第一夜
月の裏は今宵も見えぬ 第一夜
…今は昔、竹取の翁といふ者ありけり……
『竹取物語』より引用
「全滅だ」
地獄の門を目の前にした人もこのような声を出すのだろう。郡司を取り囲むこの光景は地獄にも劣らないものに感じられた。異常に短かった梅雨の季節。それでも必死に蓄えた水すら奪ってしまった例年に無いほど高い気温。その結果は火を見るよりも明らかだった。しかし、この悲劇を目の前にして
「これほどまでとは…」
と、声を失ってしまった。湿田にもかかわらず地面には大きな亀裂が入り、黄金色とはお世辞にも言えないほど緑がかった稲穂がひょろっと生えていた。その茎はちょっとした風でも折れてしまいそうなほどか細かった。その上、その緑色の植物の数は少なく、所々で黄色い地面が見えてしまっていた。
「も、申し訳ございませぬ!」
郷長や彼が監督する郷の民が、唖然とする郡司に対して額を地面に擦りつけていた。震える声に郷を代表する謝罪の気持ちが読み取れる。しかしその涙声の言葉も郡司の耳には入らない。彼の心はこの不幸を受け入れることに必死だった。だが、自分の職務を忘れてはいけない。無駄だとは思いつつも問いかける。
「…秀、年貢は納められるか?」
「お許しください!ご覧の有様ではどうにも…」
郡司はまだひれ伏している秀と呼ばれた郷長を睨み付ける。持っていた杖で自分の感情を表すようにビシッと突きつけた。
「ふざけるな!昨年もそう申したではないか!」
「郡司様、我々にも養うべき家族がございます!…ご勘弁ください。年貢を納めたら、我々は死んでしまいます」
「お願いします。今年も年貢を減らしてくださいませ」
お願いしますお願いしますと、再び土下座する郷の民たち。その手は例外なく骨が浮き出ていて、腕は目の前に広がる稲と同様に、目をそむけたくなるほど細い。その姿にますます苛立ち、ブンッと杖を振った。ビクッと郷長の体が反応した。
(そんなことは分かっておる!)
郷長の隣には全く水が流れていない溝には痩せ細った蛙が干からびている。去年は溝の形が崩れるほど勢いある流れがあったとは到底思えなかった。その勢いは一つに流れ集まった時、去年の悲劇が引き起こされた。洪水だ。この一帯の守り神ともいえる堤を軽々乗り越えた奴らは次々と家や人を飲み込んでいった。当然、作物も。水浸しになった田んぼには新しく溝ができたかのように縦横に水の通り道が伸びていき、そこにあった稲は言葉通り根こそぎ持っていかれてしまった。その状況を調査した郡司はすぐさま減税を国司に提言し、さらに身銭を切って納めるべき年貢を肩代わりした。だが、
(だからこそ、今年はきちんと納めてさせなければ)
と、決意していた矢先だった。その望みは潰えた。自分にも蓄えがほとんど無い以上、国司様に我慢してもらうしかない。郡司は郷長に何も言わず帰路に就いた。これ以上責めても仕方がない。早く国衙(国司の役所)に行き頼み込まなければ。
ところがそうは考えつつもそれは無理だとも彼は確信していた。そう考える彼が馬上から見る風景はほとんど変化せず、山肌を覆う木々より青々とした田が開けている。餌がないためであろうか、鳥のさえずりも聞こえない空は憎々しいほど青く透き通っていた。
(今年は黒雲が恋しい)
と、切実に思う郡司はこれからの苦難に思考を切り替えた。
年貢の納税は絶対である。ほんの十数年前、彼のような地方の代表者である郡司が重要視された頃までは、まだ減税の可能性は残っていただろう。ところが最近、国司の体制が変化してきた。国司、特にその代表者の受領の権限が強化されてきたのだ
これは歴史的に国司の徴税請負人化といわれる現象である。実は平安時代初期までに国司(戸籍作成担当)-郡司(徴税担当)が中心の地方統治体制は崩壊していた。原因は過重な人頭税による農民の逃亡だ。その結果、徴税の鍵となる戸籍や計帳が作成できなくなった。勿論、朝廷は困惑した。
そこで制度改革である。税を人頭税から土地税に重心を移し、戸籍に頼らない徴税制度にした。その徴税は郡司に代わって国司が受け持つようになった。その上、国司の組織も簡略化し、そのトップの受領が独裁かつ過重徴税による不正収入の獲得をするようになった。これが徴税請負人化であり、下級貴族にとって有力な収入源となった。この結果、郡司の権限は大幅に削減されていくのだが、それはこの後の時代の話。今はその移行期に当たっていた。
話を戻すと、つまり露骨に農民から搾り取ろうとする国司に減税を約束させるのは並大抵の話ではないということだ。ハァと口から洩れるため息。やれやれ、これも間に立つ者の苦悩じゃな。せめて来年は豊作以上でないと本当に夜逃げするしかないだろう。パカパカと進む馬の歩みは軽かった。この乾いた大地を好ましく思っているのは、今この瞬間はこの馬しかいなかっただろう。この愛馬にいちゃもんをつけるわけにもいかず、郡司はもう一度、ため息を大きくついた。
