過信
私を食べたのは誰?
狼?それとも――――
「赤いドレスが良く似合うよ」
リビングに招き入れるなり、守谷はそう言った。
「やはり僕の思った通りだ。絵理にはこういう大胆なドレスが良く似合う。それにね、僕は絵理の肌には真紅の赤が映えるだろうって、ずっと思っていたんだ」
高層マンションの17階。この部屋からは、東京の夜景が一望出来る。出来すぎたシチュエーションに、棘の隠された甘い言葉。この男はいったい今まで何人の女と、こうした夜を過ごしてきたのだろう。
「何ににする?シャンパン?それともワイン?」
「ワインを」
「絵理は赤ワインが好きだったね」
「ええ」
部屋の隅のカウンタバーには、あからさまに高級なお酒が、それぞれの銘柄を誇示しながら並べられていた。
クリスタルグラスに注がれる赤ワインは、血を薄めたような美しい赤。これから私が行おうとしていることを暗示するかのように、妖しく輝いている。
「フランス産の美味しい赤ワインが、ちょうど手に入ったんだよ」
守谷はテーブルに二人分のグラスを置くと、私の横に腰掛けた。光沢のある黒い皮のソファーが、少しだけきしむ。
「乾杯」
透明感のあるグラスの音が、広いリビングルームでわずかに響く。
勢いよくワインを飲み干す守谷の喉の動きを、私はじっと見つめた。日焼けした肌といくつかの皺。金のネックレスのチェーンが、鈍い光を放つ。
私はこの男の喉元を締め上げる様を想像した。
そう。この目の前の男を、私は殺そうとしている。
殺人。
許されざるべき行為なのはわかっている。人道的ではない。法律にも反している。しかし私はやらねばならいのだ。私の大切な人のために、絶対に。
「昔ね、君のように真っ赤なドレスが似合う女性に出会ったことがあるよ」
「せっかく二人きりなのに、他の女性の話をするなんて野暮だわ」
「うん、そうだね。ちょっと酔ったのかもしれない」
「もう?」
「今日は昼から飲んでいたから」
守谷の腕が、私の背中へまわされる。大きな手が、私のむき出しの肩をとらえた。
「こんな深酒も、今日で終わりさ」
既に酔っているならばちょうどよい。
頃合を見て睡眠薬を飲まそうと思っていたのだが、その必要もなさそうだ。言われてみると、確かに動作は緩慢で、視線はどこか浮ついているように見える。
「キスをしてもいいかな?」
「......ええ」
その先のことに発展しても問題ない。覚悟はできている。むしろ一度抱かれた方が、隙をつくことも簡単だろう。
そう。隙をついて首を絞める。
女に気を許した酔っ払いの男など、女の細腕でも、容易に締め上げることが出来るはず。
「君のキスは甘いな」
「甘いのは、キスだけだと思う?」
「......いいや」
守谷がゆっくりと、私の上に覆いかぶさってきた。
私は瞳を閉じる。
姉のため。
そう。全ては死んだ姉のためだ。
二つ上の私の姉は、私の憧れでありそして誇りであった。姉の髪型を真似、姉の好む本を読んだ。姉を理解し、姉のような女性になりたいと思った。彼女が生きていようが死んでいようが、この姉への畏怖と尊崇は変わらない。
どうしてこんなにも姉を愛していたのかはわからない。
いや、理由は数え切れないほどあるのだ。
しかしそんなことはどうでもいい。重要なのは、私が姉を愛したということ。そしてこの守谷のせいで、姉は自殺したという現実。
私は姉のために復讐しなければいけない。
美しい姉を、何の罪もない姉を死に追いやった守谷。
私はこの手で、愛する姉のために、この男を殺すのだ。
***
最近姉の様子がおかしい。
姉のことを誰よりも知っていた私だから、姉の変化にはすぐに気がついた。
あの男、守谷一狼とかいう男と付き合いだしてから、姉の様子がおかしくなった。私を見つめているようで見つめていない。心をどこかへ置き忘れてしまったかのように、物思いに耽ることが多くなった。
常に太陽のように輝いていた姉には、あるまじき変化。
そう、影が見えるのだ。
清楚に装っても、派手に振舞っても、姉は常に輝いていた。自分自身に誇りを持ち、常に輪の中心できらめき続ける光があった。
けれど今の姉には、光の合間に影が見える。
こんなことは初めてだ。
