ふたりの朝
子犬みたいだ、と思った。
自分より大きな物が来るときゃんきゃん吠える子犬。ちっぽけなくせに精一杯強がって、体全体で甲高い声を上げる。端から見れば弱っちいのは一目瞭然なんだが、本人は気付いちゃいないのがおもしろくて。うちで飼っている柴犬のトム(これは母親の好きなトム・ハンクスから取った名前だ)の子犬時代を彷彿とさせる。
同期の藤沢真紀のことだ。
入社した当時、同じ部署に同期は男女2人ずつの4人。事業拡張で無理難題を強いられ、新人の俺たちも訳が分からぬまま悪戦苦闘の毎日だった。幸い上司は理解があったが、業務の多さはどうにもならず、毎日手当の付かない深夜残業の日々。俺は実家から通っていたが、徒歩も合わせて片道45分の通勤時間は結構痛かった。しかも、没頭していると他に頭が行かなくなる俺はすぐ終電を逃す。週の半分は仮眠室のお世話になった。
真紀は会社のすぐ近くに部屋を借りていた。もう一人の同期の青木美砂などは、遅くなった時の定宿にしていたくらいだ。通勤が短い分、真紀は誰より早く出社して、コーヒーを淹れたり、仕事の準備をしたりしていた。あまり要領が良くない彼女。しかしそれも実直で正義感の強い彼女の本質ゆえだった。手抜きができず、曲がったことが嫌いで、納得いくまで先に進めない。時には上司にまで語気を荒げて突っかかることもあり、ひやひやした。しかし直属の課長は真紀を結構気に入っておりその性格も折り込み済みだったので、うまく真紀をクールダウンさせ譲歩へ持ち込ませた。俺が上司だったらあんなにうまく真紀を説得できるだろうか。尊敬と同時に嫉妬を覚えて、早く一人前になりたいと思った。俺が真紀にできることは、泊まり明けの時コーヒーを淹れておくくらいだ。忙しい分俺たち同期は絆が強かった。誰一人つぶれる訳にはいかないと互いに思いやっていた。
そんな泊まり明けの朝、食べる飯もなく、自分で淹れたコーヒーにせめてミルクと砂糖をたっぷり入れて空きっ腹に流し込んでいると、真紀が赤い紙袋を差し出した。
「何?」
袋を開けると中には大きなおにぎりが2個入っていた。二個とも五目ご飯で、市販のものより具の刻みが荒く、いかにも手作りって感じだ。まだほのかに温かい。
「いっぱい炊かないと美味しくないから、作りすぎちゃって。」
真紀は、悪いけどもらってほしいというようなスタンスで言った。彼女らしい。
「ありがとな」
俺はすぐにかぶりついた。美味い。甘辛い味の中にごぼうやらこんにゃくやらいろんな食感が混じって、予想に反して具の大きさがうまくアクセントになっている。手が込んでいるが、炊きたてみたいだ。前日のうちに仕込んだのかもしれない。俺は一人っ子で、料理に関しては母親がよくぼやくので、こういう舞台裏を察知できる男になってしまっていた。しかしそれは本人には言わなかった。
「うまかった。ごちそうさん」
俺は最後の一口を噛み締めながら言った。
「もう食べ終わったの?」
真紀は呆れたように言って、バッグから自分の弁当袋を取り出した。
「もっと食べる?」
「いや、いいよ」
彼女が忙しい中弁当を作るのは、すぐ食べて仕事にかかれるようにしているためだと知っている。
「ありがとな」
俺はもう一度繰り返した。
「そんな、私こそいつもコーヒー淹れてもらってるし」
真紀は照れくさそうにもじもじした。そうか、こいつは俺が真紀の負担を軽くしようとコーヒーを淹れているのを分かってたんだ。おにぎりも初めから俺の分まで見込んでいたに違いない。すぐに食べられて、野菜もとれて、弁当みたいに仰々しくなくて。いろいろ思い悩んでメニューを決めたのかもしれない。分かりにくいが可愛いやつ。
その時から、俺は胃袋ごとまんまと真紀に捕われてしまったのだった。