙ってるけど具合でも悪いのか?」
お菓子を取らず、カップに口をつけず。話にもまったく入ってこないヘンリエッタがぼんやりしているように見えて、シンデレラが声をかけました。
(私に気を遣わなくていいのに)
ジャスミンは平然として楽しくおしゃべりしていますが、ヘンリエッタの頭には以前の記憶がへばりついてます。今のシンデレラが自分をどう思っているのか内心気が気でないのです。
しかし、話を振られたからには無視できず、落ち着くためにまた紅茶の香りを吸い込んでから口を開きました。
「……別に。私はいたって健康よ。ただ」
「ただ?」
「王子さまはあなたのことを深く愛していらっしゃるのねと思って」
シンデレラは手を滑らせかけ、カップとソーサーがぶつかってカチャリと音を立てました。
「……俺、なんか変なこと言ってた……?」
「いいえ」
愕然とした顔で訊かれて、ヘンリエッタは首を振ります。
「だったら、どうしてそういう話になるんだよ」
「あなたの話を聞いて導きだした結論よ」
「え? え? わかんねえ……なに言ったっけ、俺」
シンデレラは困惑して頬を押さえました。
「顔がまっ赤になっているわよ?」
「そんなことないっ……いや、わかっているから一々言わなくていい!」
ジャスミンに指摘されて、シンデレラは耳までまっ赤になります。
必死になりながらも恥じらう姿を見て、ヘンリエッタは感慨を覚えました。
(この子、こういう面もあったのね)
義姉と義母のいびりを平然と受け流し、完璧に家事をこなして決して弱いところを見せなかったシンデレラは、図太い神経を持った子なのだと思っていました。
そもそも、こんなに向き合っていること自体が初めてです。こんな面があることを知るほど言葉も交わしていませんでした。
知らなかったシンデレラの一面を覗いたと共に、王子のことをシンデレラがどのように思っているのかも垣間見えました。
なんとなくほっこりした気分になったヘンリエッタの視界の端を、なにか小さなものが駆け抜けました。
見れば、数匹のネズミがちょろちょろと床の上を走り回っています。
「きゃあ! ネズミよ!!」
「あら本当。お城でも出るのね」
「誰かの声がすると思ったら、お客さんがいるよ」
「お客さんじゃないよ、シンデレラのお姉さんたちだよ」
「——おまえら、人がいる時に出てくるな! ていうか、壁の穴を広げるんじゃない!」
ヘンリエッタは青くなり、シンデレラは慌てて手で払う仕草をしますが、ネズミたちは義姉たちの周囲をうろちょろして二人をよく観察しようとします。
人を呼ばずに追いやってすまそうとするシンデレラに、ジャスミンは首を傾げました。
「そのネズミたちはシンデレラの飼いネズミなの?」
「飼ってるつもりはないけど、家にいた頃に残飯をあげてたら懐かれたんだ。俺が城にいるって聞きつけて追って来ちまったんだよ」
「シンデレラ、城に来てますますかわいくなったね」
「やっぱりその格好が最高だよ」
「おまえら黙れっつーの」
シンデレラとネズミの馴れ合いを見て、ヘンリエッタは眉をひそめました。
「あなた、ネズミを可愛がるなんてどんな神経してるの」
「残飯あげてただけだって。俺以外の人間がいる時は表に出てなかったはずだから、たぶん義姉さんたちには迷惑かけてなかっただろ」
「確かに、家にネズミがいたなんて知らなかったけど……」
てっきり、シンデレラの掃除が完璧だから不衛生なものはきれいさっぱり排除されていたのかと思っていましたが、馴らして言うことを聞かせていたとは驚きです。
「シンデレラ、僕たちもおやつが欲しいよ」
「欲しいよ」
「……おとなしくしていられたら、義姉さんたちが帰った後にやる」
「わかったよ、シンデレラ」
「帰るまでおとなしくしてるよ」
ネズミたちはシンデレラの椅子の横にピタリと座り込みました。
つぶらな瞳が向かい側の二人を見上げます。
「おまえら、もうちょっとこっち」