私の頭上を照らし続けていた姉に、影が差すなんて。
そしてある日の朝、姉は自室で首を吊って死んだ。
姉の遺体を発見したのは、私だった。
出勤する時刻になっても起きてこない姉を心配して部屋へ行ってみると、そこに蓑虫のように天井からぶら下がる、姉の美しい体があった。
何故。
当然の疑問。
あの男のせいだ。
疑問とともに下された、私の回答。
その瞬間、私は守谷を殺すことを決意した。
***
「守谷さんの手、大きいのね」
「絵理の小さな手を包み込むためだよ」
「守谷さんの体、温かいのね」
「絵理の冷たい体を温めるためだよ」
狭いソファーの上で、私たちは互いの体をまさぐる。
姉のためならば、なんだって出来る。
姉を殺した男に抱かれることぐらい、今の私には何て事はない。むしろ姉がこの男とした事を、追体験したいという欲求もあった。
何故、姉は自殺したのか。
姉の遺体を見つけた時、守谷のせいだと直感した。
しかしこれは、回答としては不十分だとも言える。
具体的に守谷の何が、姉を自殺へ追い込んだのか。暴力、それとも浮気?本当の理由は何なのか。私はそれを知りたい。知る必要がある。
「僕の前の彼女はね、自殺しちゃったんだよ」
「......えっ」
突然の守谷の言葉に、私の体は魔術でも掛けられたかのように硬直した。
「彼女もね、絵理みたいに真っ赤なドレスが似合う女性だったんだ」
そう言いながら守谷は、私の肩にかかる細いストラップをゆっくりと外した。
「凄く美しい-人だったよ。何を着せても美しい。何を話しても楽しい。まさに僕の理想の女性だった」
(姉の美しさなんて、守谷よりも私の方が何倍もよく知っている)
私は思わずそう叫びそうになるのを、懸命に我慢する。
「僕はね、彼女と結婚するつもりだったんだ。プロポーズもしたんだよ。なのに彼女は僕を置いて、この世を去ってしまった」
プロポーズ。
予想していなかった言葉に、頭の中が揺れた。
姉はこの男と結婚するつもりだったのだろうか?
いや、そんなはずはない。そんな話は一度も聞いたことがない。それよりも、姉が結婚を考えていたなんて信じられない。
姉が、私の姉が結婚?
胸の鼓動が早まる。
「プロポーズまでされていたのに、何故、その人は自殺してしまったの?」
私は出来るだけ努めて冷静に聞いた。
「わからない。僕らはとても上手くいっていた。彼女は僕のプロポーズを受け、結婚式のプランを立てていた。真っ白なウェディングドレスに、たくさんの友達。ハネムーンは南の小さな島へ行こうと話していた。僕はこの通り金を持っている。彼女の要望はなんだって叶えられる。しかし僕らの絆は金ではない。何よりも心がしっかりと繋がっていたんだ」
姉はプロポーズを受け、守谷と結婚するつもりだった。
姉の結婚……
心がしっかりと繋がっていた?
心の中で反芻する。
やはり信じられない。何故なら、姉の口から守谷と結婚するなどという話を、私は一度も聞いたことがないからだ。
姉が、こんな重大な事を私に隠すことはありえない。これは守谷の作り話なのだろうか。もしそうなら狂気の域に達している。
「守谷さんのプロポーズ……、本当にその人は受けたの?」
あからさまに否定しないように、遠回しに問い質す。
「ああ、もちろん」
守谷が迷いのない声ではっきりと答えた。
空洞のような瞳が、私を見つめる。
私の何をも見ていないのに、私を捉え離さない。
口元が斜めに上がり、張り付いたような笑顔を浮かべる。
「ごめんね、絵理。今は絵理のことが大好きだよ。こんなにかわいい子を前に、死んだ彼女の話をするなんて、僕は馬鹿な男だね」
守谷はそっと私の頬を撫で、キスをした。
恐ろしい。
守谷の家に来て、初めてそう思った。
この男には、何か常軌を逸した恐ろしさを感じる。姉にプロポーズをしていたというのは、本当かもしれない。しかしこの男に狂気を感じた姉は結婚を断った。自尊心を傷つけられた男は、姉を精神的に追い込む。そして耐え切れなくなった姉は自殺を遂げた……。
私が結婚の話を聞いたことがなかったのは、姉の配慮。そう、私をトラブルに巻き込まないために、ずっと黙っていたのだ。そうすれば全ての辻褄が合う。
