甘すぎるコーヒー
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いつからだろう、コーヒーをブラックでも飲めるようになったのは。
幼い頃の私は苦いものが大嫌いだった。コーヒーはその代表格で「コーヒー牛乳」さえも苦味を感じて飲むことができなかった。
当時の私が唯一飲めるコーヒーはお祖母ちゃんが作ってくれたコーヒーだった。
市販のコーヒー牛乳に市販の練乳をちょいと垂らし、砂糖を混ぜる……。今にして思えばなんとも甘ったるい飲み物なのだが、そこまでしてやっと私はコーヒーを口にすることができた。
現在私は二十七歳。甘いケーキをブラックコーヒーで食べるいい大人になっている。コーヒーの苦味がケーキの甘さを引き出してくれる。私にとって毎日のデザートの時間は至福の一時だ。
そんな私を半ば呆れ顔で眺めている男が一人――。私の家の同居人であり、私の彼氏でもある田中典弘だ。私はこの同い年の呆れ顔ともう五年も一つ屋根の下で暮らしている。
「そんなに毎日ケーキばかり食べて、また太った、って泣いても知らないぞ」
そういって彼はコーヒーをすする。コーヒーカップは二つだが、ケーキは一つだ。
「そんなこと言われても甘いものが好きなんだからしょうがないじゃない」
ケーキを美味しく食べた後で、私は彼に聞こえるように呟いた。
「ねぇ、安井っち結婚すること決まったんだって、知ってた?」
「ああ、この前メール来ていたな。来月だろう」
彼はコーヒーカップを片手に目線は新聞紙に向けてそっけなく答える。それにめげずに私はもう一押しして見る。
「いや、最近は私達の周りで結婚ラッシュなのかなぁ……って」
「ああ、そういえば……、そうなんだろうな……」
またそっけない答え。もう遠回りをするのはやめた。少し確信に近付こう。
「ねぇ、私達もその結婚ラッシュに乗ってみるはない」
「……別に、わざわざ周りに合わせなくてもいいだろう」
あまり乗り気ではない彼の答え。いつものことなので耐性はできているけど、やっぱり傷つく。
「だって……私達もう五年も同棲しているんだよ。そろそろそういうの考えたっていいじゃない」
新聞紙を置いて彼が初めて私と視線を合わせた。薄いけど線のしっかりしている眉毛と奥二重の目。低く小さくまとまった鼻に薄い唇。私の好きな彼の顔だ。
「五年も一緒に住んでいるんだから何も特別なことをしなくていいだろう。互いが互いを好きだから、愛しているから一緒に暮らしている、それでいいじゃないか。それに最近は『事実婚』という言葉もあるみたいだし。結婚式とかそういうのに拘る必要は無いだろう」
彼は私を愛していると言ってくれる。それは嬉しいことだ。しかし五年もたっても結婚をする気は無い。
しかも『事実婚』という言葉がでたのは今日が初めてだ。ひょっとしたらずっとこのままでいるつもりなのだろうか。
私は過去に何度も彼に対して時には遠回しに、時にはダイレクトに「結婚」の意志を伝えてきた。しかしそれはいつも私が傷つくことで終わる。彼が私を変わらずに愛してくれることが救いにもなりダメージにもなる。
おかしいのは彼のほう? それとも「結婚」に拘る私のほう? そんな疑問さえ浮かんでくる。
「特別なことしなくてもいいってことは……。明後日も普段通りの一日なのね」
そんな疑問や蓄積するダメージの辛さに耐えながら私が小声で呟くと、彼は目を閉じて暫く何か考えていたが目を開けると
「明後日って何かあったっけ?」
と、言うと彼は何事も無かったかのように新聞紙に視線を向けた。それを聞いた私は我慢の限界に達してしまった。
「明後日五月四日は私の誕生日よ!」
私はそう叫ぶと彼のコーヒーカップを彼に投げつけた。当たったかどうかの確認もせずに二人の部屋に入りそこからバックに入れるだけの服と下着を詰め込む。
「おい、どうする気だ一体」
彼は慌てて服をバックの外へと出そうとする。私は彼の腕を押さえて
「この連休中に実家でじっくり考えるわ、果たしてこの先あなたと暮らしていいのかどうか」
「そうか……、勝手にしろ」
彼はそういうと腕をつかんでいる私の手をもう片方の手ではらい、リビングへと戻って行った。
バックにもう服が入りきれないことを確認した私は彼と視線を合わせずリビングを通り過ぎて玄関に向かう。
「ねえ、あなたは本当に私の事を愛しているの?」
私は叫ぶようにしてリビングにいる彼に聞いた。答えはすぐに返ってきた
「愛しているよ」
それを聞くと私は外へ飛び出した。彼は「NO」とは絶対に言わない。しかし今の私にとってそれは残酷な答えだった。