早く帰れという圧力にヘンリエッタが居心地悪くなっているのを見て取り、シンデレラは二人の視界に入らない場所へネズミたちを移動させました。
「とりあえずこれでいいか?」
「……ええ、まあ」
ちょこちょこ見せる気遣いに、ヘンリエッタは戸惑っていました。シンデレラには過去のわだかまりや、仕返しをしたいという欲求はないのかと。
「なんだよ」
不思議そうに見つめられて、シンデレラも不思議そうな表情を返します。
「なんでもないわ」
自分からやぶを突つく趣味はないので、ヘンリエッタはカップを気にするふりをして目をそらしました。
「まあ、元気にしていてよかったわ。また風邪をひかないように気をつけるのよ」
「っ、うん」
シンデレラは言葉を詰まらせました。
「またってお姉さま、シンデレラが風邪をひいたことはなかったでしょう?」
「家ではひいたことはなかったけど、王子さまと結婚してからの今年の冬よ。ご懐妊騒動があったでしょう」
「ご懐妊? そんな話も聞いたかしら?」
王族になにかあれば公に発表されるので、庶民にもある程度状況は伝わってきます。
その時の発表は、大々的に王太子妃の懐妊が広められた数日後、妃の体調不良は感冒によるものだったと訂正されたのです。
「あの時は人間たちがすごくうるさかったね。世継ぎだ男だ女だって」
「僕たちが食事を取りに出る隙間もないぐらい大騒ぎだったね」
ネズミたちがチューチューと話し合います。
それを聞くシンデレラの表情が、苦虫を噛み潰したようになりました。
「男でも女でも世継ぎでもなんでもいいよね」
「シンデレラが産んだ子だったらかわいいだろうね」
「……おまえら。黙らないと、城内の猫増やすように大臣に言うぞ」
澄んだかわいい声が低く地を這います。
「猫は駄目だよシンデレラ。あいつらは凶暴な生き物だ」
「あいつらの爪や牙が食い込んだら、僕たち動けなくなっちゃうんだよ」
「だったら黙れ」
「黙るよシンデレラ」
「だから猫は駄目だよ」
「……とりあえず、俺が呼ぶまで穴に戻ってろ」
「わかったよ、シンデレラ」
「きっと呼ぶんだよ」
ネズミたちの退場を見送って、ヘンリエッタは呆れた目を向けました。
「……ネズミは駄目だと思うわよ、シンデレラ」
「いやさ、ずっと面倒みてた奴らだし。あいつらだけは見逃したくなるっていうか」
ネズミは人間の生活には害でしかありません。城でもネズミ対策で猫に役職を与えて複数飼っています。
シンデレラも本来は見逃してはいけない存在だとわかっていますが、家にいた頃からの付き合いのネズミたちだけは、ネズミはネズミと切り捨てられずにいました。
苦笑するのを見て、ヘンリエッタは気がついてしまいました。
「……もしかして私たちって、シンデレラにとってはネズミと一緒……?」
こき使われながら要求以上にきっちり家事をこなしていたシンデレラは、面倒見がよすぎて、一度抱え込んでしまった存在は切り捨てられないのかしらと。
そう考えて、ヘンリエッタの眉間に皺が寄りました。
「どうして俺が義姉さんたちとネズミを一緒にしなきゃいけないんだよ」
シンデレラは面食らっています。
「小さくてかわいくて不潔なところとか?」
「嫌ね、ジャスミンったら。どうしてそこに不潔が入るのよ」
「意味わかんないんだけど。俺はあいつらにわざわざ猫をけしかけようとも思わないけど、畜生と人間を一緒にもしないぞ」
「ええまあ……、今のは気の迷いだから気にしないで」
もしも想像どおりなら、シンデレラはお人好しよすぎます。こき使っていた身で思うことではないでしょうが。
ふと、男だった頃のシンデレラの姿を思い出しました。
舞踏会の日程が発表されてから、シンデレラは毎晩遅くまで起きてドレスを縫っていました。ヘンリエッタはサイズの確認だけされた後は任せっぱなしでしたが、必ず気に入る素敵なドレスができあがってくると無意識に期待していました。それまでシンデレラが作ったものはなんでもそうだったからです。
そしてやはり、期待以上のできあがりを見た時の興奮はひとしおでした。
