対面
鏡の前で髪を整える。
髪よりもまず顔色の方が手遅れな感じだが、もう諦めることにした。昨日の怪我の痛みがそこまで酷くないことが救いだ。
制服のブレザーを羽織り、重い足取りのまま自室の扉を開ける。
「薫ちゃん、おはよう! 今日は一緒に行かない?」
「あ、ああ、おはよう、そうだね」
いつから待っていたのか、里佳が扉を開けた真ん前で佇んでいた。
それだけで少し身構えてしまうのだから、この先の出来事に不安しかない。
それにしても、彼女は今日も可愛らしい。笑いかけてくる姿は、推しそのものである。
しばし見惚れると、ぱんっと頬を叩いて気合いを入れ直した。
――命懸けの1日が始まる。
私は意を決して、自室から足を踏み出した。
みんなが登校するより少し早めに寮から出てきた私と里佳は、先に食堂で朝ご飯を食べることにした。
白飯に鮭、お味噌汁と海苔という健康的な日本の朝食メニューだ。
私の対面でどんどん容器を空にしていく彼女に「朝から元気だね」と笑えば、「嫌なこと考えないようにね!」との返答。意味深である。嫌なこととはなんだろうか。
私は首を傾げつつ、食欲のわかない胃を叱責するように白米を口に詰めた。
だが、その瞬間肩を強めに叩かれる。
その衝撃で危うく米を喉に詰まらせるところだった。
「……宇田川誠先輩」
そんな私のことは無視したまま、里佳が私の背後に立っている人物に声をかけている。
え、今、宇田川先輩って言った?
「俺の名前、ちゃんと覚えてるじゃねーか」
「昨日教えていただきましたから……それより、彼女が困っているのでやめて下さい」
固まったままの私を見て、迷惑がかかっていると思ったらしく、彼女はこちらに助け船を出してくれる。
おかげで背後から相手の気配は消えたが、何故か隣の席に座られた。
非常に絡まれたくない。油断して忘れていたが、この食堂で里佳と宇多川先輩が出会うのは確定イベントである。
ちなみに、烏野薫はその2人を遠くから眺めて舌打ちしていたはずだ。だが、今の私は暢気に里佳と一緒にご飯を食べている。ストーリーから大外れ。これでストーリーがおかしくなってしまったらどうする。いっそのこと居ないことにして欲しい。
しかし、そんな私の願いは聞いてもらえなかったようだ。
「お前……」
「な、なんでしょうか」
チラリと私の顔を覗いてきた彼、宇田川先輩は一瞬だけ目を揺らした。
まるで、酷く怯えたような目。
そういえばこの目は――
「昨日の……」
それだけで合点がいった。
この目をどこかで見たことがあると思ったら、宇田川先輩は昨日真っ先に私に駆け寄ってきてくれた人物だったようだ。
あの綺麗な黒い瞳が印象的で、よく覚えている。
この場面で宇多川先輩と関わることに少々抵抗はあるが、昨日の件もある。恐らく、あの後保健室まで運んでくれたのも先輩なのだろう。
「昨日はありがとうございました」
気不味い気持ちを抑えつつ、素直に礼を述べておいた。
「もう怪我は大丈夫なのか?」
なるべく早くこの場から立ち去りたい。
という本音を飲み込み、か細く「はい」と答えた。
この場に来た理由も里佳との関係作りなのだから、わざわざ私に話し掛けてこなくて良いのに。
そのまま黙り込んだ私に対して、それ以上会話を続けることは諦めたらしい。
「じゃーな、小鳥遊里佳はあとで生徒会室来いよ」
それだけ言い残して、宇多川先輩は立ち去った。
盛大な溜息をつく。疲労感がすごい。
ここでの出来事が、里佳の今後のストーリーに影響しないかが懸念点だ。
「薫ちゃん、大丈夫?」
私の溜息を聞いてか、里佳が不安げに此方を見てくる。