私の実家は東京から新幹線で約九十分、そこから在来線に乗り換えて約三十分のところにある。冬は雪に囲まれているが、五月は青葉が太陽の光を浴びてきらめく過ごしやすい季節だ。
実家の玄関を開けると、お祖母ちゃんは驚いた顔で私を迎えた。
「どうしたの、香織ちゃん。いきなり帰ってくるなんて」
「ちょっと嫌なことがあったので……、連休が終わったら帰るから」
「典弘さんと何かあったのかい?」
彼と私の家族は東京で何度か会っており私との同棲を認めてくれている。
「何も無いってば。お祖母ちゃん。いつものコーヒー作って」
「そうかい……、何もなければいいけど……」
そう言ってお祖母ちゃんは台所に立って冷蔵庫を開けた。前に実家に帰ったのは三年前だが、その時より小さくなったように見えた。
コーヒー牛乳をコップに注ぎ、練乳をちょっと垂らす。そして砂糖を大匙スプーン一杯分入れてよくかき混ぜる。私はコーヒーを作るお祖母ちゃんの姿をぼんやりと眺めていた。
「はい、できたよ。香織ちゃんの大好きなコーヒー」
「いただきます」
両手でコップを抱えるようにして一口飲む。ひどく甘ったるい味がする。前よりもさらに甘くなったような気がする。
「お祖母ちゃん、砂糖入れすぎたでしょ」
最後まで飲み終えて私がお祖母ちゃんに文句を言うとお祖母ちゃんは首をかしげて
「そうかい、まだ甘すぎたかい? この前は大匙スプーンで二杯入れたんだけど……」
そこまで言ってお祖母ちゃんは急に笑顔になった
「香織ちゃんも大人の女性になってきているって証拠だねぇ」
大人になっていくたびにこのコーヒーを甘すぎると感じていく私。
いつからだろう、このコーヒー以外のコーヒーでも飲めるようになったのは。
翌日は最近三人目の男の子を生んだ小学校時代からの友達の家に行くことになった。車の免許は持っているけど、実家にあるただ一台の車はお父さんが通勤で使っているので、お母さんの自転車を借りることにした。
彼女の家に行くのは実に十数年ぶりだが今でもそこまでの道のりは覚えている。小学校の近くの食堂の角を曲がると、水田に囲まれた広い両側二車線の一本道がある。それをどこまでも行って川にぶつかる所にその家はある。
自転車に乗り食堂の角を曲がった私は驚いて思わずブレーキをかけてしまった。
道が狭くなっているのである。小さい頃はこの道を横切るのに遠くから車がやってこないか警戒しながら渡ったのに、今ではひらりと車など気にせずに渡れる幅になっているのだ。
車が通るたびに私の自転車と接触しないかとつい警戒してしまう。こんな狭い道路をよく自転車で走れたものだと私は不思議に思った。
その周りを囲む水田も昔ほど広いと思えなくなった。家やビルが建って水田が潰れたわけではないのに。
友達の家は思ったほど早く着いてしまった。すっかり幸せ太りしてしまった彼女は笑顔で私を迎えてくれた。
私は彼女にここに来るまでの通り道で感じたことを話した。不思議そうに尋ねる私に彼女は笑って答えた。
「それはそうでしょう。あなたが大きくなったんだもの。小さい頃は体が小さいから道も広く感じたけど、大人のあなたと私にとってはあれはただの狭い道よ。私たちの体は自然に大きくなってもあの道は広がらないじゃない」
「それに東京の広い道になれているからでしょう」と彼女は付け足した。そうか、私が大きくなったのか。
昔の私はこの彼女の家まで遊びに行くことはすごい勇気と体力のいる大冒険だった。
この広い(と思っていた)一本道を見知らぬおじさんに誘拐されないようにと自転車に乗り猛スピードで走り抜けた。
学年も上がるにつれて友達も増え、彼女の家よりも遠いところまで自転車で行ける様になった。そして時には友達とともに、時には一人で隣町まで自転車で行けるようになった。
さらに県内の大都市へと行動範囲は広がり、今では小さい頃は憧れでちょっと怖い印象の街だった東京に遊びに行くどころか住んでいる。
いつからだろう、東京が憧れの世界じゃなくなったのは。
いつからだろう、この道が狭くなってしまったのは。
時間が経つにつれ私の体も生活や考え方も変わり、友達も立場や生活を変えていった。実家のある町も一部分を除いてはめまぐるしく変化している。
そんな中で変わらないものがある。それはあの道の広さと私と彼との関係だ。あの道を見て狭いと感じた私が私自身なら彼はあの道だ。私が彼と結婚したい気持ちは暮らしていく日々とともに増えるのに、彼は一向にその気を見せない。
もし私の思いがあの道よりも大きくなる日が来るならば――。
「香織、なに暗い顔しているのよ。ほら見て、かわいいでしょ。浩輔って言うのよ」