完成品を誇らしげに広げ、義姉二人の反応を見たシンデレラはちょっと嬉しそうだったと記憶しています。
どうしてか今、昔のシンデレラが思い出されてなりませんでした。
「……やっぱり、今日のヘンリエッタ義姉さん、変じゃないか?」
どうも思考に囚われて黙りがちになるヘンリエッタに、シンデレラが遠慮がちに訊きました。
そこでカチンと来てしまうところがヘンリエッタです。
「変とはなによっ」
「言い間違いだ、言い間違い! 元気がないように見えるんだよ、今日は」
シンデレラは慌てて取りつくろいます。
ヘンリエッタもここは怒るところじゃないと、すぐに自分を落ち着かせました。
「ちょっといろいろと考えることがあるだけよ」
「将来のこととか?」
「そうね……結婚も決まったし、そのことも考えなくてはいけないわね」
シンデレラと再会してからは昔のことで頭がいっぱいだったのですが、将来と聞いて自分の身の上を思い出しました。
まだ日取りは決まっていませんが、ヘンリエッタも嫁ぎ先が決まったのです。
驚いたのはシンデレラとジャスミンの二人です。
「――えっ! ヘンリエッタ義姉さん、結婚するのか!?」
「あらあ。初めて聞いたわ、お姉さま」
「あなたには今朝言い損ねたからね。……なにかおかしいかしら、シンデレラ?」
「驚いただけだよ。よかったじゃん、結婚決まって」
「まあね」
話題の割りに嬉しそうでない様子に、シンデレラは首を傾げました。
「なんか気乗りじゃなさそうだな。あれか、相手はエロオヤジだとか、とんでもなく年の離れたジジイだとか、もしくは……王子じゃないから、とか?」
「どうしてそこで王子さまが出てくるのよ」
「舞踏会の時にあんなに気合い入ってただろ」
「王子さまはもう結婚されたじゃない。あなたと。不倫も略奪愛もする気はないわよ」
王子には奇行を見せられて夢も理想も打ち砕かれたので、もはや存在すらどうでもかまいません。
「だから、そんなに顔を歪ませるのはやめなさいな」
「えっ!?」
シンデレラは自分の頬を押さえました。
「自分で王子さまのことを話題に出しておいて、人をにらむのはやめて欲しいわ」
「別ににらんでなんか」
「シンデレラったら、すごい顔してるわよ?」
「……嘘だああぁ……」
容赦のないジャスミンの指摘に撃沈してしまいます。
王子の話題はシンデレラの弱点のようです。
シンデレラの結婚は性別の変化を伴ったものでした。女性に変化する直前は王子の断定を否定していましたし、感情的にはマイナスからのスタートだったはずです。
しかし、今現在はこの反応。愛が順調に育まれているのがわかります。
「そんなに王子さまのことを愛しているのに、どうしてお城から逃げようとしているのかしら」
「——! どうしてそれを!?」
シンデレラは顔を上げました。
驚きに見開かれた目はこぼれ落ちそうです。
「城下でうわさになっているわよ。あなたがたびたび逃げようとしているって」
「私も聞いたことがあるわ」
「バカバカしいうわさ話だと思っていたけど、本当のことだったのね」
「うわさって……マジか……」
「裏門で見かけたあれはそういうことでしょう? でも、逃げ出せていないのね」
「……毎回毎回、ライアンが捕まえにくるんだよ。いつでも、どんな格好してても俺のこと見つけ出すんだ。なのに、俺が逃げようとしていることにはなぜかまったく気がついてないけど」
「王子さまに愛されているのね、シンデレラ」
「……もう言わないでくれ……」
シンデレラは両手で顔を覆いました。また耳が真っ赤になっています。
王太子妃の逃亡だなんて、完遂されたらとんでもないことですが、逃げたくなる気持ちも少しわかります。
ご懐妊騒動のことを話題に出されたシンデレラはひどくつらそうでした。
ヘンリエッタはまだ結婚前ですが、嫁入りした女性が跡継ぎを求められる圧力は耳にします。王太子妃への圧力は庶民の家庭の比ではないはずです。
「……で、ヘンリエッタ義姉さんの相手は……?」
