蝶は、森の中へ
何が起こった?一瞬訳が分からなかった。まだ、肝心な事は何も言っていないというのに!俺は自分のコートとマフラー、鞄を引っ掴み、急いでレジに向かう。代金をバンと叩きつけるように置くと、マスターから声がかかった。
「どうした?」
真紀の具合でも悪くなったと思ったのかもしれない。俺はとりあえず「すみません」と一礼して真紀の後を追った。
スタートが遅れたのが痛い。真紀はなかなか見つけだす事が出来なかった。2階にはいないようで、1階に下りてから順に階段を昇って探して行った。女向けの服屋の間を縫って、血相を変えて駆けずり回る俺はかなり滑稽だったろう。5階の美容院やダンススタジオまで覗き込み白い目で見られた。
いない、どこだ?もう帰ったか。肩で息をして元の2階に戻る。恥を忍んでマスターに聞いたがやはり戻ってはいないようだった。
「何があった?」
「さあ、俺にもさっぱり。」
つい白を切ったが、実際は彼女の性格からすれば想像がつかないことではなかった。
「もし戻ってくるようなら俺の携帯に連絡くれますか?」
ナンバーをメモに書いて渡す。その時点で携帯がマナーモードのままだったことに気付いた。階段の踊り場に行って、マナーモードを解除した後メールや着信を確認したが、何もない。うう、とうなって壁に寄りかかった。
やらかしてしまった。慎重にしていたつもりだったのに、最後の最後で。
蝶はひらひらと森のさらに奥へと、逃げた。
脱力して鞄を足元に落とすと、底の方でかすかに、こそっと音がした。銀色のリボンがついた青い袋、雪の結晶のチョーカー。そうだ、今日は真紀の誕生日だった。ずっとこの日を待っていたんだ・・・。
俺の胸の中で凍結しかかっていた情熱がまた少しずつ息を吹き返した。
あきらめるのは、嫌だ。どうしても今日中に渡したい!
駄目元で携帯のボタンを押し、耳に当てた。
「えっ」
幻聴かと思った。Anyone At Allが階段に鳴り響く。まさか。俺はきょろきょろしながら耳を澄ました・・・3階だ!携帯をそのままに階段をダッシュした。
真紀、真紀!不器用で懸命な君。君がいたから今の俺がある。他の誰でもだめだ。君を失いたくない、頼む。
3階の階段ホールについた時、音は途絶えた。必死になって辺りを見回す。たしかグレイのスーツだった、コートはキャメル色で。もう一度電話をかけた。また、あの切ない旋律が流れ始める。近い。どこだ?視界の隅におかっぱ頭の後ろ姿を捕らえた。あっ、と思ったが、着ているのは深い紫色のワンピースで真新しい紙袋を下げている。え、でも。俺は恐る恐る近付いた。もう一方の腕に見慣れたトートバッグとキャメルのコート。背中が固く強ばっていた。
見つけた!真紀だ!
肩を持ってぐいっと振り向かせると、真紀はひっ、と息を詰めた。泣きそうな目が俺を見上げて。卑怯だ、全て許したくなる。
「・・・お前なあ」
愛しさと戸惑いとやり場のない怒りが綯い交ぜになって、荒い口調になった。・・・しかしこの格好は。逃げないようにしっかりと手首を握り直しながら、少し身体を離して全身を見る。身体の線が追える程ぴったりとしたラインのワンピースは、少し裾が広がっていて膝小僧が覗く位の品の良い丈だった。大きく開いた襟ぐりが深い紫色のせいで、真紀の鎖骨の下の白い肌はさらに眩く映える。
自分の置かれた状況も忘れしばらく見惚れた。
「なに着替えてんの」
照れて、思わずきつい口調になる。
「ごめん、なさい」
どきっとした。もしかして、俺への拒絶の意味?
「何に、ごめん?」
思わず詰め寄った。
「えっと、・・・逃げたこと」
そっちか、よかった。それなら少し問い詰めさせてもらう。
「・・・変装してでも逃げたかった?」
「・・・そんな。ただ、店員さんに誘導されて、気がついたら試着して買っちゃってて。変装なんて・・・」
俺が血眼になって探してる間、のんきに試着なんかしてやがったのか。おまけにさっき知らない振りをして、さらに逃げる算段をしていた。
「・・・俺を無視しようとしたね」
「だって、混乱するよ、こんな・・・」
「こんな、何?」
真紀はただ首を振るばかり。わかってるんだ、追い詰めすぎると何もできなくなってしまう君。いつも守ってやるはずの俺が、崖っぷちぎりぎりまで容赦なく追い込んでいる。それでももう攻めこまずにはいられなかった。
「・・・ごめん、でも決めてたんだ。イベントが終わったら動く、って。2月前には何とかしなきゃ、と思ってたから」
スパイシーバニララテが店から消える前にどうしても繋いでおきたかった、細くても長い縁の糸を。
「何とか、って?」
振り絞る様な小さな真紀の声。しかしそれはかすかな希望の灯をともした。真紀は聞きたがっている、俺の気持ちを。勇気が湧いた。
「・・・おにぎりもらった頃から、実はもう捕まってた。」
真紀はじっと俺を見る。戸惑いはあるが拒絶はない。
「一生懸命だけど融通がきかなくて。いつも目一杯のくせに、人のこと心配して、その気がないのに俺を餌付けする」
話しながらいままでの日々が色鮮やかに蘇り、不覚にも涙が溢れそうになった。
「去年仕事場が離れたときもどうってことないし。必死で同期会開いても何も変わらない。散々美砂たちに責められたよ。真紀が引っ越して初めて浅葱で見かけたときも声がかけられなかった」
「初めてって、あの時じゃなかったの?」
真紀は目を見張った。恥ずかしかった。偶然を装って創り込んだ計画。
「・・・あの日休憩室で、バーナードのマグ使ってる真紀を見て、策を練った。香りで分かるくらいラテが好きなのは嘘じゃない。だけど、」
照れくさくてこつんと額を合わせた。
「これが最後のチャンスかもしれないってしがみついた」
真紀の吐息が聞こえる。今どんな顔してる?俺は額を離して真紀の両肩に手を置き、ふたりの距離を離した。真っ赤になって目を伏せる真紀。緊張に耐えかねて身をよじり俺の視線から逃げようとする。駄目だ、逃がさない。ぐっと真紀を引き寄せると、よろけて俺の胸の中に倒れ込んだ。
温かく息づく柔らかな身体。シャンプーだろうか、ほんのりオレンジみたいな甘酸っぱい香りがする。ああ、真紀。深く吸い込んで思い切り抱きしめた。後から後から想いが溢れて湧き上がる。
真紀でなきゃだめだ、真紀しか要らない。他のものなんて悪魔にでもくれてやる。
「・・・俺のものになって。」
息が上がり声がかすれる。
「お願いだ」
懇願しても真紀からの返事はない。俺の胸に頭を預けたままだ。
「真紀」
促すように背中をそっと揺すると、ぶるっと震えてわずかだがこくん、と頷いた。・・・Yes、なんだよな?とてつもない喜びの波がおしよせて胸が熱くなるが、それで許したくはなかった。
「・・・駄目だ」
きちんと言葉にして、実感させて。君が俺のものだという証をくれ。
「言って、ちゃんと」