外れた箍(たが)
その店は俺の最寄り駅笠倉町にあるテナントビルの2階にあった。以前はもっとファミリー向けでのほほんとしていたのに、不景気のあおりか若い女性向けの服や雑貨を置いた店ばかりになってしまっている。そのビルは5階の美容室店長の持ち物で、その女性店長と喫茶店のマスターは中学からの同級生。マスターが今でもそのビルに店を構えていられるのは、そんな昔のよしみのお情けだと皆が噂する。今風の店がひしめくビルの中で、その店「june」だけは時代が止まったような懐かしい喫茶店だったから。高校の時でさえレトロだった雰囲気そのままに、近所のおじさんおばさん連中がカウンターにいて。髭のマスターはいつも黒いシャツとジーンズにグレイのエプロン。アイリッシュコーヒーを頼むとまるで手品のように厳かにグラスやウイスキー瓶や砂糖壷を並べ、青い炎を操るのだ。成人になって自分で注文する日をずっと待ちわびていた。大人になった俺は、想像したよりずっとアルコールに弱かったけれど。
マスターに目で会釈して真紀を窓際のテーブル席に座らせた。
「周平君かあ、ひさしぶりだねえ」
マスターは髪にも髭にも白髪が少しずつ増えていた。ここの喫茶は5時クローズで夜のバーの準備をするため、就職してからは数える程しか来られなかった。
「お連れさんとは珍しいね」
俺は高校の頃は男友達と、大学時代からはほぼ一人で通っていた。女の子なんてもちろん真紀が初めてで、ここに連れてきた意味を、マスターにならわかってしまうかもしれない。
「会社の同期の藤沢真紀さん。アイリッシュコーヒーを飲ませたくて」
マスターは探るように口の端を上げて真紀を見た。
「うれしいね、でも恋人じゃないんだ?」
真紀が否定しようと口を開きかけたところで、俺はちょっとした賭けに出た。
「・・・ええ、不本意ながら、まだ。」
さあ、どうする?
一瞬聞こえてなかった様にも見えたが、その後うつむいた耳の端が赤いのを俺は見逃さなかった。彼女が逃げる余地はまだ残しておこう。そっと知らぬ間に追い詰めて、いつか俺の手の内に落としてやる。森の中で幻の蝶を追うように。
そのうちマスターが道具を持って現れた。グラスにブラウンシュガーとアイリッシュウイスキーが投入される。マッチで火を点けるとふわっと青い焔が立った。この炎が、いい。熱い炎なのにどこか堪えているような冷静な青。大人になれ、と諭すように。真紀もじっとその揺らぐ火を見つめていた。
なあ、真紀。いま何を考えてる?俺は君のどこにいる?・・・好きだ、好きだ。ウイスキーは静かに燃える。やがてマスターはコーヒーを注いで鎮火した。二重螺旋を描いて立ち上るウイスキーとコーヒーの香り。冬の雲のように厚く垂れ込める冷たいクリーム。コトリと俺たちの前にグラスが置かれる。口を付ければ、冷たさと熱さ、甘さとほろ苦さが、代わる代わる天使と悪魔の様にそそのかした。真紀も感じ入った様子で、ゆっくりと味わっては深い吐息を漏らす。頬杖をついて窓の外を眺める彼女の横顔は、ちょっとアンニュイで色っぽくて、押さえきれない俺の炎をさらに煽った。
ウイスキーはじんわりと身体を暖める。指先がじんじんして熱いくらい、と言う真紀の手を無意識の内に自分の手にとった。ああ、そうだ。きっと酔っている。彼女の戸惑いが指から伝わる。
「酔った?」
真紀の声は少し上ずっている。
「うん、そうかもな、あれっぽっちで」
展示会と真紀の事で夕べ余り寝ていないせいだろうか。
「酔ったときは、つい油断してボロが出る、だから」
俺が彼女の爪を指先で撫でると、真紀はさらに身を固くした。
「なるべく飲まないようにしてるつもりだったけど。もう何度目になるかな、真紀と飲むの」
名残惜しいがすっと彼女の手を離し、残りのグラスを空にする。グラスを置いた音を合図に、唐突に俺の気持ちの蓋が開いた。めらめらと想いの焔に煽られて、箍が、外れた。
「・・・ほんとは素面の時に言うべきなんだろうな」
俺は口を開いた。
「でも、これでももう随分時間をかけたつもりなんだ。俺は・・・」
その時突然、がたん、と激しい音がした。
自分の事で一杯一杯になっていた俺は一瞬反応が遅れ、気が付いた時には、真紀は店を飛び出していた。