指の隙間から目を覗かせて、シンデレラが話を戻しました。
(私の話なんて聞いてもおもしろいのかしら)
そこが気になりますが、今を逃したらシンデレラと話す機会は二度とないでしょう。
ヘンリエッタは今話せることはすべて伝えておくことに決めました。
「お相手はとんでもなく……もないけど、十歳以上年の離れたお医者さまよ」
「へえ。医者かあ」
「いつお話が決まっていたの、 お姉さま」
「一ヶ月前よ」
舞踏会以降、ヘンリエッタは異性と縁がありませんでした。舞踏会で声をかけてきた男性もいましたが、当日は王子の妃の座を狙っていたために全て断ってしまったのです。
その医者は、自分から相手を探す気もなくなっていたヘンリエッタの前に突然現れた求婚者でした。
「結婚のお申しこみに来た時にしかまだお会いできていないけど、真面目でいい感じの方だったわ。我が家の窮状を見かねてあちらで使用人を雇ってくれて、私がお嫁入りした後も実家の使用人の給料を出してくださることになっているの。ジャスミンが今朝会った使用人がそうよ」
「まあ。お金持ちなのね」
「長い間独り身だったから余裕があるんじゃないかしら。なんであれ、お金があるのはいいことよね」
「その医者って初婚なのか?」
「いえ、隣のおばさまに聞いたのだけど、一度奥さまを亡くされているそうよ」
「あらあ……大変だったのね。お医者さまなのに奥様を治せなかったのは、おつらいでしょうね」
「……なんでわざわざあのおばさんとそんな話を」
「家にお医者さまが出入りしたのを見て、誰か重病人が出たのかとわざわざ訊きにきたのよ。それからそういう話になって」
「あいかわらず見境なく首突っ込んでくんのか、あのおばさん。……馬車見られなくて本当によかったな……」
「なにか言ったかしら?」
「いいや」
シンデレラはぷいと視線をそらしました。
「どこで縁があったの、お姉さま」
「さあね。なにしろお忙しい方でろくにお話できなかったから、詳しいことはなにもわからないのよ。……わかっていることはただ一つ、彼と結婚するということだけよ」
「……ヘンリエッタ義姉さん、不安なのか?」
「そんなことはないわよ。実家の方にまで使用人を雇ってくださるぐらいのお金持ちの方だし、多少のぜいたくはできることを期待しているところよ」
ヘンリエッタは笑って見せましたが、シンデレラは心配そうな表情を変えません。
(この様子だと、きっと知らないわね)
シンデレラには決して言えません。今のヘンリエッタと家族が世間の冷たい視線にさらされていることなんて。
王太子妃の出自は公には秘密になっており、世間では国外から来たと推測されています。城下から嫁いだ”娘”が存在しないからです。
家から姿を消したシンデレラに関しては、こき使われる生活にうんざりして家族が出払った舞踏会の晩に出奔したのだろうとうわさが立ち、一家は冷たい視線にさらされるようになりました。ジャスミンは事情を知っているピーターと結婚しましたが、相手のあてのないヘンリエッタは本当のことが言えない日々を自業自得として過ごしてきました。
だから歳が離れていても、後妻でも、今のヘンリエッタに求婚者が現れたこと事態が驚きなのです。
(いい人そうではあったけど……評判が悪い家の娘をわざわざもらおうというぐらいだから、独り身が寂しくなって、金で言うことを聞かせられる若い女に目を留めたというところよね)
もしもそのとおりだとしても、条件を考えれば十分ありがたい話です。少なくともお金はあるのですから。
神妙な顔のままのシンデレラが、口を開きました。
「その医者ってさ、国内一評判がよくて、歳は三十代半ばで、十年ぐらい前に奥さんを病気で亡くした人?」
「腕はかなりいいらしいけど……、前の奥さまがいつどうして亡くなったのかは知らないわ」
「背が高くてきつい癖のある金髪で」
「ええ、ええ……。シンデレラ、なにか知っているの?」
驚くヘンリエッタにシンデレラはうなずきます。
