第四夜
月の裏は今宵も見えぬ 第四夜
…かたちの世に似ずめでたきことを、帝聞こし召して、内侍中臣のふさ子にのたまふ…
大変なことが起こった。誰もが寝静まる夜更けに呼び出されたことで、彼らはそう察していた。郡司の家近くの分かれ道でばったり会った彼らは、夕立でぐしゃぐしゃになった夜道を急いでいた。蝉の音は聞こえない。どこかで獣の声がする。(野良犬じゃな)と秀は思った。
「いったい何が起こったのか」
「馬鹿。それを聞いてどうするというのじゃ」
信の言葉に竹は悪態をつく。三人とも寝ていたところを叩き起こされたところだ。総じて機嫌は悪い。しかしそれよりも、なんとも言い難い不安に彼らは支配されていた。自然と前へ前へと急ぐ足取り。
ようやく到着した屋敷は静まり返っていた。密談を行う時は、いつもこうだ。家の者も全て出払い、中には郡司と道興しかいない。雨戸も締切り、人気は無い。しかしよくよく見ると、一か所、片隅の雨戸から光がうっすらとこぼれている。
三人は裏口から庭に入り、その光がこぼれている戸を開けた。
「………?」
戸を開けた先には、三人を出迎える様子もない郡司と道興の姿があった。郡司は眉間に皺を寄せつつ腕を組み、道興は焦点の合わない視線をあたりに彷徨わせていた。
「な、何事ですか?」
秀がそう困惑の声を上げると、やっと三人の到着に気付いた郡司がゆっくり顔を向けた。その表情は無そのもので、三人は何も読み取ることはできなかった。
三人は駆け寄るように部屋の中央に進み坐った。
「…早かったな」
「郡司さま。何やらご気分が優れぬようで」
「道興さまにいたっては、まるで魂が抜けた様子…」
道興は自分を心配する声も聞こえず、ただただ呆然としていた。口は閉めることを忘れられ、肌はてかてかと光り、油を塗ったようになっていた。彼は清潔な普段の姿を放棄した状態にあった。
「道興さま?本当にどうなさったのですか?」
「信、道興の傍らにある手紙を取れ」
信は郡司が示す方を見ると、確かに道興の隣には箱があった。信は道興を気遣いながらその箱を取った。
見事に装飾が施された表面や一切の隙間なくやすりが施された隅々。間違いなく最高級品であった。大方、どこかの貴族からの贈り物であろう、と信は思った。箱の蓋を取ると芳しい香の匂いが部屋中に広がる。その匂いに農民三人は貴族という身分への憧れを強烈に心に抱いた。秀や竹も信の周りに集まる。
手紙を開くと、そこには十行ほど書かれた墨の列が並んでいた。文字が読めない彼らにはもちろんその意味など分からないが、その墨の列自体にまるで絵画のような美しさを感じた。
「郡司さま。私たちは文字が読めないのですが…」
「それはなあ、秀…」
郡司は次の言葉を躊躇うように口を閉じた。まるでそれを言ったら『お終い』であるかのように。竹は我慢できず急かした。
「教えてください!いったい誰の手紙なんですか?!」
郡司はゆっくりと口を開いた。
「みかど、だ」
…帝聞こし召して、「多くの人殺してける心ぞかし」とのたまひて…
「み、かど?」
三人は聞き慣れない言葉、普段から軽々しく読んではいけない言葉に戸惑い、そしてそれが“人名”とはすぐに理解できなかった。しかし理由のわからぬまま、信は嫌な汗をかき始めた。
「『みかど』とはどこの貴族さまでしょうか?」
秀は真剣に郡司に尋ねていた。その質問に郡司は口をつぐむ。説明の仕方が分からなかった。彼も実際のところ、それが“人”か“神”か、分からなかった。
代わりに道興が答え始めた。震える声で。まだ残暑だというのに、凍えたように。
「…“みかど”とは都の奥におわします」
「道興さま?」
「かつ、貴族の頂点にいらっしゃるお方。この国の長であり、この国をお作り給われた神の御子孫。“神”であり“人”でもある現人神なる存在…」
