交わる軌跡
美砂から真紀が引っ越すと知らされたのは夏だった。古い物件だったので改築のため春頃突然大家から立ち退き要請が出て、急遽部屋を探したのだという。
「今度どこに住むって?」
「さあ?そのうち葉書とか来るんじゃないの?」
いつまでも動かない俺に、最近美砂たちは冷たい。夏も何かにかこつけて会いたいと思っていたのに、引っ越しで忙しいらしいよ、でおしまい。相変わらずすれ違い程度の接触しかなかった。
9月になり残暑は続いていたが、電車の吊り広告も秋の行楽の特集が踊る。路線のコーヒーチェーン店バーナードカフェも秋冬限定のメニューを知らせていた。今年も来た、スパイシーバニララテ。あれ好きなんだよな。会社帰り、俺は自分の最寄り駅の一つ手前の浅葱駅で降りて、バーナードカフェに寄ることにした。駅ビルの本屋で新刊の時代小説を買って、ラテのマグカップを手にカフェの一番奥に陣取る。ラテは熱いコーヒーに冷たいバニラクリームを乗せ、エスニックな香辛料を振りかけた甘い飲み物で、疲れた頭に染み渡る。暑い時にスパイシーな熱い飲み物と冷厳な時代小説。ささやかなる至福の時。満足して香り高いカップから目を上げた時、幻かと思った。
真紀がいる。カフェのレジカウンターの端っこに一人で立って注文を待っていた。会社にいる時の気が張った様子と違って、いかにも仕事が終わって後は帰るだけといった力の抜けた風情だ。ここにいるということは、もしかしたらこの路線に引っ越したのだろうか?声を掛けようと思わず立ち上がったが、そのタイミングで彼女の注文が届いた。バーナードカフェオリジナルの犬のマークのついた赤い保温マグだ。彼女は見とれる程の笑顔を店員に返しながらマグを受け取ると、店を後にした。テイクアウトか!慌てて自分のラテを飲み干し荷物を持って急いで後を追うが、端に座っていたのが仇となり真紀の後ろ姿はあっという間に見えなくなった。
だが消えた方角は分かった。駅と、逆。きっと彼女はこの街に住んでいる!俺は高揚する気持ちを抑え、拳を握りしめた。ここに住んでいるなら、また、会える。ラテの香りが甘く肩を押す。俺はまだ神様に見放されてはいないみたいだ。
バーナードカフェで見かけてから程なくして、買ってきた朝食をとろうと入った会社の休憩室で真紀に会った。ほとんど唯一の接点と言っていいこの場所に、暇が出来れば真紀を探しに来ていたが、なかなかその暇が作れない。こうして面と向かって会うのは1ヶ月ぶり位だろうか。向こうは二人の同僚と一緒で、会議室の予約表を見て何かの予定を話し合っていたようだった。ここは休憩室だ、少しだけ。構わず話しかけた。
「久しぶり」
真紀も嬉しそうに笑ってくれる。上気する頬。つやつやと真っ直ぐで肩のところでくるんと丸まっている内巻きの髪。話す時よく頭が動く真紀は、髪のカールが弾むように何度も揺れる。
「企画部大変そうだね」
「まあ1月のイベントまではね」
毎年1月に自社製品を一堂に集めて紹介するイベントがある。そのイベントで転属後初めて俺の持ち込んだ企画が通った。何としても成功させねばならない。しかもその日は何の偶然か、真紀の誕生日だった。
「忙しいけど、あの頃のことを思えばどうってことない」
俺にしてはちょっとセンチメンタルな言い草だったろうか。しかし真紀は深く頷いてくれる。手にはまたあのマグを持っていた。しかもあのスパイシーバニララテの独特な香り。忙しい朝わざわざ寄ってきた、ということは、やっぱり浅葱駅を使っているに違いないと再確認する。チャンスが俺の手の中に落ちてきた。でもまだだ。イベントが終わるまでは、仕事に集中しなければ。もっと真紀と話したかったが、飯が早い俺はすぐ食べ終わってしまった。時間も押しているし同僚もいることなので切り上げることにする。
「じゃ・・・またな」
俺は端から見てもすごく名残惜しそうだったんだろう、真紀の同僚が真紀を小突いて冷やかしていたが、真紀は何のことか気付いていないみたいだった。
待ってろよ!
一度スタートフラッグが振られたら、俺は猛進あるのみ、だからな。