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第三夜

 月の裏は今宵も見えぬ 第三夜


 …世界の男をのこ、貴なるも賤しきも、「いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがな」と、音に聞きめでて惑ふ…


 六月に入った村では連日雨が続いていた。とは言っても雨量はほどほどであり、時折日光が降り注ぐ農家にとっては最高の梅雨であった。二年続いた凶作も跳ね返すような豊作になるかもしれない。そう郡司は期待して簾越しに外の景色を見ていた。立ちながら全身に感じる不愉快なほどの湿気は郡司にとってむしろ、やっと普段の村の姿に戻ったと感じることが出来る喜びであった。

 この景色の中、一つだけ例年とは異なることがある。それは間垣の外にいる人の姿である。雨の中と言うにもかかわらず、その必死に屋敷の中の様子を見ようとしている姿には少なからず恐怖を覚える。晴れた日にはこの十倍もの人が取り囲んでいることを思うと、再び背筋にゾクゾクとした感触を覚えた。

(やれ、これで秘密が発覚してはいないのは奇跡だな)

 後ろの襖が開き、道興がするすると部屋に入ってきた。振り返った郡司の眼には道興の姿とその手で抱えている古めかしい琵琶が映った。

「そなたの妻は帰ったか」

「はい、さすがに毎日計3時間も遊ぶ(演奏)となると疲れます。私も手に力が入りませぬ」

「頑張ってくれ。お前達しか弾くことが出来ないのだからな」

そう言葉をかけた郡司は再び外に目を向けた。道興はその様子を見つつ、部屋の中央に坐った。トンッと琵琶が道興の傍らに置かれた。

 この時代の高貴な女性の習い事と言えば楽器と和歌と礼儀作法であった。貴族の男性は勿論美貌もだが、これらを吟味して女性を選んだという。この詐欺のミソは『貴族はむやみに女性と会うことは無い』と言うことであった。例えば源氏物語の中で、光源氏は美しい髪の女がいるという噂を聞き片田舎まで行った。そこで光源氏は屋敷の中を垣間見てみるとちらりとつやつやと光る髪の毛が見えた。その髪に惚れ込んでしまった光源氏は手紙や和歌を何度も書き、やっと会う(結ばれる)約束を取り付けたという。結局その女の顔は悪かったというオチが付いてしまったが、つまり実際にその姿を見るのは最後の最後である。つまりこの作戦ではその段階に行くまでに

(振ってしまえば良い)

と、いうことなのだ。贈り物を貰い続けて結局振るのは現代人の感覚としては何とも悪評高いことだが、古代の貴族社会では贈り物など挨拶の一部に過ぎず、女を落とせなかったのはその男が悪いという結論に落ち着くのだ。むしろそのように男を振り続ける女を見てみたいと、言い寄る阿呆が増えていく一方であった。

 疲れた手を揉み解していた道興は外に視線を向けたままの郡司にしみじみ言った。

「良い雨ですな」

「うむ」

道興の言葉に郡司は軽く微笑み、答えた。近頃では三位以上の貴族からも恋文が届くほど有名になった『姫』のおかげで贈り物の値段の額も高くなり、今年どころか来年までの種籾たねもみも買えるほどお金も貯まっていた。昨年までの絶望とはとっくにおさらばしていたのだった。それどころか新たな農具も加わったため

(今年は儂が郡司になってから一等良い年になるだろう)

と郡司は確信していた。

 そうこうしているうちに一組、また一組とのぞき見の客たちが帰って行った。今日のところは諦めたのだろう。姫のいる部屋とこの部屋は遠く離れているため、今や郡司の視界に居る見物者は苔が生えた石の上で身動きしない蛙一匹となった。雨が煩わしいのだろうか、瞼を半開きにした状態でじっとこちらを見ていた。郡司の眼にはそんな蛙が何やら可愛らしく感じられ、こちらからもじっとその蛙を見続けた。

 郡司と蛙が見つめ合っているこの庭、実は一年前とは全く様子が異なっている。それは庭だけではなく、この屋敷全体がまるで貴族のお手本のような何とも格式高い装いに変貌していた。綺麗に掃除された大きな池、それを取り囲む多種多様な草木や花々、そしてそれらを整える役目を持つ様々な形の石がここしかないというような絶妙な場所に配置してあった。それが今のこの屋敷の姿であった。