私は姉の思いを想像し、自分の胸に広がる恐怖を飲み込んだ。
復讐するのだ。
守谷の胸元へ手を伸ばし、シャツのボタンを一つ一つ外していく。この手を首にかけ、強く締めればそれで終わりだ。早く片付けてしまいたい衝動に、心臓が波打つ。
しかし今は出来ない。
姉の死の理由を突き止めた興奮と、新たに姉の死を悼む気持ちで、思うように体が動かない。計画通り睡眠薬を飲ませ、寝入ったところで実行するしかない。
一度体を交えた後で、睡眠薬入りの水を与える。
私は心の中で呟くと、守谷の体へ自分の体を重ねた。
***
「また悪い夢を見たの?」
由理の優しい声が聞こえた。
僕はゆっくりと瞳を開け、自分のいる場所を確認する。
高層マンションの17階。僕の家の僕の部屋。
すっかり由理の香りの染み付いたベッドで、僕は目覚める。
「うん、いつもの夢だ」
「そう......」
「いつもいつも同じ夢。貧乏な家。過干渉な母親。親父は家を出て行った後で、僕は今日食べる飯の心配をしながら、母親の愚痴を聞かされる」
由理の艶やかな長い髪の毛を一束、指の先で弄ぶ。
「母親が死んでから、もう10年も経つのにな。食べ物に困るなんてことはない程に稼いでいるし、それどころか、出て行った親父に小遣いまでやれる身分になったのに、僕はまだこんな夢を見る」
「守谷さん」
「由理。名字で呼ぶのは駄目だって言ったよね?」
僕は由理の勤める会社の取引先の社長だ。そのためか、付き合いだして結構な月日が経つのに、僕のことをなかなかファーストネームで呼ぼうとしない。
「ごめんなさい、一狼さん」
照れくさそうに笑う由理。
由理だけが僕に本物の笑顔をくれる。
僕は所謂ベンチャー企業の若き社長だ。サラリーマンが一生かけても到底稼ぐことの出来ない財を、40そこそこで既に成している。
僕は自分に自身がある。
そうでなくては、一代にしてこの成功は勝ち取れない。
全ては屑親父を見返し、過干渉な母親を切り捨てるため。
僕の両親は、絵に描いたような駄目人間だった。親父はろくに働きもせずギャンブル明け暮れ、母親は親父に注ぐべき愛情を一人息子の僕に全て捧げることで、心の均衡を保とうとしていた。
ああ、家族とは何であろうか。
自分の家族を養うことよりも、己の欲望を満たすことを優先した父親。
崩れていく現実から目を背けることで、自分の人生を満たそうとした母親。
父親からの暴力。
金が無い故の貧困。
そして母親からの一線を越えた執着。
僕は自分を取り巻く全てが疎ましく、全てが憎かった。こんな家族なら無いほうが良い。親父もお袋も消えて無くなれ、僕の目の前から消滅してしまえと、いつも心の底で願っていた。
しかし世間の目からすると、こんな不幸の巣窟のような家庭も、どこにでもある惨めな家庭の一つでしかなかった。
それはそうだ。
何故ならば、世間の人々というのは皆それぞれが自身の悩みを持ち、他人を救う余裕がある者などほとんど存在しないからだ。そして例えもしそんな貴重な人間に出会っても、その人間から助けを得られる確率は、交通事故で死ぬ確率より低いのだ。
それに他人の真の不幸というのは、なかなか表面には現れない。だから自分の不幸というのは、世間一般の不幸に埋もれ、沈んでいく。
中学生の頃、僕はそう気が付いた。
いくら願っても、誰も僕を両親の元から救い出して暮れはしない。ならば自分で逃げ出すしかない。信じられる人間は自分自身だけ。
家から飛び出せば一人になれる。けれど金のないまま家を出ても、路頭に迷うだけだ。小汚い路地でたむろする大人たち。そんなやつらの一員にはなりたくない。それはまるで嫌悪する親父と同類の人種に成り下がるようなものだった。
だから僕は、家に留まりひたすら勉強した。良い大学に行き、良い仕事を見つければ新しい人生が開ける。そう信じてひたすらに勉強をした。
目的意識が明確にあったから、勉強も会社勤めも苦ではなかった。僕は順当に一流の大学へ進学し、一流の会社へ就職した。そこで数年勤めそれなりの資金を貯め退職し、自分の会社を興した。
会社経営は成功している。成金風情と言われようが、僕は高級な物で身を固めた。