それだけ話すと、道興は声が出なくなった。三人はこの状況を察すると、とたん体が勝手に震えだした。特に手紙を持つ信はまるで痙攣でも起こしたようにひどかった。
「も、もしやこれは!みかどの、てがみ…!」
「いかにも」
信は急いで手紙を箱に戻すと後ずさり、箱に向かって額を床につけた。他の二人も信と同じように土下座し、竹に至っては手を合わせて拝んでいた。
「そのようなことをしても仕方あるまい。もうそっと寄れ」
「ご勘弁ください!こ、ここで十分ですから!」
部屋の隅で固まる三人は必死に断った。郡司はため息をついた。
「これでは良い案も出まい」
「ど、どうしてここにみかどの手紙が!」
郡司はじっと三人を見た。三人も怯えながら郡司に対した。
「分かっておろう。ここに高貴なお方が文を送られる理由は一つ」
「まさか…!」
「そう。これは帝が“我が姫”に宛てた恋文よ」
絶句してしまう三人。戸がガタガタと軋む。その小さく開いた隙間からは風が鳴っていた。
しばらく時が過ぎる。痛いほどの静けさと不気味な緊張感が部屋を支配した。だが、このまま黙っていてもらちが明かない。そう思った道興が郡司の話に補足することから話し始めた。
「恋文と言っても実際は『女御として出仕せよ』とのご命令です。ただし」
「た、ただし?」
「女御から皇后にお成り遊ばされることは昨今では珍しくないこと。事実上、これは帝の恋文です」
結局のところ、道興は詳しく言っただけだった。一方で竹は今まで続いてきた計画を思い出した。
「で、でも、計画通りに“急に死にました”とすれば」
「無理です」
道興は即座に否定した。三人は唖然としてその計画を立案した道興を見た。
「貴族の恋ならば、それは“私”になりますが、帝のならば、それは“公”。そこにこのような不可解なことが起これば」
「起これば?」
「ただ見過ごされることはありますまい。検非違使が調べ出すことも」
「検非違使!」
検非違使とは都の警備を任された、言わば憲兵隊。この当時にあっては最強の武装集団であった。ちなみに初代検非違使の長官にあたる別当にはあの名将の坂上田村麻呂が任じられている。天皇の神剣、そのものであった。
「もし検非違使が出張るとすれば、たちまちこの計画は見破られるだろう。実際には“姫”は死んでおらず、しかも存在すらしないのだから。さすれば、皆、罪に問われることは間違いあるまい…」
郡司はぼそぼそと言った。あまりの状況の変化に混乱したのか、竹は急に立ち上がり、狂ったように怒鳴り散らした。
「だから儂は最初から反対したのだ!見てみろ!餓死しなかったとはいえ、今度は『帝を騙した罪』で全員斬首じゃ!やはり貴族さまを騙すなどするべきではなかった!」
彼を止めるべき他の農民二人は彼を止めなかった。竹はキッと道興をにらんだ。
「お前のせいだぞ!お前が甘い言葉で郡司さまや皆を騙すからこんなことに…。ふざけるな!どう責任を取るつもりじゃ!」
道興はその場で平伏した。目からは堰を切ったように大粒の涙が流れていた。
「申し訳ございませぬ…。私が全て責任を取りますゆえ…」
「それで済むと思っておるのか!」
「いい加減にしろ!竹!この罪は計画に参加した全員にある。竹。お前とて最後には賛同したであろう。それを全て道興さまのせいにするとは見苦しいぞ!」
秀に叱責され、竹は気が抜けたようにどっとへたり込んだ。郡司は泣く道興に諭した。
「道興。そなたも分かっておろうが、そなた一人で責任が取れる話ではない。主導した儂やここにいる郷長の責任は免れないだろう」
「郡司様…」
「もはやこれまでじゃ。こうなれば全てを朝廷に報告し、せめて何も知らない民たちは許して下さるようお願い申し上げてみよう」