「さっき言った、風邪ひいた時に来た医者がその人だと思う。……名前忘れたけど」
「ダスティン・フレイザーさんよ」
「ああ、確かそんな名前だったな」
「あらあ。世間は狭いのねえ」
「町一番の腕を持っているとは聞いていたけど、お城に出入りできるぐらいなのね。私はお医者さまとは無縁だからまったく知らなかったけど」
「ヘンリエッタ義姉さん、頑丈だったもんな」
「お医者さまにかかれるお金もないのに頑丈もなにもないでしょう。私は農機具かなにか?」
「ほめてんだけどな。言い方が悪かったよ。……でもそっか。あの話、義姉さんのことだったんだな」
「……? 風邪をひいた時になにか聞いたの?」
「ああ」
「あなたが風邪をひいたのは半年以上前じゃない。結婚を申し込まれたのは一ヶ月前よ。違うのではないの?」
「医者なんて何人もいないし、合ってると思うけどなあ。なんか変なことも言ってたけど」
変なことという言葉に、ヘンリエッタはドキリとしました。
「どんなことをおっしゃってたの?」
「……えっと……」
シンデレラはフレイザーと会った時の記憶をたぐり寄せます。
冬の寒い日、熱を出してライアンの隣で倒れた後、起きた時には懐妊したという話が広がっていました。
二日経ってどうも違うらしいという話がようやく出て、医者として呼ばれた彼と少し話をしたのです。
――王子さまも結婚されて、我が国の将来は安泰ですね。……いえいえ、今回体調を崩されたのは風邪が原因ですね。それ以外にはないですよ。王子さまもひどく心配されていましたし、しっかり快復してください。こちらが薬になります。しかし、うらやましいですね。王子さまとお妃さまがとても幸せそうで。——私ですか? 今は独り身なんですよ。……でも、そうですね、気になっている女性はいます。周囲には彼女はろくな人間じゃないからやめておけと言われるんですが、どうにも心惹かれて仕方ないのです。……どうしてその人はそんな風に言われているかですか? それは私の口からはなんとも申し上げられません。——え? なら、そんな風に言われているような女性なのにどこに惹かれたのかって? そうですね……そんな風に言われていても前を見据えて歩いているところでしょうか。気が強そうではあるんですが……健康そうなところも、何もかも亡き妻とは違いすぎるのですが、そんなところに惹かれるんでしょうかね。……もしも彼女を妻に迎えられたら、とは時々考えます。その時……亡き妻は私を許してくれるでしょうか……。
シンデレラはフレイザーとの会話の内容を、思い出せるところだけかいつまんで話しました。
「……健康そうって、どういう意味かしら」
シンデレラに頑丈と言われた直後なので、ヘンリエッタはささいな言葉が引っかかりました。
「お医者さまなら見てわかるんじゃないかしら?」
ジャスミンは言いますが、人は見た目によらず呆気なく逝ってしまうこともあります。ヘンリエッタたちの父も、シンデレラの母もそうでした。
「前の奥さんと比べてって話じゃねえかな」
「そうかしら……」
「——考えすぎだって! 見た目だけじゃわからないことぐらい医者なら余計にわかってるだろうし、でも医者だからそこに目がいくんだろ。……どんな理由だろうと、あの人がヘンリエッタ義姉さんに惚れたことには変わりないよ」
「……本当にそれ、私のことでいいのかしら」
再度疑問を投げかけてみますが、ろくな女ではないと言われているという辺り、自分のことで間違いないとも思えました。
「亡くなった奥さんを十年も思っていた人が、半年で求婚相手変えないだろ」
「お医者さまは半年間なにをしていたのかしらね?」
「悩んでたんだろ」
「シンデレラはお医者さまの話を聞いただけ? なにか言ったりしなかったの?」
「俺は……」
シンデレラはヘンリエッタの顔をちらりと見ました。
「……十年も経ってるなら亡くなった奥さんも認めてくれるんじゃないですかって。相手が誰かも知らないのに無責任なこと言ったかなって、少し気になってたんだけど……」