「来年も凶作です」
卦を立てようかと相談する間も無く、そう断ずる言葉に困惑するよりも唖然としてしまった。郡司の屋敷、傾いた太陽の光が大きく開けた障子に誘われるように、部屋一杯に注がれていた。疲れた郡司にはその光景は夢の中にいるように思われ、その男の言葉さえ幻聴に聞こえた。
「今、なんと、言った?」
「…残念ながら、来年も凶作かと」
聞き間違い、もしくは幻聴と思いたかったが現実は厳しかった。蒼白になった顔で、詰め寄るようにその貴族風の顔立ち、それとは似つかわない汚い衣服を纏う男に問うた。
「何故わかった!?卦を立てたのか」
「いえ、卦を立てずとも分かります。悲しいことですがこれは必然のこと」
苦々しくもそう述べる口元には彼の確信が張り付いていた。その様子に諦めたように前のめりになった体勢を起こし、気が抜けたようにがっくりと肩を落とす。聞きたくなかったが、仕方がない。ボソッと「理由は?」と力無く質問した。
「至極簡単な話です。種籾が無いからですよ」
その言葉に、郡司はうつむきがちに唸ってしまった。そしてそのまま頭を抱える。彼の言う通りだった。
郡司は年貢を肩代わりし、民を助けた。しかし(そんな余裕もなかったが)民に食料を施した訳では無い。二年も凶作に見舞われたこの一帯の民は、おそらく日々の食糧にも困り、来年の食糧の元である種籾にさえ手を出してしまったに違いない。
「となると、まだ種籾用の食料が残っているのは我が家だけか」
「おそらく」
「しかしそれも今年の年貢の肩代わりとして出さなければなるまい。……やれ、困った…困ったぞ」
眉を寄せた額に手を当て、目を閉じて考え込む。もう一つの手は苛立つように膝の上で忙しなく動かしていた。この二年で一気に増えた白髪が赤い部屋の中で鈍く輝いている。皺も彫ったように深くなっていた。その皺で描かれた顔が悲しく歪んで言葉を発した。
「道興殿。どうにか受領様を説得する方法は無いのか?」
「望みは薄かろうと思います。昨年でさえ少し我慢してもらったのですから」
「しかし受領様とてこの状況を知っておいでじゃろう」
「ご存じないと思います。いや、たとえご存じであってもしっかりお取立てなさるでしょう」
「……そうじゃな」
再び考え込む郡司。隣の部屋で子供たちが騒いでいる声が聞こえる。遊びから帰ってきたのだろう。すぐに母親から窘められ、騒ぐ音は消えた。
(来年はこうして生活できているだろうか)
現実味を帯びてきた不安でますます項垂れてしまう。日は山の向こうから最後の挨拶をしていた。赤の中に黒が入り混じってきた部屋の中、道興と呼ばれた男がつぶやいた。
「一つだけ考えがございます」
その言葉に郡司はゆっくりと頭を上げ、その男の目を見つめた。橘道興という名の男はゆっくり頷いた。名門貴族の橘家の傍流に当たる。その証しともいえる少しふっくらした頬、白い肌が郡司の眼には輝いて見えた。
どうしてこの田舎に居るのか?それは親族の橘逸勢が承和の変で失脚したからだった。三筆にも数えられる逸勢には及ばなかったが、まだ元服したすぐの歳でありながら一端の学者として名声を集めていた道興も危険視され彼と同様に追放処分を受けた。逸勢の死後すぐに橘家の罪は許されたが、道興はその才能を妬む貴族共によって追放処分は解けず、母方の出身地であるこの地方に住みついたのであった。郡司はこの才能を惜しみ何かと面倒を見てきた。そのため道興は晴耕雨読の生活を送ることができ、何度も郡司の相談に乗ってきた。そういう間柄だった。
「ど、どんな方法じゃ!」
思わず身を乗り出す郡司。その必死な姿勢に道興はゆっくりとにじり寄ってきた。
「少しお耳を…」
家の裏に積まれた薪を取りに行く子供。彼は襖の隙間から父親の驚く声を聴いた。気になったが母親が怖い。好奇心を引きずりながらもしぶしぶ薪を取りに行った。季節は秋。段々とはっきりとした輪郭が見えてくる月の下、鈴虫たちは期待と不安に彩られた音を鳴らし始めていた。
…その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり…
翌日の夜、急な呼び立てによって来訪した三人の郷長の秀、竹、信はそわそわと客間で待っていた。こんな夜更け、しかも政務をおこなう郡家ではなく郡司の私邸に召集されたことに、三人とも落ち着かない様子だった。このような凶作の年、また年貢の減税をお願いした我々に対してまさか酒宴を開いてくれるはずもない。一体、何用だろうか?冷え込む部屋に響く声なく、秋の虫たちがその静寂を占有していた。時折、囲炉裏の中でパチッと音がはじけた。