 なぜこのような状態になったのか。それはそうする必要があったからに他ならないからだ。先ほどの光源氏のように、貴族は目当ての女性の様子や気品を調べに行くものである。その際に目に入る屋敷の様子もその評価基準に入るのだ。器量の良い娘は気品高い家から生まれる。つまり屋敷の姿とはその娘の父親はどのような人柄であるかという判断基準そのものなのだ。

 そのためこの計画が始まってすぐに、屋敷の改造に取り掛かったことは言うまでもない。ここ一帯は元々都の工事に携わるなど貴族の屋敷に精通した者が多く、その腕前も一流とはいかないが十分に自力で建設できるほどだった。その者達が郷長の依頼によって屋敷を作り、庭の配置には道興が指揮を執った。その際の給料は主に来年度の種籾が支給され(もちろん雇い主は郡司であった)、都の建造も落ち着きつつあって暇だったせいか、郷長の依頼とは別に多くの民が参加し、新年を迎えるころには前述のような立派な屋敷が完成していたという訳であった。

 そんな屋敷のことはさておき、郡司は今日の『収穫』について尋ねた。

「今日お出でになったのはいくつだったかな?」

「全部で五家です。橘家や藤原家、在原家などから。いずれも傍流ですが」

結婚依頼か女官として出仕要請、ほとんどの使者の要件はこの二つに分類された。

「そうは言っても全部名家だな。我が姫は都でもよほど有名になったと見える」

「大工の噂が短い間にこれほどまで広がるとは。少し恐ろしく感じます」

「ふっ、全てお主が仕組んだことであろう」

鼻で笑う郡司に道興は威厳と頼もしさを感じる。その背中は少し大きくなったように見えた。

(この半年の間に成長なされたのであろう)

 小役人の強引な命令への拒絶、大規模な工事、貴族との応対や駆け引き、そして『大工を通じた都への噂の流布』。これらの責任をすべて背負っていたのは紛れもなく郡司一人であった。そのような自分の分を越えた困難に直面した時、人は逃げ出すか、それを受け止められるほど強くならなければならない。そう考えると、この郡司の成長ぶりは必要なことであり、また必然のことであった。

 しかしその一方で郡司の方はうまく行き過ぎる現状に対してこんな懸念を抱いていた。

(とはいえ、このような『幸運』もいつまで続くか)

 見事な姿形をした庭木から落ちる滴の行く先を見ながら郡司は最後の難関について考えていた。何事も引き際が肝心。引き際こそが難しい。そろそろまとめに入る準備をしなくてはと思いつつ、蛙をぼんやり見ていた。

 池の水紋が一段と増えた。おそらく見物人は全員帰ったであろう。そしてあの蛙も飛び跳ねていなくなった頃、郡司は道興に自分の懸念について尋ねてみた。

「道興、もうそろそろ良いのではないだろうか」

 この静かな時を楽しんでいた道興は郡司の不意の質問に対してすぐに応答しなかった。しかしそれも予定通りであるかのように彼はゆっくりと居直り、顔を上げた。

「郡司様、それは先日議論したばかりではありませぬか。この計画はしばらく続け、名家の本流が登場したところで切り上げると」

道興の言葉に郡司は「むう」と小さく唸った。

「確かにそう決めたことには決めたが……だが当初の計画通り『姫は急な病で死んだ』としてもそれほどの高貴なお方が出てこられた場合、事はそうすんなりとは行くまい。必ず大きな騒ぎとなろう」

「心配には及びますまい」

そう断言した道興は強い眼差しを送った。

「この『姫』は知性溢れ気品良しとはいえ、所詮は身分の低い家に生まれた娘。貴族の男どもにはこの『姫』を正妻に迎い入れる考えも無ければ勇気もありますまい。よってこの『姫』に対して本気で惚れて込んでいる貴族はまず居ない、と思いまする」

 そう強く主張された郡司の心中では「身分が低い」と言われたことへの不愉快さももちろんあったが、それよりも普段は大人しい道興がこれほど強気になっていることへの不可解さが渦巻いていた。彼は道興の前に膝を合わせるように坐り、じっと彼の目の奥を見るかのようにした。

「お主、何か変だぞ」

 道興の眉がピクリと動いた。郡司は続ける。

「竹や信も強気に計画続行を訴えている。それは分かる。なぜならこの計画で得た金で奴らの村も発展するからだ。このまま上手くいけばここ一帯は十年近く安泰が保てよう。だがお前はどうだ?別にこの計画が大成功を収めたからと言って、その得た金はほとんどお主には回ってこない。ましてや罪が許されて都に戻れるわけでもあるまい」

