照らされる岐路
それ以来、俺は真紀への気持ちを明らかにしないまま、そっと彼女を見守ってきた。気持ちをぶつけてしまえば、彼女がいらぬ悩みでつぶれるかもしれないと思ったからだ。そのうち何とか業務にも慣れ、部署の事業も軌道に乗った2年目、俺と青木美砂に辞令が出た。そのうち配置転換があることは分かっていたが、いざ現実になると俺は思ったよりへこんでいた。俺が行くことになった企画部は同じ社屋でも8階で、今いる3階の部屋とはほとんど行き来がない。しかも美砂まで広報に転属で、残る同期はいささか頼りない佐倉良介だけ。真紀の動揺は目に見えている。そんな気持ちとは裏腹にその時は刻一刻と近付いてきた。
俺たちの送別会は3月末のまだ肌寒い金曜の夜に開かれた。居酒屋の隅で、案の定真紀は泣きじゃくって美砂の傍を離れなかった。
「あんたねー、あたし皆に挨拶しなきゃなんないんだから」
ビール瓶を持ってお酌に回る美砂のジャケットの裾を持ったまま、ずるずると一緒に移動している。おいおい。
「周平君、なんとかしてよ」
美砂が俺に真紀を任せようとしたが、真紀は泣きながら首を振り、美砂から離れようとしなかった。俺には何の感慨もないのか?俺は苦々しい想いで酌を受けて飲めない酒を煽った。そのうち酔いつぶれた真紀を美砂が早々に送って行った。帰り際美砂は、
「周平君、帰んないでよ。すぐ戻るから」
と言い捨てて行った。居酒屋は会社のすぐ近くで真紀の部屋からもさほど離れていない。程なく美砂は帰ってきた。
「おまちどう。とりあえずベッドに寝せてきた。大分飲まされた?」
「ああ、ほっとけ」
俺は酒に弱く飲むと地がでるので滅多に深酒はしない。しかし今日は真紀のそっけない態度に腹を立てて飲み過ぎてしまった。ついつい口調も粗野になるが、美砂はむしろ嬉しそうだ。
「ふふん、いい傾向ね。ウラ周平の登場ですよ」
「なんだ、それ」
「夏の納涼会のこと忘れちゃった?真紀にしがみついて『俺のことはどうでもいいのか』って騒いだじゃない」
そんなことあったか?内心青くなる俺に美砂はからからと笑った。
「あの時は酔ってたから真紀も覚えてないと思うよ。いいのよ、あんたも少しは本音だしたらいいんだわ。」
その後、美砂は急に真面目な顔をしたかと思うと、
「真紀は私たちがいなくたって大丈夫よ。課長だってそう思ったから私たち二人を出したんじゃん。」
と囁いた。美砂の中で俺は真紀に過保護だと思われているらしい。
「別にそこまで心配してない」
「・・・分かってるって。あんたが真紀を好きだってことは」
美砂は人参のスティックでくるくると俺を指しながら言った。ぎょっとする。
「何言って」
「ばればれなんだよ」
後ろから男の囁き声が聞こえて、俺はぎょっとして振り向いた。もう一人の同期佐倉良介が人の良さそうな顔を綻ばせて、肩をぽんぽん叩いてくる。
「真紀ちゃんは俺が見張ってるから。大丈夫、課長は来年結婚決まってるし」
「はあっ?」
こいつら!俺の真紀への気持ちも、課長への嫉妬も全部分かってたっていうのか?俺はぐんと酔いが回った気がした。
「課長には妙につっぱるなあと思ってたよ・・・なあんて、課長を敵視してんのは俺も最近美砂から聞いたんだけど。」
良介はにこにこして美砂の肩を抱いた。
「おい、まさか」
「はい、美砂の犬と呼ばれて早1年、ついに佐倉咲きました」
最後は自分の名前にかけた駄洒落でしめた。
「何だあっ?」
良介が美砂に好意を持っているのは明らかで、美砂の後をくっついているのを茶化して犬と称したのは他ならない俺ではあったが。これで案外守りの堅い美砂はなかなか陥落しないだろうと思っていた。
「てめえら、それを報告したかっただけだろう?」
ふたりを睨むと美砂は否定するが、
「そうとも言う」
良介は悪びれずに破顔した。しかしすぐに真剣な表情になる。
「お前はいいのかよ、このままで」
「そんなこと言ったって」
今更どうにもならない。俺はため息をついた。
「まあ、相手があの真紀だからね。道のりは険しいよ」
美砂は同情する、と言って、男前に気の抜けたビールを煽った。
「ま、同期会とか機会は設けてあげるわよ、ね?」
見上げる美砂に良介は顔を綻ばせて何度も頷く。こんな嬉しそうな奴を見るのは初めてだった。何にせよ人の幸せはいいもんだ。よかったな、良介。
高い窓の外を見ると、ほんの数輪咲いた桜を月が冴え冴えと照らしていた。
今頃真紀は一人夢の中だろう。
どこか夢の片隅に俺のことがあるといい。
俺は朦朧とした頭でそんなことを願った。