第五夜
月の裏は今宵も見えぬ 第五夜
…仰せたまふ、「なむぢが持ちてはべるかぐや姫奉れ」…
暗がりに巨大な屋敷が浮かぶ。誰もが寝静まる真夜中。雲に覆われた村に明かりはない。日中は人々に恩恵を与える山々は、本来の不気味な恐ろしさを見せている。
しかしこの屋敷は少し違う。山中で熊に出くわしたとして、それはかなり恐ろしいが、それでも常識の範囲内のものである。しかしこの屋敷は“そこにあってはならない別世界のもの”としての恐ろしさを持っていた。まるで意思を持っているかのように背景とは溶け込むことを拒み、これをじっくりと眺める人がいれば、動かないことに不思議がることさえするだろう。
“彼”は最近、変容を遂げた。“彼”の少しばかり変わった姿は以前までの優雅さを失ったが、この闇の中では一層その迫力を増していた。桃太郎が行った鬼が島とやらはこんな形だったのかもしれない。屋根から這いだした“とげ”は鬼の角のようであった。
その屋敷の廊下に足音が響く。見事に磨き抜かれた板ぶきの廊下を郡司が歩いて行く。現在彼はこの屋敷の主ではない。主であるとするならば、彼はこんなにも神妙には歩いてはいないだろう。誰かに遠慮するように歩く姿は、その所作を誰かに調べられているようだ。彼やその仲間の運命はもはや“天”に握られたも同然であった。
郡司は片隅にある使用人用の部屋の前に立つと、そっと中の様子を覗いた。そこには蝋燭のぼんやりとした明かりの下で、みすぼらしい服装の男が琵琶の調律を施している。きゅっきゅと弦が巻かれていく音がしていた。
郡司が部屋に入ると同時に来訪を告げた。
「話があると聞いたが、なんだ?」
振り向く道興。例の手紙が届いてから落ち着かない様子であったが、“計画”が出来上がってからは冷静さを取り戻した。絃を持つ手つきも丁寧なものだ。
道興は穏やかにほほ笑み、琴を板でできた床に置いた。ごつごつとした床は急造の証拠を示していた。
「お待ちしておりました」
促され、部屋の中に入る郡司。彼の部屋は殆ど荷物も、手紙のために常備されてあった紙の束も消え失せていた。それどころか他の部屋にも日常品すら備えていなかった。“準備”はもうすっかり整っている。
「奥方は?」
「もう寝ております」
「お主は?」
「眠れないのでございます。なんとも緊張してしまって」
苦く笑う道興を嘲笑する気はなかった。自分も眠れないのだ。最近では飯もろくに喉を通らない。死罪を前にする罪人とはこういう気持ちになるのかもしれない。諦めたと思っても諦めきれないのが人間の性。もうどうしようもない自らの運命を呪うことしかできない。本当にそれしかできず、食事と言う行動すら体が拒む。目に見えぬ責任という名の牢獄の中で、郡司はそんな自分の有様に対して苦笑いを浮かべた。
「女子と言うのはなんとも強きものよ。なあ」
「はい。まったく」
二人は情けなく笑い合った。そしてどちらともなくぼろぼろと涙した。二人とも相手に見せるようにそれを拭こうともしなかった。明日の我が身の行く末も知らぬ二人が、笑い、会話できる最後の機会ということをとっくに気付いている。立派な貴族風体の郡司と農民装束の道興は、気付かぬ間に固い友情で結ばれていた。涙はその証しである。
道興がゆっくりと頭を下げ、“最後の”挨拶をする。
「郡司さま。今まで、本当に、ありがとうございました」
「ばか…ばかが…そんなことを…」
「はい………ですが、最後に一つだけ。私の昔話をさせてください」
頭を上げた道興は涙をぬぐい、背筋をピンと張って真剣な表情に変貌した。空気が変わったことを受け、郡司も慌てて涙をぬぐう。そしてまだ赤いままの眼で尋ねる。
「昔ばなし?」
「我が妻をご存知でしょう」
郡司は頷いた。道興は次の言葉を話そうとして口を開いたが、言葉が出てこない。大きなもの、溜めこんでいたものを吐き出すように、彼は少し時間を置いた。聞き手の郡司の方も緊張し始める。
やがて彼の口がようやくそれを吐き出した。出てきたものは、郡司の予想をはるかに超えたものだった。
「あれは先の天皇の娘君です」
