第三話
佐伯奈津美と彼は幼なじみと呼ばれる関係である。
お互いの家と家が隣にあり、両親同士も旧知の仲で、将来は子ども達が結婚して、縁続きになりましょう。と酒の席で話していたのを聞いたこともある。
奈津美自身彼の事は憎からず思っていて、将来の自分を想像するときその傍らには必ず彼の姿があった。
喧嘩もしたし、疎遠になった時期もあった。それでも、結局二人は二人でいることを選んだ。そして、これからもそうであると信じて疑わなかった。
でも、ある日突然彼は死んだ。
私一人残して。
ハッと目を覚まし、携帯の画面で時間を確認する。
4月15日(月)AM-05:11
まだ起床するには少し早い時間だと、奈津美はもう一度瞼を閉じる。
何か、夢を見ていた気がする。昔の、悲しい夢を。
ベッドの中、昔の事を何も考えないように仕事の事を頭に浮かべる。
クラスの生徒達とはうまくコミュニケーションをとることができているし、授業も遅滞無く進められている。学校の他の先生ともうまく付き合ってると自分では思う。よし、大丈夫だ、私はちゃんとやれてる。
なんとなく気分を換えたくなり、ベッドから起きあがり、バスルームに向かいバスタブに湯を張る。今の高校に赴任するにあたって一人暮らしを始めたが、こういった風に他人を気にせず自由に行動できるという点が一番の利点だと奈津美は思う。
「さて、お風呂に浸かって気分を換えて!今日も一日頑張りましょー!」
誰にでもなく明るく呟く。落ち込んだ気分を捨て去るように。
佐伯奈津美は水野冬馬を思い出さない。振り返らない。
高校まではバスで向かう。車の方が便利だよ、と同僚の先生方からは薦められているが、奈津美はあまり車を運転したいとは思わない為毎朝こうしてバスに揺られている。
先生おはよー、と後から乗り込んで来た生徒が奈津美に挨拶する。どこのクラスの誰であるかはわからないが、奈津美も挨拶を返す。
自分が副担任を受け持っているクラスの生徒と、授業をしているクラスの生徒の名前と顔は覚えてきたが、それ以外の関わりの薄い生徒達まではまだまだ覚えきれていない。仕事以外でも覚えることが多くて大変だ、と奈津美は小さくため息をつく。
バスが停留所に留まる。
名前の知らない大多数の生徒の中、今度は名前の知っている生徒も乗り込んで来た。
「おはよー朝比奈君。朝比奈君もこのバスなんだ?」
朝比奈遥。奈津美が副担任を受け持つクラスの出席番号一番。優しそうな顔をしている女子生徒人気の高いイケメン君。彼はいつもはこのバスに乗っていなかったと思う。
少し驚いた表情をした彼は、おはようございます、と奈津美の隣のつり革に掴まり、一瞬下を向いたかと思うとすぐに顔を上げ奈津美の方に顔を向ける。その表情をいつもの優しい微笑みに戻っていた。
「いえ、いつもは自転車なんですけど、今朝家を出ようとしたらパンクしてて」
今まで修理してたんですけど、と少しまだ汚れの残る手のひらを奈津美に見せ恥ずかしそうに笑う。
立ち振舞いや話し方などがどこか大人びている彼もこうして笑うと年相応の笑顔をするんだな、と奈津美はどこか安心するものを感じる。
そして、その彼の左頬をパンク修理の名残が黒く汚していることに奈津美は気がついた。
深く考えた事ではない。ほとんど無意識といっていいほど、ごく自然に奈津美は鞄からハンカチを取りだし、彼の頬についた汚れを拭う。
「こんなところまで汚れついてる、せっかくの二枚目もこんな汚れがついてたらモテないよ」
と、笑いながら。奈津美からしてみればなんてことの無い特別ではない行為。
ただ、彼の反応が不可解であった。
年頃の男の子らしく、一瞬身体を硬くした後、
彼はとても悲しそうな、辛そうな表情をしたのだ。
汚れを拭く為間近で顔を見ていた奈津美だから気づいた変化といえる。その表情も一瞬の後にまたいつもの優しい微笑みに戻っていたのだから、他に気づいた者などいないだろう。
「ありがとうございます。落ちましたか?」
え、ええ。とハンカチを鞄にしまいながら奈津美は答える。
彼のさっき見せた一瞬の表情の意味が気になる。しかし、それを聞くのは踏み込みすぎだろうか。まだ知りあって日も浅い、ゆっくり解決しなければいけない問題の可能性もあるし、今触れるのはやめておいた方がいいかもしれない。
他人に話せない、話したくないものがあることを奈津美は知っている。
それが大切で大事なものであれば尚更だ。
彼にもそういうものがあるのかもしれない。
もしそうなら、誰にもそれに触れて欲しくないだろう。
「学校にはもう慣れた?なにかあったら先生に言ってね!」
だからそう軽い調子で言うに留めておく。
彼からなにか言ってきたら先生として相談にのろう。
朝比奈君には少し注意しほうがいいかもしれない。
それからまた少したわいも無い話を始める。途中から他の生徒達も話に入ってきたが、彼が一瞬だけ見せたあの表情をすることはなかった。
バスが学校最寄りの停留所に留まる。
それではまた授業で、と言い彼は奈津美より先に降りていく。
少し遅れて奈津美が降りた時には彼は他の生徒に紛れてしまいどこにいるか分からなくなっていた。