魚心あれば水心
その時、高い靴音が響いてふたりの身体が同時に跳ねた。そのまま慌てて俺の胸から逃れる真紀に心の中で舌打ちする。現れたのはヒールの高いブーツを履いた茶髪の若い女、透けるビニールのバッグに財布を入れているところを見ると店員だろう。急いでいる風なので道を譲ろうとすると、えっ、と言ったなり真紀が固まった。知り合いか?店員の方も真紀をじっとみたが、紫の服をみて、ああっ、と声を上げる。
「さっきはありがとうございますぅ!」
この服を買わせた張本人か!なるほど真紀が丸め込まれそうな感じだ。物怖じせず果敢に話しかけてくる。
「彼氏さんと待ち合わせですかぁ?」
普通こんな階段で待ち合わせするか?とは思ったが、彼氏という言葉に俺はちょっと気を良くしていた。
「ねっ、このワンピ素敵ですよねっ?」
店員は俺に同意を得ようと目線を合わせて微笑む。確かに、やられた。いつもスーツ姿ばかりで、こんなに色っぽく化けるとは思ってもいなかったから。
「うん、よく似合ってる」
いい仕事してくれたよ。俺は真紀の両肩に手を置いて後ろから軽く押し出した。そしていけしゃあしゃあと、
「綺麗にしてくれて、ありがとうございます」
と言ってやった。とたんに真っ赤になってよろける真紀が笑える。俺がそんなこと言うとは思いもよらなかったんだろう。ざまあみろ。店員もはしゃいで、
「うわあ、ゴチソウサマですー。こういうことがあると、この仕事やっててよかったあって思うんですよー」
と言い残して去っていった。いい奴だな、店員。
後ろ姿を見送りながらも、すかさず脱力した真紀の手を取った。
「離して」
頬を染めて真紀は言ったが、前科がある。離してやる訳がない。さらに固く指一本一本を絡めるように握り直した。
その後、2階に降りてマスターに詫びを入れにいった。ちょうど喫茶が終わる時刻で、客は誰もおらず、バーの準備が始まっていた。
「おお、見つけたか」
マスターは森の賢者のように言って目を細めたが、俺たちの繋がれた手を見てにやっとして突然俗物化した。
「うまくいったってことかな?」
「・・・お陰様で」
さすがの俺もマスターには頭が上がらない。
「いやー、カウンターの客の噂になってたんだよ~。恋人じゃないっていう割には、いい雰囲気で手なんか握っちゃってさ。こりゃひょっとすると、と思ったら突然の逃走劇」
楽しげに笑うマスターに、真紀は真っ赤になって「すみません、すみません」と何度も頭を下げた。
「奴ら暇だからねえ、修羅場か?ってもう賭けでも始めそうな勢いで。やっとさっき帰ったんだよ」
恐るべし常連客。ここに彼らが居ないのに心からほっとした。
「・・・とにかくご心配おかけしました。ありがとうございます。またほとぼりが冷めた頃にこいつ連れてくるから」
そう言って真紀を見ると、うつむいて真っ赤になっている。
「おーおー、こいつだって。いっちょ前に。嫌われんなよ?」
自慢の口ひげがくいっと上がった。
真紀と手を絡めて歩くと、夕暮れ時の馴染みの街もまるで違った世界みたいだ。足が地に着かないという感覚を大人になってから初めて味わった。歓びが次から次へと泡立って、身体の中がシャンパンになったみたいだ。俺はその後もずっと一緒にいたかったが、真紀に拒否された。
「無理。もう、帰して。ダメなの、心臓が」
片言みたいに言って胸を押さえる。そういえば今日は展示会で真紀も疲れているはずだし、俺も昨日からほとんど寝ていなかった。その上誰かさんのお陰で散々駆けずり回ってくたくたで、確かに二人で食事をしても眠ってしまうかもしれない。
仕方なく明日逢うことを約束させ、手を繋いだまま笠倉駅に向かった。