「その言葉でお医者さまが心を決めたのなら、シンデレラが愛のキューピッドなのね」
ジャスミンの言葉に、ヘンリエッタは目を丸くしました。
急に頭の中のもやが晴れ、世界が明るくなったかのように感じました。
その時です。
勢いよく扉が開き、人が飛びこんできました。
「シンデレラ! 仕事が一段落ついたよ!」
歓喜の色を浮かべたライアンが、いきおいのままにシンデレラに抱きつきました。
「ライアン!? こら!」
「今日の会談の使者は顔が怖かったよ」
「離れろって! 人前だぞ!」
シンデレラはヘンリエッタたちを気にして身をよじりますが、ちっとも腕は緩みません。それどころか、逃さないようにとさらに力がこめられます。
「君の姉だろう? いいじゃないか、少しぐらい」
「ダメだって!」
「君が僕を癒やしてくれるまでは絶対に離れないよ」
「……しょうがねえな。ちょっとだけだぞ」
シンデレラはライアンの背中をポンポンと叩き、軽く抱きしめてやります。
「あらあら」
親が子を慰めるようなやりとりに、ジャスミンが声をこぼしました。
ヘンリエッタはさすがにライアンの言動に慣れた今、シンデレラの方へ目が行きました。
シンデレラは一見ライアンを甘やかしているようでいて、むしろ甘えた顔をしていました。
誰かに寄りかかるシンデレラの姿を見るのはこれが初めてです。
ヘンリエッタは自然に頬がゆるみました。
「本当に仲がよろしいこと」
「そうね、うらやましいわあ」
「じろじろ見てんなって!」
ライアンとのやりとりをほほえましく見守られて、シンデレラが二人をにらみました。まっ赤な顔で。
シンデレラが抱えているものはヘンリエッタが想像できないぐらい大きく重く、複雑です。自分から面倒を背負いにいくタイプでもあるので、これからも苦労することは必至です。弱さを人に見せることもしないので、これからも城から逃げ出したくなるほど追い詰められることはあるでしょう。
しかし、シンデレラにはライアンがいます。シンデレラはライアンを自分が支えてやらなければいけないと考えていますが、ライアンもシンデレラの心の支えになっています。
今後シンデレラと二度と会うことがなくても、どんなうわさを耳にしても、きっと幸せでいると信じられそうです。
「……王子、王子ー! どこまで行かれたんですかー?」
開いたままの扉の向こうから声が聞こえてきます。
「あら、ピーターの声だわ」
「……あなたの旦那さまも大変ね」
「ピーターが来るぞ! 離れろって、ライアン」
「断る」
「ラーイーアーンー!」
シンデレラは必死になってライアンを押しのけようとしますが、太い腕がそれを許してくれません。
「ここにいたんですね、王子! ……やあ、ジャスミンも」
「はあい、ピーター」
「……コホン。王子! お妃さまとのおたわむれはまた夜にでもしてください!」
「僕には今、彼女が足りないんだ」
飛びこんできたピーターの呆れた視線に耐えられず、シンデレラは広い胸に顔を伏せてしまいました。
ピーターはピーターで働く姿を新妻に見守られて、なんとか王子をなだめすかせて妃から引きはがそうとしつつ、いい格好を見せようと必死になっているのがヘンリエッタの目にもわかります。
「うふふ。頑張っているピーターの顔、かっこいいわ」
「……ライアン。もう行けって」
「そんな寂しいことを言わないでくれ、シンデレラ!」
なかなか場が収まりません。
手持ちぶさたになったヘンリエッタは、今まで口にしていなかったお菓子に手を伸ばしました。
歯を当てただけでサクッとほぐれたお菓子はとても口当たりが優しくて、ふんわりと幸せな気分にしてくれました。
二人が城の外へ出た頃、日は傾き始めていました。
「長居してしまったわね、お姉さま」
空のバスケットを手に坂道を下りながら、ジャスミンが言います。
「そうね」
「シンデレラが元気にしていてよかったわ」
「本当ね」
「楽しかったわね、お姉さま」
「ええ」
