つづれおり
会社の行き帰り、いつも体のどこかを研ぎ澄ませて真紀を探していた。本を読みながら、電車の到着時刻を確認しながら、五感のどこかが彼女を感知しようと俺も知らぬ間にonになる。会社の最寄り駅である赤松で、電車の中で、浅葱駅を乗り降りする乗客の中に、彼女の姿を追った。
休憩室で真紀にあったその日赤松駅で電車を待っていると、同じホームの何両目か先に、探していた内巻きのおかっぱ頭が現れた。いた!白いイヤホンのコードが見えていて音楽を聴いているらしい。電車が到着して俺は慌てて真紀の列に近づき、ぎりぎり隣のドアから乗り込むことが出来た。車内は何とか移動できるくらいの混み具合だ。そばまで近付き、脅かさないよう持っていた文庫本の背で軽く肩を叩いた。
「また会ったね」
真紀はイヤホンの片耳を外して俺を見上げた。
「周平君、この路線だった?」
「うん、笠倉町」
「お隣だね、私は浅葱町」
やっぱり。分かってはいたが彼女の口から聞くとやはり嬉しい。その後俺は実家通いだということを話すと、自然と入社1年目の頃の話になった。俺はすかさず、
「よく真紀の弁当ごちそうになったもんな」
と感謝を込めていい、
「真紀の五目おにぎり、うまかったなあ。あのこんにゃく入ってるやつ」
と付け加えるのも忘れなかった。本当にあの味は忘れない。案の定真紀は照れながら嬉しそうにしていた。
こんな真紀が見たい。ふたりで一つ一つ些細な毎日を煉瓦のように積み立てたい。しっかり間を塗り込めて決して崩れないように。
俺は慎重にタイミングを計って真紀のバッグから覗いているバーナード・カフェのマグを指していった。
「昼休憩室で会った時、秋冬限定スパイシーバニララテの濃厚な匂いが」
真紀はさすがに驚きを隠せない。
「俺、あれ毎年すっごく楽しみにしててさ、帰りに浅葱で途中下車するくらい好き。」
これは恥ずかしいが本当のことだ。ついでに付け加えてやった。
「今日も午後からずっと飲みたくて。真紀のせいだ」
この位言ってやらないと強引には誘えない。飲んだばっかりなんですけど、とこぼす割に嫌そうでもない真紀をいいことに、奢るから、と言ってバーナードカフェに連行した。マグを握る白い指先に淡いマニキュア。あの頃はなかった色に胸が鳴る。その時真紀の携帯がなった。
「美砂だ、ちょっとごめん」
着メロが違う!同じキャロル・キングだけどTapestryだ。俺はまんまとお袋の言葉を思い出し興奮してカップを握りしめた。
「ええ?良介君が?うん。あ、今ね、カフェなの。周平君とお茶してんの。偶然電車が一緒になって。え?」
真紀が俺に携帯を差し出す。
「代われって」
嫌な予感がする。俺はおそるおそる携帯を耳に当てた。
「何だ?」
「お邪魔だったかしら?」
美砂はわざとらしく澄ました声を出す。
「うまくやってるじゃない。でも偶然だなんて思わないでよ?」
「は?」
何のことだ?
「真紀の部屋探し、最後の2件にしぼられた時、浅葱の物件を押したのは私でーす」
「!」
さすがの俺も大きな声を上げそうになった。
「感謝は是非とも形で表して。じゃあね」
大きく息を吐いて携帯を返した。真紀は小首をかしげている。自分のことだなんてこれっぽっちも思ってないだろう。やられた。本当に美砂って奴は侮れない。
「そういえば、さっきの着メロ、Tapestryだったな」
俺は知りたかった事実に話を戻した。
「うん。同期の着メロはキャロル・キングで統一したの。サイトにちょうど3曲あって。ちなみに良介君はYou've Got A Friendで、周平君のは」
「Anyone At All」
先に言うと、真紀は感心したように頷いた。
「・・・そう、よく知ってるね」
「今おふくろがピアノで練習中なんだよ。しつこいくらい弾いてて嫌でも耳に残ってる」
本当は、耳に残っていたのは真紀の着メロだったけど。「歌詞の意味、知ってる?」喉元までその言葉が湧き上がるが黙っていた。追い詰めて気まずくなりたくない。今はまだせっかく手に入れたこの幸運な時間を逃したくなかった。
「すてきなお母さん!そっか、トム・ハンクスのファンで犬にトムって名前つけたって言ってたもんね。トムくん元気?」
映画のことは知っているみたいだけど、照れもしない。彼女の隠し事の出来ない性格を考えると特に選曲に意味はなかった様だ。俺は内心がっくりしたが、久しぶりに見る屈託のない笑顔に少し邪心が遠退いた。
ま、いいか。ここまで漕ぎ着けただけでも。考えてみたら二人きりっていうのも初めての様な気がする。もう3年になるのに、俺も大概気が長いなあ。
それでも秋冬の間はこの駅で降りる口実ができたんだ。真紀をこんなに近くで見つめていられる幸福を、スパイスの香り越しにそっと噛み締めた。