彼女がまだ生まれたばかりの子供を私に見せる。眠っているのかその小さな顔に刻まれている目のラインはしっかりと閉じている。
私は人差し指で浩輔君の右手に触れてみた。私の指よりも小さいその手は何かに触れたのを感じると、ゆっくりとその小さな拳を開いた。
開かれた手のひらをつつくと、今度は小さな指をめいっぱい伸ばして私のそれを掴もうとする。小さな顔から光が漏れた。閉じていた目が開かれ、黒い瞳が左右に動く。
「ごめん、起こしちゃったみたい」
私が彼女に謝ると、
「ううん、大丈夫またすぐ眠るから。目はまだはっきり見えないんだけど、時々こうやって自分の周りの世界を一生懸命見ようとしているんだよね」
いつかこの子も私の指より大きな手を持つ日がきっと来る。
世界を見回す浩輔君が再び目を閉じるまで私は彼をずっと見つめていた。小さな子供は心を癒してくれる、と誰かが言っていたけど典弘との嫌な思いも少ずつ薄れていった。
典弘とのあのような暮らしがいつまで続くのかは分からない。だけどいつか私もこんなかわいい典弘の子供を生むんだ。
実家に帰って夕飯を食べ終わりいつものコーヒーを飲む。砂糖の量を少なめにお願いしたらちょうどいい甘さになった。
すると突然家の電話が鳴り出した。たまたま誰もいなかったので、私が電話を取る。
「もしもし、久島ですが」
「もしもし、典弘です……。ってなんだ香織か」
「典弘……」
電話の相手は彼だった。謝りの電話のつもりだろうか。
「明日は誕生日だけどお前その日も実家にいるつもりか」
「そうだよ、誕生日を忘れる誰かさんと一緒にいてもしょうがないからね」
憎まれ口をたたいているが私はもう彼のことを許している。
「しょうがないなぁ……、じゃあ俺もお前の実家で過ごすわ」
「えっ、嘘!来るの!?」
「来る、って言うか実はもう来ているんだ。携帯見て」
彼に言われて携帯電話を取る。メールが一件受信されている。「誕生日おめでとう」のタイトルを開くとそこには写真が貼ってあった。
「嘘……」
その写真に写っていたのは彼と私の実家の最寄り駅の名前が書かれた看板だった。
「本当にここに来ているの?」
「ああ、そうさ。ゴールデンウィークだったから新幹線も電車も混んでて大変だったよ。今は駅前の公衆電話からかけてる。それよりさ、写真の下のほう、俺が手にしているものを見てくれないか」
彼の指示通り彼が手にしているものに目を凝らしてじっと見る。なにか四角い箱のような物が開かれているがこれは一体なんだろう。
「これってひょっとして誕生日プレゼント? 中は何が入っているの」
そう言うと、彼は「あちゃー」と困ったような声を上げた。
「思いっきりアップにしたんだけど見えづらいか。えーとな、それは指輪だ……」
「えっ、指輪。私あなたに指輪をプレゼントしてもらうの初めてだよ」
喜びの声を上げる私に対して彼の声は何だかどもっている。
「そ、そりゃそうだろう……。俺は薬指に嵌めてもらう指輪以外はプレゼントしないって決めていたから……」
薬指に嵌める指輪って、それって……。
「本当は誕生日にあげるつもりだったんだ。驚かせるつもりで黙っていたんだけど……。ごめんな」
私の目から一筋の涙がこぼれる。変わらないと思っていたのに、だから私の力でなんとか変えて見せるって思っていたのに。何の前触れもなくあなたから変わるなんてずるいよ。
「いいの……。本当に……」
「ああ、本当さ……、これより先は面と向かってお前に言いたいから、今からお前の実家に向かうから」
そう言って電話を切ろうとする彼を私は止めた。
「私が行くからいいよ、よく道覚えていないでしょ」
私の家は駅から歩いて五分、よほどの方向音痴でない限り一度来れば忘れることは無いけど、家族の前でプロポーズなんてお互いに恥ずかしいじゃない。
「そうか、じゃあ駅前で待っている」
電話を切ると私はそのまま何も持たずに玄関へと向かった。
「おや、香織ちゃんそんな顔してどこへ行くんだい?」
玄関の掃除をしていたお祖母ちゃんに私は泣きながら笑顔で答える。
「お祖母ちゃん。ものすごく嬉しいことがあったの」
「なんだか分からないけど、夜も遅いんだから気をつけるんだよ」
「はーい」
扉を開けたところで、私はあることを思いついた。
「そうだ、お祖母ちゃんお願い。いつものコーヒーを二人分作ってちょうだい。二十分もすれば戻ってくるから」
「砂糖の量は大匙スプーンで何杯だい」
「二つとも一杯にして」
私たちの家族になる甘いものが苦手な彼を、お祖母ちゃんのあのコーヒーで迎えようと私は思った。