「今の人が昨日話した生徒会長の宇多川先輩なんだけど……」
ふと、彼女は何かを思い出したように頬を赤くした。
ちゃんと宇多川先輩ルートも全エンド回収した私は知っている。
あの人はとにかく俺様だけど、普通に根は優しい。里佳のことになると余裕無くなるし、たまにおっちょこちょいだけど、生徒会長として本気で全校生徒のことを考えている良い人だ。
強いて言うなら、宇多川先輩ルートの烏野薫の扱いが1番良くないのでおすすめはしたくないが。
「これは宇多川先輩ルートかなぁ……」
私の小さなぼやきは、彼女に拾われることはなかった。
朝から1日分の疲労を得た気がする。
そんな事をつらつら考えているうちに教室の前に到着した。
里佳はお手洗いに寄るとのことで、先に1人で来てしまった。
「朝から嫌な予感しかしないよ……」
廊下には朝の風と一緒に生暖かい風が通り抜けていく。
この長閑な光景が今にも様変わりしてしまいそうで、急いで教室の中へと逃げ込んだ。
ガランとした教室では、自分の足音がやけに大きく響く。
――なんで誰も居ない。
確かにまだ早い時間ではあるが、1人くらいはもう登校していてもおかしくないだろう。
そう思った瞬間、この場に1人という事実に重たい恐怖心を抱く。
握りしめた指先が冷たい。
「まあ、そのうち来るよね……」
あえて声を出し自分に言い聞かせると、足早に自分の席へ着席する。
正直、かなり怖い。
ドキドキと鳴る心臓がうるさい。
「おはよう」
うるさかった心臓が一瞬止まった。
自分ではない、誰かの声。
いきなりの事で完全に頭が真っ白になる。
それ程驚いたのだ。腰が抜ける寸前だ。
「どうした?」
再度声を発した主が、視界の端で軽く手を振っているのに気付く。
おそるおそる視線を向けると、隣の席の男子……本庄が居た。
「本庄かぁ……」
安堵のあまりついつい零れ出た台詞。
脅かすな、と続けたい所だが、相手は挨拶しただけだ。疑問に思われたらいけない。
ここまでの思考を約三秒で済ませると、私は何事もなかったような顔をした。
「俺、名前教えたっけ?」
完全な油断。やらかした。
違う汗が流れ出てくる。
「いや、その、里佳が話してたから」
咄嗟の言い訳は、里佳と本庄が幼馴染であることを知っているからこそ出来る技。違和感はないはずだ。
しかし、相手は苦虫を食べた様な顔をしていた。
そして眉間に皺を寄せ、神妙な面持ちで口を開く。
「それは、烏野さんのことを聞いた件で?」
「え?」
あまりに真剣に聞いてくるので、こちらが呆気にとられてしまう。
何のことを言っているのだろう?と首を傾げると、本庄はパッと視線を逸らした。
「いや、なんでもない。あ、烏野さんのこと近野先生が探してた」
そうぶっきらぼうに言うと、彼はさっさと自席で寝始めてしまう。
いやいや、余計に気になる。
烏野さん、というのは間違いなく私だろう。
かなり気にはなるものの、彼を叩き起こすのも憚られる。
ひとまず近野先生が呼んでいるようなので、そちらを優先することにした。
「分かった、ありがとう」
一応礼だけは伝えると、私は立ち上がる。
近野先生は保健室だろうか、と考えて保健室へ向かうことにした。
それにしても、本庄が何で私に関わるのだろうか。たしか、烏野薫と本庄が話し始めるのは、里佳が本庄ルートに入ってからだ。
では、もう本庄ルートに入っているのか……?
疑問は色々残るが、恋路を邪魔するより怪異からの生存の方が大事だ。
ルートが確定するまでは、彼らとはあまり関わりを持たない方が良い。
これからは気をつけよう、と心で決めてから、階段を下りた。