ヘンリエッタは深くうなずきました。
(……本当に、こんなに楽しい時間をすごしたのは久しぶりね)
結婚が決まってからのヘンリエッタは、母から一方的に小言を聞かされるばかりの身でした。
久しぶりに長々と会話を楽しむことができて、今はとても晴れやかな気分です。
「お姉さまの結婚も知ることができたし、今日訪ねてよかったわ」
「私もジャスミンに会えて嬉しかったわ」
「うふふ。また会いましょうね」
曲がり角で二人は笑顔で別れました。
一人になって、ヘンリエッタの表情は暗くなりました。
これから帰る家を思うと気が重いのです。
――私はこの家でずっと暮らしていくのに、あなたはよくもまあいい男を掴まえたわね。
――旦那さまによく気に入られ、家への援助を切られないようにしなさいよ。
ここのところ、毎日のように母から聞かされている言葉です。
使用人が派遣されてからは母の機嫌も多少よくなりましたが、根本的には変わっていません。
義父は母になにも言いません。実の息子すら守らなかった人ですから、義理の娘などかばってはくれません。
(……お母さまと一緒になってシンデレラをこき使っていた私に、お義父さまのことなんて言えないけどね)
実のところ、ヘンリエッタは義父と再婚した母のことを軽蔑していました。頼りない人を選んだからということもありますが、それまでの母自身の言動を裏切る選択だったからです。
夫を早くに亡くした母は、女手一つで二人の娘を育てました。
三人家族だった頃の母は元気で力強くて、ヘンリエッタはそんな母が大好きでした。ジャスミンと二人で待つ家に疲れた母が帰ってくれば、毎日がんばっている彼女をほこらしく思っていました。いつか楽にさせてあげるからねとなでてくれる手に優しさを感じていました。
だから義父と引き合わされた時、失望を覚えたのです。
八つ当たりをかねて、母と一緒になって面倒をすべて義弟に押しつけながらも心の中にあったのは、私は母とは違う、私は玉の輿に乗ってみせるという母への反発でした。
そんな夢も理想も打ち砕かれて、子供の頃のようにまた家事をするようになって、なにをやってもいまひとつな自分に情けなくなりました。
自分の不器用さも悪評も自分自身が招いたことと、すべてをあきらめてすべてを受け入れた時に、求婚者が現れたのです。
大通り沿いに歩いていたヘンリエッタは、大きな屋敷の玄関先で見送りを受けている二人組を見つけました。
後ろで大きな鞄を手に立つのは小柄な少年。前に立つ、長身できつい癖のある金髪の男はダスティン・フレイザーです。
ゆっくりと近づいていくと、フレイザーがヘンリエッタに気がつきました。
「……ヘンリエッタさん?」
「こんにちは」
ヘンリエッタは彼へほほ笑みかけました。
彼のことをいろいろと知った直後に出会えるなんて、素晴らしい偶然です。
「まあまあ。かわいいお嬢さんですね。フレイザーさんのお知り合いですか?」
「ええ、私の婚約者ですよ」
「え……」
フレイザーに紹介された屋敷の人間は、二人の間で視線を往復させました。戸惑った表情はうわさを知っていることを表しています。
ヘンリエッタは黙って彼女へ一礼しました。
「今日はここで往診が最後なんです。よければ少し一緒にすごせませんか」
ヘンリエッタに不躾な視線を送りながら彼女が屋敷に引っ込むと、フレイザーはヘンリエッタを誘いました。
すると、ヘンリエッタが答えるより先に、フレイザーの後ろにいた少年が大きな声を上げました。
「先生! 僕が先生をご自宅までお送りします!」
「アンソニーくん。今日はここでいいよ。また明日頼む」
「僕は先生の荷物を運ばないといけません!」
「自分で持って歩けるよ。大丈夫」
フレイザーはアンソニーから鞄を受け取るために手を差し出します。
その手を見つめ、迷って迷って、アンソニーはフレイザーに鞄を渡しました。
そして、ヘンリエッタをキッとにらみました。