貧乏は嫌だ。
汚れた服に骨ばった体。それだけで人はそいつの事を見下すのだ。
だから僕はあからさまな高級品で身を飾る。たったそれだけで得られる尊敬の念も、世間に存在することは確かなのだ。
金で解決できることは金で解決する。権力も人脈も、使える限りの物は使ってこの地位を築き上げてきた。媚び、騙し、切り捨てる。それは決して綺麗な道のりではなかった。
僕は良心の捩れた人間だ。
こんな根性の曲がった成金に群がるのは、金と地位に飢えたハイエナばかり。誰も彼もが自分の手を煩わせずに、僕の金で良い思いをしようとする。
女は特にそれが顕著だった。しかしあからさまに金銭で目を輝かせる奴はまだ良い。
面倒なのは、僕の捻くれた心を癒せると思っている輩だ。
僕の生い立ちは幸せなものではない。同情するに値するだろう。だが、僕の心を癒すのは僕自身だけなのであって、赤の他人、しかも玉の輿狙いの女に癒されようなどとは、考察する値もないことなのだ。
そこのところをわかっていない奴が多すぎる。だから女は単なる飾り、欲望を満たすための道具として扱ってきた。
女は怖い。
いや、女の執着が怖い。
そう思うようになったのは、当然、母親の影響だ。彼女は僕に自分の人生の展望全てを押し付けてきた。彼女自身は生きる希望をずっと昔に無くしていて、僕に自身を投影することで、心の均衡を保っていた。
夫に怒りや愚痴をぶつける勇気を持たず、息子へ八つ当たりし、同時に夫へ向けるべき愛情も息子に注いだ。
懇願。
罵声。
ねっとりとした視線。
この母親のせいで、僕はまともに女性を愛することが出来なくなっていた。
傍に女性はいて欲しい。しかし僕の心には触れないで欲しい。そして同時に、全ての女性を自分の思うがままに食い尽くしたい。
疎ましいと思いながらも僕は母親を愛し、そして彼女の夫にはなれなかった僕の心の行き場を、ずっとずっと探していた。
一狼。
僕の名のように、僕は一匹狼で、常に獲物を探している。
僕の餌食になってくれる女。
母親を食うことの出来なかった僕は、代わりの女を探し求め、そして切り捨ててきた。
そんなことを20年あまり続けてきたある日、僕は由理に出会ったのだ。
由理。
奇跡のような女性。
彼女という存在自体が僕の心を開き、そして浄化した。
物心付いた時から求めていた助け。
遂に由理が、僕を闇の世界から救い出してくれたのだった。
***
「守谷さん。お水、飲む?」
絵理は、睡眠薬を溶かした水の入った、クリスタルグラスを差し出した。
ベッドの上で上半身を起こし、守谷は水の入ったグラスを両手で包み込む。傍らに、バスローブを羽織った絵理が腰掛けた。
「喉渇いたでしょう?」
「ああ」
絵理は守谷に水を飲むよう促す。
目的はもちろん守谷を眠らせ、その後で絞殺するためである。
だが守谷は、なかなか水を口にしようとしない。
絵理は焦りと苛立ちが表情に表れないように、無理やり笑顔を作った。これから人を殺そうとしているのに、笑顔を作れる自分がいる。そんな自分自身が怖いと思った。
「絵理、僕はこれを飲んだら死ぬんだね」
守谷はとても穏やかにそう告げた。
「な、何を言ってるの。それはただの水でしょう?」
予想外の守谷の言葉に、絵理はまるで氷水を全身に浴びせかけられたように、体が内側から震えるのを感じた。
この睡眠薬は無味無臭で、例え口にしても味で判断されることはないはずだった。しかも守谷は、グラスに口さえつけていないではないか。これはただの冗談なのか、もし冗談だとしても何故そんなことを言うのか。絵理の頭の中で、次々と疑問が湧き上がる。
「昔、僕の母さんがね、僕と無理心中をしようとしたんだ。その時にね、母さんが今の絵理みたいに優しい笑顔で、僕に水が入ったコップを渡してくれたんだ。その中には睡眠薬が入ってて、僕が眠ってる間に首を絞めて殺そうとしたんだよ。だけど、僕はそんなに深く眠ってなくて、首を絞められてるときに目が覚めてしまったんだ」
「な......」
「あはは。ごめんね、こんな話。絵理の笑顔が、本当に優しかったから。あの時の僕の母さんに本当に似てたから」
目を見開き、言葉を発することが出来ないでいる絵理を横目で見ると、守谷はグラスに口をつけた。
