逃がした魚
浮かれた春も過ぎ去って、腰痛の具合が良くも悪くもないときに、昔の釣り仲間から誘いの電話があった。
「乗っ込み黒鯛(産卵前で食欲が旺盛な黒鯛)のマル秘ポイントを見つけた。絶対に釣れるから、今度の土曜日はスケジュールをこじ開けろ」
「釣れなかったらどうしてくれる?」
「三時間ぶっ通しで腰をもんでやる」
とまで言ってくれるので、およそ八年ぶりに夜釣りに行くことにした。腰にコルセットをがっちり巻いて、迎えに来てくれた釣友の車に乗り込む。『北斗』の読者といえど行き先は明かせないが、そこは三重県のとある漁港だった。
「おい、こんなところに黒鯛がいるのか?」
「だからマル秘ポイントなんだよ」
と、一週間前に黒鯛を五枚上げた彼は自信満々だ。
しかし、漁船の半数が続々と夜の漁に出て行き、二人で計六本の投げザオを出しているというのに、サオ先に取り付けた鈴が一向に鳴らない。
「おい、話が違うじゃないか。腰が痛くなってきたぞ」
「そうあせるな。あと一時間もすれば潮が動き出すから、勝負はこれからだ」
「そうだな。けどやっぱり、釣りはいいなあ」
幸盛は万感の思いを込めて星空を見上げながらつぶやいた。その五分後に幸盛のサオ先がチリッと鳴ったが後が続かず、エサをチェックしてみると半分食いちぎられている。それを見て幸盛の胸は高鳴った。すっかり忘れていたが、この緊張感がたまらない。車の座席を倒して少し横になれば腰も楽になるというのに、その時間すら惜しい。
幸盛は腰痛とは無縁だった頃を思い出した。あまりに久しぶりの釣りなので没頭してしまったが、時合いを待つこんなひとときには釣り仲間と色々話し込んだものだった。
「おい、ここってもう少し行けば太地町じゃないか?」
「まあな。アカデミー賞のおかげで有名になっちまったな」
「おまえはどう思う?」
「鹿や兎や豚の肉は食って良くて、イルカや鯨の肉はけしからんってのは納得いかねえな」
「オレもだ。知能が高いから食うのはイカンというのは、根っこに人間を貴賤上下優劣で差別する傲慢さがあるってことだろ?」
「なるほど」
と釣友がうなずいたとき、彼の前方で鈴がチリチリと鳴った。すかさず彼はサオをつかんで大きくしゃくり上げ、立ち上がってリールを巻き始めた。
「乗ったぞ、この引きはまちがいなく黒鯛だ。三十センチ以上はありそうだ」
釣友はグイグイと引き込む獲物を余裕で引き寄せてくる。と、その時、いきなりサオが強烈に引っ張られ、ジーッというドラグの音が港中に響き渡った。
「どうした?」
「わからん、急に引きが強くなった」
そいつはかなりの大物のようで、リールの音は止むことなくジージーと鳴り続け、道糸がどんどん沖に出て行く。
「おい、ドラグを締めないと道糸がなくなっちまうぞ」
「かといって締め過ぎるとハリスが切れちまう」
「何号だ?」
「2号」
「2号でその軟調ザオなら五〇センチまで大丈夫だ」
「それ以上かも」
「やばい、やばいぞ、おっさん」
と幸盛が叫んだ時には釣友は走り始めていた。漁港の奥角から堤防に回り、長い堤防の先端に着くまでの間に獲物を疲れさせようという戦略だ。幸盛も振り出せば五メートル伸びる捕獲網を右手でつかみ、左手を腰にあてがってヒョコヒョコ後からついて行く。釣友は時々立ち止まってサオを立て、ギリギリまでドラグを締めるが、サオを満月のように曲げるだけで獲物の勢いは止まらない。
「だめだ、これ以上ドラグを締めるとハリスが切れちまう」
堤防の先端に着いたときには、リールの道糸は全部出てしまっていた。あとはサオが折れるか糸が切れるか獲物が力尽きるしかない状況のなかで、獲物はあざ笑うかのようにハリスを引きちぎり、悠悠と去って行ったのだった。
幸盛は茫然と沖をながめる釣友に声をかけた。
「すごかったな。たぶん、七〇センチクラスの黒鯛か、五〇センチ以上の石鯛だぞ」
釣友は羽のように軽くなったリールを巻き始め、首を横に振ってきっぱり言った。
「いや、ちがう。少し先の海面で潮を吹くのが見えたから、イルカがオレの黒鯛を横取りしやがったんだ」
幸盛も内心はサメじゃないかと疑っていたので黙っていた。気を取り直して元の場所に戻り、再び新たな当たりを待つが、イルカが港内に入っていたということは、黒鯛はわれ先に逃げ去っている可能性が高い。
しばしの沈黙を破って幸盛は釣友に声をかけた。
「明日は太地町に行って、イルカの肉を食ってみようぜ」
* 文芸同人誌「北斗」第568号(平成22年6月号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/