二人は往診のためにあちらこちらの家に出入りしているので、いろいろな話を耳にします。フレイザーが知っているようなうわさは、同行しているアンソニーの耳にも当然入ります。
きつい眼差しの少年に、ヘンリエッタはただほほ笑んでみせました。
そんな反応が返ってくると想像していなかったアンソニーは一瞬目を丸くすると、二人に背を向けて駆けていってしまいました。
ようやく二人きりになると、フレイザーは苦笑を浮かべました。
「……すみませんね。あの子はいつもは一生懸命私の助手を務めてくれるいい子なんですよ」
「いいえ。お弟子さんなら、フレイザーさんの身内も同然の方でしょうから……私もできれば仲良くなりたいです」
「そうしてもらえると私も嬉しいです」
夕方の慌ただしい町中を二人並んでゆっくり歩きます。
「私が荷物をお持ちしましょうか?」
ヘンリエッタは、普段なら助手が持ち運んでいる鞄をフレイザーに持たせていてはいけないのではと考えました。
「いえいえ、女性にこんな重い物は持たせられません」
「私、女の中ではきっと力はある方ですわよ」
軽く拳を握ってみせると、フレイザーが不思議そうな顔をします。
まだほんの短い時間しか顔を合わせたことのない相手に、急に態度がなれなれしくなっているかもしれません。
ヘンリエッタは、次にフレイザーに会った時にはどんな風に接すればいいのか悩んでいました。今朝までは。
でも、シンデレラの話を聞いた今なら大丈夫です。
「ねえ、フレイザーさん」
「なんでしょう」
「私、丈夫さだけは取り柄ですの」
急にそんなことを言い出したヘンリエッタに、フレイザーは驚きの表情を見せました。
「だからきっと、あなたをわずらわせることはしません」
「……誰かに、なにか聞いたんですか?」
「いいえ」
言葉では否定しつつ、思わせぶりにほほ笑みます。
「できればちゃんと教えていただきたいんですが。……その、なんだか恥ずかしいので」
「お話できる時がきたらお伝えしますわ」
きっとその日は来ないと思いながら。
秘密をふくませたヘンリエッタの笑みに、フレイザーは戸惑っていました。
「……本当に、あなたが私についてどんな話を聞いているのか、怖いんですが」
「どうぞお気になさらないで。ただ私は……きっとあなたの良き妻になりたいと心に決めていますの」
周囲の反対を押して自分を選んでくれたフレイザーのために、フレイザーの選択が間違っていたと周囲に思われないように、ヘンリエッタは彼をしっかり支えられる女性になりたいのです。
ヘンリエッタは母に反発を覚えつつ、自分が母に似ていると自覚がありました。体が丈夫なところも、顔も、考え方も。
けれど、母と自分は違う人間だから、きっと違う将来を作り出せると今は信じています。
「……嬉しい言葉ですね。でも、まだあなたは若い。そんなに肩に力を入れなくてもいいんですよ」
「フレイザーさんこそ、そんなに年寄りぶらなくていいのですよ? どうぞ肩の力をお抜きになってくださいな」
わざと同じ言葉を返すと、驚いてばかりだったフレイザーがようやく笑顔になりました。
「どうやら、想像していたよりもあなたはかわいらしい方だったようです」
「お世辞がおじょうずね」
「いえいえ、本当に。なんだか動悸が……、こんないい年をして、若者のように興奮を覚えます」
「まあ」
「このままあなたの手を引いて教会へ駆け込みたいぐらいです」
「そうしていただいてもかまいませんわよ」
ヘンリエッタは手を差し出しました。
フレイザーもその手を取ります。
しかし、駆け出すことはしませんでした。
「いえいえ、ちゃんと手順は踏みますよ。きちんと日取りをもうけてあなたをお迎えしたいのです。だから時間が取れるまでもう少し待っていてもらえませんか……ヘンリエッタ」
「ぜひお待ちしていますわ」
ヘンリエッタはフレイザーの笑顔を見つめながらうなずきました。
オレンジ色の陽光が町を照らし、長い影をあちらこちらに描き出します。
長く伸びる影が行き交いすれ違う中、一組の影は寄り添いあって揺れていました。