「待って!」
絵理は守谷の手から、グラスを叩き落した。柔らかな毛足の長い絨毯に、睡眠薬入りの水が染みこんでいく。
「どうしたの、絵理?」
「わ、私.....」
「僕を殺すのはやめた?」
守谷の悟ったような瞳が、絵理をまっすぐに捉える。絵理はその場に膝から崩れ落ちた。
「絵理は、由理の妹だね?」
「……何故それを」
「昔、由理がまだ生きていた頃、絵理の写真を見せてくれたよ。私の大事な大事な妹だって」
「それじゃ、始めから私が誰だか知っていたの?」
「ああ」
絵理と由理は姉妹だと知っていたことを、あっさりと認める守谷に、絵理はあっけに取られた。
「じゃあ何故、私の事を知らないふりをして、あなたの部屋に招き入れたの?」
「知らないふりはしてないよ。ただ君の目的を遂行させるためには、黙っていた方が良いと思っただけ」
「私の目的……」
「そう、君は僕を殺したかったんでしょう?由理のために」
守谷は全てを知っている。
知っていながらも自分に近づくことを許した守谷。絵理は恐怖が全身を一瞬にして駆け巡り、覆い尽くすのがわかった。
「……私も姉さんみたいに、殺されるの?」
「僕は君を殺さないし、由理も殺してない」
今までゆったりと微笑んでいた守谷の顔から、笑みが消えた。その守谷の瞬時の変化に、絵理の恐怖心は更に加速する。
守谷の言葉なんて信じられない。隙を見せれば襲いかかってくるだろう。絵理は守谷の能面のような顔から目を離すことが出来ずにいる。
「でもあなたのせいで、姉さんは自殺した。だからあながが姉さんを殺したのも同じ」
「違う」
簡潔な返答と、黙って自分を見つめてくる守谷の視線。
それらの圧迫感に飲み込まれないよう、絵理はあえて目を閉じ深呼吸した。
「守谷さん。あなたはお金と権力を手にした、我侭な子供のような男。あなたの瞳には狂気が溢れている。あなたはきっと姉にプロポーズを断られたことが許せなかったね。それで姉を精神的に追い詰め、なんとか自分の言いなりにしようとした。けれど姉は屈服せずに違う道を選んだ。自殺......そう自らを殺すことによって、あなたから永遠に逃れたんだわ!」
守谷への恐怖心を振り払うように、絵理は声を荒げた。
「姉さんはあなたとの結婚のことを、私に一言も言わなかった。それは私に心配をかけないためだったんだわ......。でも言って欲しかった。そうしたら私が姉さんを助けられたのに......」
由理と絵理は本当に仲の良い姉妹だった。心の奥底で繋がった二人。たった数年しか由理のことを知らない赤の他人に、自分たち姉妹の愛の深さを理解するなど、到底無理だと思われた。
守谷はじっと絵理の顔を見つめたままでいる。
絵理はやはり自分の考えが合っており、反論する余地がないために守谷は沈黙しているのだと確信した。
「絵理。僕は君に殺されていいと思ってた。今日がその日だってこともわかっていたんだよ」
守谷の言葉に、絵理はいぶかしげに眉をひそめる。
「だって、由理がいないこの世界で一人で生きていても意味はないから」
「そんな、自分で由理姉さんを自殺に追い込んでおいて!」
「絵理、自殺の動機なんて、他人には絶対にわからない。ただね、どうしても君が原因と推測されることを突き止めたいのなら、僕は言わなきゃいけないね......」
守谷が絵理の耳元で囁いた。
「由理が自殺したのは、君のせいかもしれないよ」
絵理は自分の耳を疑った。
「姉さんが自殺したのは、私のせい......?」
「そう。由理と僕は心底愛し合っていた。ちょうど君と由理のようにね。由理は、僕への愛と、君への愛の狭間で思い悩んでいた。僕と結婚をしたら、君はどうなるんだろうって。そして結局どちらも取ることができずに、第三の道を選んだんだ」
「そんな」
「由理は言っていたよ。私が誰かと結婚なんかしたら、絵理は一生私のことを許してはくれないだろうって」
一生許さない。
そうだ、もし由理が結婚などしたら、自分は一生由理を許さなかっただろう。
そう確信した瞬間、絵理の全身を何かが貫いた。
駆け巡る感情。
頬を赤らめた由理が、絵理に微笑む。