 道興は始めから「この計画は今まで養ってくれた郡司様への御恩返し」として郡司が与えようとしていた分け前のほとんどを断ってきた。道興の妻に渡そうとしても、同様の言い分で断られてきたのだった。つまり道興が得るものは殆ど無かったと言える。

「なぜだ?何がお主をこの計画に固執させるのだ?」

 郡司は道興がはぐらかさないようにもっと詰め寄った。が、急に外を向いた相手の目線に気を取られてその方向を意識した瞬間、道興はさっと立ち上がって部屋を出て行こうとしていた。

「道興!」

郡司の短く発せられた呼びかけに対して、その顔を見ずに答えた。

「まだ続けるとはいえ、この計画は後半年もすれば終わりましょう。その時、お答えします」

無表情に語ったその言葉には有無を言わせぬ力がこもっていた。郡司はそれ以上何も言えず、その様子を見て道興は琵琶を持ってそのまま出て行こうとした。郡司は「最後に」と付け加えてもう一つ質問した。

「そのような貴族が居たらどうするのだ?『姫』を正妻に迎えようとするまで愛し、そしてその勇気があるような貴族がいたとしたら?」

 道興は閉めようとした襖に手をかけたまま立ち止まり、どこかもの悲しそうな表情で囁いた。

「…ありえませんよ……ありえません…」

 襖は閉められ、部屋には一人郡司が取り残された。雨はより勢いを増し、屋敷や田畑に流れ込む。このまましばらく止むことはないだろう。ふと外に目をやった郡司の耳にはどこかしらか犬の遠吠えがかすかに聞こえた。


 …世のかしこき人なりとも、深き志を知らでは、あひ難しとなん思ふ…


 先ほどの屋敷とは打って変わって汚らしい座敷、その片隅の机に向かって筆を取る男がいた。その前の窓を大きく開けられた部屋は眩しすぎるほどの月明かりで一杯になっており、唯一暗くなっているのはその男の影の中だけであった。その梅雨には珍しく晴れ上がった夜空を見上げる影が動く気配は一向に無い。行き場を失くした粗末な筆は硯の縁に置かれたままになっていた。

 男が見上げる月は下半分を何処かに置いてきた様子で、まるで夜空に穴が開いたように鮮明な形でぽっかりと浮かんでいた。腕を組みながら彼はそんな月の光景に最適な言葉を見つけようとした。しかし言葉たちは月の周りをぐるぐると止まることなく動いていて、この机にまで下りてくるには時間がかかりそうだった。

 風が吹いた。少し暖かく、湿気を帯びた風の中に彼は夏の空気を感じた。ふと筆が動く。窓から入りそうなくらい伸びた草を揺らしながら、この風は彼に別の場所から来た言葉を与えた。二、三行進んだ。だが、また筆が止まった。腕を組む形に戻る男。庭でいつの間にか咲いた朝顔と一緒に次の風を待ってみた。風は来ない。再び見上げた。まだ言葉たちは降りてきてはいない。

 再びその影が動いたのはいつの間にか部屋に入ってきた新たな影に声をかけられてからだった。

「お詰まりのようですね」

ことっと置かれた湯気が立つ湯呑とそれを運んできた女の指、男が夜空から目線を移して初めて見たものだった。質の悪そうなごつごつとした湯呑を持つ指先は彼のものと変わらないほどごつごつしていた。爪先には黒い土が溜まっているのが見て取れる。手の甲には数多くの傷跡が残されていた。男はその組み合わせに言い表せないほどの悲しみを覚え、油断すると涙腺が緩みそうなくらいだった。

「どうしたのですか、こんな夜更けに。寝不足は体に毒ですよ」

と、言いつつ女は男のすぐそばに坐る。その男、道興は急いでその表情を隠すため、また紙に目線を戻した。その上質な紙には女性特有の丸みを帯びた文字が綴られていたが、まだ半分も埋まってはいなかった。彼の妻である宮子は起き抜けのぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で直しつつ彼の言葉を待った。気持ちを落ち着かせた彼は空を見るように促した。