まだ残暑厳しいというのに、部屋の空気が凍った。いや、実際に固まったのはそう感じた郡司だけであろう。先ほどまで涙を流していたことも忘れ、郡司は息することを忘れた。彼は必死に何か言おうとしたが、口からは「あ、う」としか音が漏れてこなかった。
道興は目を閉じながら、滔々と昔話を始めた。その口ぶりはまるで琵琶法師のように、まるで千年も前のことのように感情の欠片もなく、ただ事実だけを述べているようであった。
…かぐや姫答へて奏す、おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ、
いとゐておはしましがたくや侍らむと奏す…
ここは梅宮神社。橘家の菩提寺である。橘氏の祖である県犬養三千代が建立したと伝えられ、酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神が祭られている。古来より橘家は藤原家と並ぶ家柄であった。歴史に詳しい人ならば『源平藤橘』という言葉を聞いたことがあるだろう。この橘という姓は飛鳥時代に元明天皇から頂いたもので、朝臣としては別格扱いであった。奈良時代には橘諸兄という人物を出して政治の中心にいたこともあった。平安時代初期、嵯峨天皇の后に当たる檀林皇后も橘氏出身である。藤原南家が凋落する中で、まさに橘氏は絶頂期にいた。
しかし状況はある事件によって一変してしまう。『承和の変』である。藤原北家家長の藤原良房の陰謀によって、当代随一の学者である橘逸勢が失脚する。藤原氏最初の他氏排斥である。その後、良房が急速に勢力を伸ばしていく中、橘家の影は薄くなっていく。
ここに一人、祈祷に訪れた男がいる。若かりし頃の道興である。彼は目をかけてくれていた逸勢が失脚すると、それに連座する形で階級を落とした。今は下級役人と相違ない位置にいた。
彼は再び橘氏が勢いを取り戻すこと、そして自分自身の立身出世を願って祈祷しに来た。雨が細かく降り続く水無月のことだった。
彼は祈祷が終わった後、神主にお呼ばれされて、客間に通されていた。そして彼らはしばらくの間、よもやま話に興じた。気が付くと出されたお茶がすっかり冷えていたほど、夢中になって話し込んでいた。
神主はふと雨音が聞こえなくなったことに気が付く。するとすっと立ち上がり、障子をスッと開けた。道興は思わず感嘆の声を漏らした。外には菖蒲や紫陽花、そして水連が競うようにその美しさを披露していた。部屋の片隅で事務作業の毎日だった道興にとって、これ以上ない薬であった。
「おや?」
この風景を楽しんでいると、どこからか琴の音色が聞こえてきた。これもまた風景に劣らず見事だった。
「これは、どなたが遊んでおられるのか…?」
「ああ、これは皇族の宮子さまですよ。うちに琴が堪能な者がおりまして。しばしば習いに来ていらっしゃいます」
「いや、これはすごい。とても習いに来たとは思えませんなぁ」
「おっしゃる通りで。教えている側も感嘆するぐらいでして。実は私も習っているのですが、あっという間に追い越されてしましました」
苦笑いする神主のことなど気にも止めず、彼は無性に彼女の姿を見たいと思った。この神主も抜け目なく、道興の気持ちを察してその部屋までの道順を教えた。
部屋の前に来た道興は襖を少し開けて、その隙間から覗き込んだ。琴の音色が響き渡る部屋。老女の前で一生懸命琴を鳴らす女性がいた。暗くてよく見えない。
彼はもっとよく見ようと目を凝らした。その時雲間から明かりがさし、部屋に光が差す。彼女の横顔が彼の瞳に映った。
その瞬間、彼の人生が変わった。
蝋燭が彼の表情をあらわにする。まだ幸せだった頃を懐かしんでいるように、郡司には思えた。
「私は宮子に恋い焦がれました。そして神主に頼み込み、何度も文を送りました。次第に宮子も私に返事を寄こすようになり、私たちは恋仲となりました」
「しかし…それは…」
「はい。決して許されるものではありません。一介の下級役人と皇族との恋などあってはいけません。私たちは四六時中その矛盾に苦しみ続けました」