絵理自身でさえ自覚していなかった感情を、由理は正確に理解していた。
今、絵理は自覚した。
そうだ。由理の結婚なんて、絶対に許さない。
私だけの由理。
私だけの由理......。
絵理は放心した。
「そうだね。絵理が言うように、由理の自殺は僕のせいでもあったかもしれない。僕はそれを認めて懺悔するよ。だから君も、君自身がどんだけ由理の足かせになっていたか、由理の幸せを妨げることになったのか、認めなくてはいけないね」
何かを諦めたのように、守谷はふと息を漏らした。
「だから、一緒に死のう」
守谷の腕が絵理の首筋に伸びる。
われに返った絵理は、反射的に守谷の腕を自分の腕で押しのけた。しかし守谷の腕は、執拗に絵理の白い首を捕らえようとする。絵理は滅茶苦茶に細い腕を振り回し、守谷の顔や腕を殴りつける。
「由理は私だけのもの......!」
絵理は甲高い声で叫びながら、体をよじった。
しかし男の腕力に女の細腕が敵うわけもなく、すぐに絵理は守谷に組み敷かれた。両手首をがっちりと押さえつけられ、起き上がれないように腹の上に守谷が乗る。
「君も僕も、由理という女性を、ただひたすらに愛しただけだったのにね」
守谷は絵理の両手首を頭の上で束ね、右手で抑えた。そして自由になった左手をゆっくりと絵理の真っ白な首へ持っていく。絵理はごくりと唾を飲み込んだ。
喉元に置かれた守谷の手のひらは、とても冷たい。心の冷たさを反映しているのだと、絵理は思った。
守谷の指に力が入る。
「母さんは知ってたんだ、僕が狼になれるってことを。だから僕は一狼なんだ」
絵理は抵抗するために、体中に力を込めていたが、それももう無駄だということがわかり始めた。守谷の力はそれだけ強い。
守谷を殺すことは出来なかった。しかし一緒に死のうと言われたのだし、この後守谷も死ぬつもりなのだろう。もしそうならば、当初の目的を結果的には遂げられるかもしれない。
いやむしろ、守谷の生死など最早どうでもよくなっていた。
由理のいない世界で生きていてもしょうがない。
これは守谷が言ったことだったか。
そして姉の死の一因は、私にもあると言っていた。
……そうなのだろうか。
そうかもしれない。
いや、そうなのだ。
それだけ姉は私の事を理解し、愛してくれていたのだ。その愛の深さ故に、姉は自殺した。
恍惚とした喜びが絵理の内側から溢れる。
そうだ、姉は私への愛のために自殺したのだ。
守谷でも、他の誰のためでもない、私だけのために、自ら死を選んだのだ!
私は間違っていた。
自分の生命を絶つなんて重要なことを、姉が私以外の人のためにするはずがないではないか。
姉さん、今わかったよ。姉さんがどれだけ私を愛していてくれたか。
「愛してるよ、由理」
どちらが呟いたかわからない声が、遠くの方で聞こえる。
絵理の意識は、声のする方とは逆へと向かいそして消えかけていた。
「うあっ」
守谷のうめき声が静まりかえっていた部屋に響く。
「この人殺しめ!」
大柄の男が、背後から守谷の後頭部を思い切り殴りつけた。
思わぬ不意打ちに守谷は横へ倒れこみ、そのまま絨毯の上に転がった。
「絵理!大丈夫か?!」
首への圧迫が突然無くなり、沈みかけていた絵理の意識が聞き慣れた声に集中する。
「......猟澤さん」
「助けに来たよ、絵理」
***
姉は死んでしまった。
私は殺されかけた。
友人の猟澤が助けてくれなかったら、私はあの日、死んでいただろう。
猟澤に殴られた守谷が、その場で死ぬことはなかった。ただ、風の噂では、姉と同じように首を吊って自殺を遂げたという。
姉は、守谷一狼という狼に殺されたのか?
否。
もう答えはわかっている。
姉は私を愛しすぎた故に、自ら肉体にさよならを告げたのだ。
今姉は、私の心の中に生きている。
何者にも干渉されることなく、唯一無二の妹を愛すためだけに、私の中で生きている。これこそが姉が望んでいたこと。姉が自殺をした理由。
姉の大好きだった赤いドレス。
私はそのドレスを纏い、鏡に映る赤い影に笑顔を向けた。
いかがでしたでしょうか?
某公募へ応募した短編小説でした。(うーん、一次通過せず)
感想など頂けたら嬉しいです!