「今日はこの時期には珍しく明るい月が出ているからな。良い文章が書けそうなのだ」

「あら、本当に…」

 宮子はそう言ったきり黙って、上空に浮かぶ上弦の月を見始めた。彼は紙に目線を落とし、筆を持った。それと同時に湯呑を引き寄せて飲む。中身は白湯だった。

少し時間が経つ。宮子は飽きもせずに月を見続けていた。一方、道興は筆を持ってみたもののやはり思い浮かぶものは無く、集中力の無い視線はふと妻の方に動いた。その瞬間、道興はハッと息を飲んだ。

 彼女の横顔が光っている。日頃の農作業で煤こけたような黒い肌の色は透明な月の光に塗りつぶされ、神々しく輝きを放っている。彼の視界からは破れかかった襖や穴が目立つ板間、妻の薄汚れた着物さえも消え、ただ彼女の横顔だけで埋まってしまった。まるで『あの時』のようだと心の中で呟いた。

「宮子…」

 その呟きは思わず外に漏れだしてしまっていた。自分の名を呼ぶ、掠れた小さな声に彼女は振り返った。

「あ…いや、なんでもない」

尋ねる彼女の表情に対してそう答え、彼女の言葉を遮るように素早く机に顔を戻した。そして無理やり捻り出した文章を紙に書き上げる。危うく普段の自分の字体で書くところだった。

その文章は案外良さそうで、そのままそれに合うように書き続けていく。彼は宮子がこちらをじっと見つめていることに気付いていた。しかし今、気を散らすとまた書けなくなりそうで、気付かないふりをして机に向かっていた。すると、宮子の口がゆっくりと開いた。

「いつまでなさるおつもりですか」

 あまりに深刻そうな声音で言ったものであったので、思わず道興は振り向いた。彼の顔を、目をまっすぐ見つめる妻がそこにいた。

「切りが良いところま「そういうことではありません」

彼の言葉を遮る宮子。実は道興も彼女の言葉の意味を知っていた。だだ、彼はどうしてもそれを話題にはしたくなかった。

「このはかりごとはこの村のためにしかたなくしていること。そなたは何も知らなくてよい」

それだけ言うとまた机に向かおうとした。道興の話題を打ち切る態度に対して宮子は語気を強めた。

「それは嘘でございましょう」

「嘘だと?」

 妻のただならぬ物言いに、やっと道興は体ごと彼女に向いた。彼女は意を決して、こう断言した。

「あなた様の復讐のためにございましょう」

それを言われたとたん、道興はまるで体中の血が凍るような感覚を覚えた。そして怒りとも悲しみともいえない感情を抱き、それが何か判断が付かず、何も反論できなかった。何も言わない夫の代わりに彼女は続けた。その口ぶりはまるですべてを知っているようだった。

「もうお止めなさいませ。これ以上なさってもむなしさが増すばかりでしょう。『私たちのことは』仕方のなかったことなのですから…」

宮子はそう言うと、彼の手を握ろうとした。しかし憤怒の表情を浮かべた道興は差し出された手を振り払い、勢いよく立ちあがった。

「仕方のないことだと!?ふざけるな!第一、この事自体、お前のためを思って…!」

 道興は絶句してしまった。今まで数えきれないほどの言葉を紡いできたのに、この感情を、この不可解なほど湧き上がる怒りを、彼は表現できなかった。加えて彼は、先ほどの妻の発言に打ちのめされている弱い自分や、この怒りを非難する自分の存在に気付かされてしまっていた。

彼はその場にどっと座り込んだ。そして理不尽な怒りをぶつけた妻にただ「すまぬ」と言い置いたきり、下を向いて黙り込んでしまった。宮子も数年ぶりに見た夫のこんな感情の爆発に驚き、かける言葉が見つからずに彼女も俯いてしまった。

少し風が変わった。今までの東南の風とは異なり、少し肌寒い季節外れの北風が部屋の中に忍び込んできた。宮子は冷たくなった湯呑に理由を見出すと、何も言わずそれを持って部屋をそそくさと去った。道興はすっかり続きを書く気を失くしていた。筆を整え残った墨を外の庭に捨てた後、改めて今まで書いた文章を見直した。

(……ひどい文章だ…)

 これを読む貴族には分からないだろうが、相手に愛情の一欠けらも与えない『恋文』がそこにあった。道興は初めて罪悪感を覚えた。しかし彼はその手紙をそのまま捨てることは無かった。今更変えることもあるまい。彼は布団を敷き、ゴロンと横になって寝てしまった。

 外では紫陽花が盛りを過ぎて萎みかけていた。もうすぐ一年だ。この村が何かを代償に生き残りをかけて戦ってきてから。


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