彼の表情に暗い影が落ちる。一瞬、蝋燭が消えたのかと思った。
「そして彼女は、自分の乳母にそのことを打ち明けてしまいます」
道興はふらふらと部屋の中を歩き回っていた。何も考えられない。目の前が歪んで見える。先ほど屋敷に勅使が訪れた。今思えば、仮病を偽って使者を追い出すべきだった。
『伊豆守に任命する』
確かに今の自分にとってこれは出世には違いなかった。しかし伊豆国は下国(国の等級)であるし、都からは想像ができないほど離れていた。当時の貴族からすれば、“左遷”に等しかった。
道興には想像がついていた。ばれたのだ。自分と宮子との関係が。しかし、一体どうして。どこからばれた。誰がばらしたのか。誰がそんな工作をしたのか。…宮子との関係はどうなるのだろうか…
そんなことを考えていた道興に、召使が文を運んできた。宮子から。あの神社で会いたいと。
神主から通された部屋に宮子はいた。申し訳なさそうな(おそらく事情を知ったのだろう)神主は、二人を残して去った。ひんやりと冷えた部屋で二人は向かい合った。西日が二人の影を作っていた。
「今日は道興さまにお別れを申し上げに来ました」
挨拶も交わさぬうちに、宮子はそう言った。道興は宮子に詰め寄った。
「な、なぜ、なぜですか?!確かに四年の任期は長いかもしれない。けれど!それが終わった後、必ず私はあなたを娶りに来ます。それまで…」
「嫁ぐことになりました」
宮子はキッと目で、詰め寄る道興を制す。睨み付ける彼女の眼からは今にも涙が溢れそうだった。それを見た道興は気が抜けたように元の場所に坐った。
「…もう会えないのですか」
道興のその言葉に、宮子はとうとう堪えていた涙をこぼしてしまう。道興は庭を見た。菖蒲も紫陽花もすっかり枯れていまっていた。しかし彼らは来年も咲くのだ。私たちとは違って。彼女の小さな涙声が聞こえる中、彼はぼんやりとそんなことを考えていた。
彼女は涙がまだ止まっていないというのに、立ち上がって言った。
「…どうか道興さま、お幸せに…」
サッと背を向け、部屋を出ようとする宮子。振り返れば、この手が届いたのは運命の悪戯であったろう。道興は気が付くと、自分の右手が宮子の左手を掴んでいた。彼は言った。
「逃げましょう。一緒に」
「この後はご存じのとおりです。私はあなたの保護を受け、宮子と暮らしてきました」
道興は苦しみから抜けたように、ほっと息をついた。彼にとってこれは決して馴れ初め話ではなく、長い逃避行への始まりであったからだ。貴族にとって庶民に身を落とすというのは、経済的・肉体的な苦痛だけではない。自らの自尊心をずたぼろに傷つけられる苦しみがある。この数年間、彼らはそんな苦しみと戦ってきたのだ。
郡司はかける言葉が見つからなかった。優男に見える目の前の男にそんな壮絶な過去があったことに衝撃を受けていた。
道興はつぶやいた。
「もしかしたらこの計画は、私にとって『貴族』という身分に対する反逆だったかもしれません」
郡司の耳にもその言葉はしっかり届いた。しかしそれでも郡司は無言を貫いた。彼の気持ちを察した訳では無い。彼の苦しみは一生分からないだろう。それでも彼が何も言わなかったのは、この計画自体“明日、全てが終わる”からだろう。もはや計画の動機などどうでも良いことだった。
蝋燭の火が尽きる頃、郡司は席を立った。道興は言い忘れていた言葉をかける。
「郡司様。私がこのような話をしたのはあなたが初めてです」
郡司はじっと道興の目を見た。
「…なぜだ」
「さあ…話すつもりはなかったのですがねえ。この世に私たちが生きたことを、その意味を残したいからかもしれません」
道興は改まって“最後の挨拶”をした。
「これで最後です。郡司さま、明日はよろしくお願いします」
平伏する彼の姿を見る。もうそこには涙はいらなかった。郡司も決意を示す。
「道興。そなたの生き様、しっかり見届けてやる」
ススキに風が通る。地面に張り付いていた熱い空気を、冷たい秋風が押しやる。
明日は満月だ。
お久し振りです。忘れられていると思いますが(笑)やっと投稿しました。
次は最終話です。早めに投稿します。