客間に坐ってからしばらくして、郡司が入ってきた。郡司が上座に坐る。平伏する郷長たち。郡司がゆっくりと口を開く。
「わざわざこんな時刻に来てくれてすまんな」
「いえ、郡司さまの仰せとあらば…」
「重爺はどうした?」
もう一人呼んだはずの郷長の姿が無いことに訝しがる。三人の中では年長の秀が答える。
「重爺様は少し呆けておられまして、忘れているかと。まあ、いなくても平気と思います」
「そうか、そんな様子か。昔から相談に乗ってくれる重爺がいてくれた方が良かったが…」
「そんなに大事なお話でございますか?」
気が短い竹が話をせかすように尋ね、秀に窘められる。その言葉に郡司は改まったように背筋を伸ばす。三人も急いで坐りなおした。
「早速本題に入ろう。今年の年貢は納められるか」
三人の表情に苦みが差す。
「…郡司さま。ご覧になさった通り、今年も悪い出来でありまして」
「種もみの蓄えさえ無い者が多く、年貢どころでは…」
「年貢さえ免除してくださいましたら今年は何とか生き延びられます」
「来年は?」
「わ、わかりません…」
情けなく答える様子に対して郡司は別段怒る様子もなく、短く伸ばした髭を撫でていた。その態度は郷長達に不安を与えた。怒鳴られた方がましだ、と一番若い信は思っていてさえいた。
急に郡司はパンパンと手を鳴らした。扉がガラッと開き、道興が入ってきた。
「道興さま!これは意外な」
「これからの話に必要なのでな。来てもらった」
道興は扉のすぐ傍、郡司から見て左側に坐った。その出で立ちはみすぼらしい衣服にもかかわらずどこかしら上品めいていて、秀らはその姿に都の文化を嗅ぎ、尊敬の眼差しで彼を迎えた。
道興は最初から彼らの人望を得ていた訳では無い。逆に、来た当初は憎らしく思われていた。それも当然かと思う。“元貴族”として郡司に温かく保護され、悠々自適に暮らしている“犯罪人”を憎く思わない人は少なかったに違いない。しかしその憎悪はやがて尊敬に変わった。元々貴族文化に憧れを抱いている民にとって彼はその体現である。漢詩・仏教に詳しく、礼儀も常に正しい。さらに、これは彼の人柄だと思うが、生まれながら卑しい身分の民にも丁寧に穏やかに接したのだ。これが決め手だった。徐々に敬意を集めた道興は今では郡司に次ぐこの一帯の代表者となっていた。
もちろん彼をまだ悪く思う人もいる。ここにいる郷長の一人、竹もその一人だった。
「それでどんな話なので?道興さまの小知恵で解決できる状況にも思いませぬが」
「これ!竹、お前はなんてことを言うのじゃ!」
秀に怒られそっぽを向く竹。郡司の眉間にも皺が寄る。
「郡司様、私のことは良いですから先を」
「む、うむ、そうしよう」
郡司は囲炉裏の傍に集まるように指示した。囲炉裏の中はまだ赤く燃えていたがその勢いは先ほどとは比べ物にならないほど弱くなり、近くに寄っても平気であった。男五人、囲炉裏の火を隠すように輪になって座った。話し始める。
「さて、この期に及んで何か金策を施さなければ、お主たちは勿論のこと、儂も逃散しなければならなくなるだろう」
「………」
「そこで、どうやって金品を獲得し、年貢を納め来年の蓄えを得るか。お前達ならどうする?」
「…分かりません。田畑を耕すことしか我等にはできませぬ」
「分かっていたらとっくにやっておりますゆえ。もう、覚悟はできております」
「秀も信も情けないこと言うな!こうなれば受領様を襲ってでも…」
「馬鹿を申すでない!そうすればこの一帯の民すべて死罪になろうぞ!」
「では、どうするのだ?!」
三人のやり取りが早々に詰まったところで郡司は口を挟んだ。
「竹、分かったであろう。我々の頭ではこれが精いっぱいじゃ」
「…では、道興さまなら解決できるのですか?」
「出来ます」
道興らしからぬ断定の言葉に一同驚く。道興は目で郡司の許可を仰いだ。郡司も目で答え、道興は三人に話し始めた。
「金品は何も土や竹藪に埋もれている訳ではございません」
「そんなことは知っておるわい!あ…いや、知っています」
さすがに言葉使いを訂正した竹に頷き、話を続けた。
「竹殿の言うとおり、それは当然のこと。では、どこにあるのか?それは金持ち、つまり貴族が持っています」
「それで?」
「それならば簡単な話」
道興が三人の顔を見回す。訳が分からず間抜けな顔をしている郷長達の隣では、心なしか郡司が緊張した表情で目を瞑っていた。少しひんやりとしてきた部屋の中心で火花が小さくはじく。顔が半分赤く染めあがった道興の顔に、信は少し恐怖を抱いた。
「あるところから貰えばいいのです」
「は?どういうことで?」
「つまりは、」
道興は静かに微笑んだ。
「貴族達から金品を奪えばいいのです。それも差し出させる形で」
月裏物語から改名しました