道興は静かに涙をこぼした。信はこうなった自分の運命を呪い嗚咽した。竹は口をパックリ開けたまま動かなくなった。そして秀と郡司は目をつむり、静かに心を落ち着かせていた。火鉢の明かりは誰にも気づかれずに小さく消えかけていた。
その時、突然扉がさっと開いた。
「情けないのう」
部屋の中の全員が驚く間に、闇夜の中から白髪の老人がぬっと現れた。そして無遠慮に部屋にのっそり上がると、消えかけていた火鉢を掘り起し、再び部屋を明るくした。
「少し遅れたのは悪うございましたが、こうもまあ、大の大人が揃いも揃ってため息しかつけんとは。」
「ご、権爺さま」
権爺は快活にヒョッヒョと白いひげを動かし、笑っていた。そして皆の顔を眺めながら言った。
「皆さま方、別に大水や日照りが起きたわけでもありますまい。ちょいっと貴族さまからお金を借りただけでしょう」
「しかし貴族さまとみかどでは次元が違うでしょう」
「いいや、同じじゃわい。同じくただの“人間”でしょう」
その言葉に一同はギョッとした。
「権爺さま!それは違うでしょう。みかどは現人神なるお方で」
「ほうほう。儂は生まれてこの方、姿が見える神様や幽霊にすらお目にかかったことは無いのだがのう。まあ、例え神様が相手でも大丈夫じゃ」
権爺は提案するように、皺くちゃでしみだらけの手を挙げた。
「神様には神様で対抗すべきじゃ」
皆は理解ができなかった。
「どういうことで…?」
「なんじゃ、秀。お主、そこまで物わかりが悪かったか」
権爺は息をついた。それを一同は囲むように坐り、真剣なまなざしを送った。今頼れるのはこの老人しかいなかった。
「良いか、皆さま。この大和の国には神は一柱だけにあらず。八百万の神がいらっしゃるのだぞ。その中の一つに逆らったとて他の神に頼ればよい」
「な、なんと!」
突飛な提案に秀は絶句した。竹はいてもたってもいられず、権爺に詰め寄った。
「それで!具体的にはどうするのじゃ?」
「うむ。ここらで神に詳しく、儂らに協力してくれるのは、山伏か天狗じゃて。妙な術も知っておるだろう」
権爺の言葉に竹はがっくり気を落とした。しかし郡司はなんだか希望が見えてきたように思えた。
「まあ、ここでうな垂れていてもしょうがあるまい。秀たちは近くにいる山伏たちを捜し、協力してくれるよう呼びかけてくれ」
「はい!」
ひときわ大きな声で返事をしたのは信だった。その顔にはまだ涙の跡が残っていたが、声に元気がみなぎっていた。
秀や竹も早速、村に戻って探す支度をしようと席を立ち、郡司や権爺も立ちあがった。しかし彼らは一人の元貴族の心の叫びに呼び止められた。
「……私を、殺してくれませぬか…」
一斉に振り向く一同。彼らが見た道興の顔はまだ涙でぐしゃぐしゃだった。
「道興…?」
「私を殺してください!郡司さま!私にとっては計画がばれるとかばれないとかはどうでも良いのです。ただ『帝を騙した』という罪に悔いているのです!このままでは私は都に赴き、罪を告白するに違いない!どうか、計画を守るためにも、どうかここで私を…!」
郡司は、本当に道興はそうするに違いないと確信した。戸惑う郡司の横を権爺がすり抜ける。そしてしゃがみこみ、道興に優しく声をかけた。
「道興さま。元とはいえ貴族さまに私が教えるというのもどうかと思いますが」
「………?」
「人の命はそんなに安くは無いのですよ。間違えたっていいんです。罪を犯したっていいんです。それを反省しさえすれば」
「し、しかし」
「道興さま」
誰かが呼びかける。道興は皆がこちらを見ていることに気付いた。その眼は弱者の目では無かった。何かを決意した、強い目だった。皆が言う。
「最後まであがきましょう」
あと二話で完結予定です。