大きくなったね
「いただきます」
変事はなかった。
テーブルの向かい側では、父の直人がテレビを見ながら夕食を食べている。
画面の中では、誰かが大きな声で笑っていた。
その声だけが、やけにこの家に響いている。
私は箸を手に取り、冷めかけた味噌汁を口に運ぶ。
今日の学校では、特に何もなかった。
休み時間ににはクラスメイトと話したし、授業中に先生に当てられて、答えを間違えたときには少し笑われた。
帰り道には、友達とコンビニに寄った。
思い返せば、それなりにいろいろあったはずだ。
けれど、家に帰ってくると、そんな出来事は全部どうでもよくなってしまう。
正確には、話す相手がいないから、思い返す必要もなくなる。
「……ごちそうさま」
食器を重ね、流し台へ運ぶ。
その時、父が口を開いた。
「明日、早いから」
「……うん」
それだけだった。
今日、父と交わした言葉は、それで終わりだった。
別に、期待していたわけじゃない。
ただ、たまには学校のこととかを聞いてほしい。
今日はどうだった、とか。
何か嫌なことでもあったのか、とか。
そんな、どこの家にでもあるような会話を、一度くらいしてみたかった。
けれど、そんなことを口にするのは、なんだかひどく惨めに思えた。
だから私は、何も言わない。
言わなければ、傷つくこともない。
それだけのことだった。
*
自分の部屋に戻ると、鞄を床に置いた。
制服のままベッドに倒れ込む。
天井には、小さな染みがある。
いつからあったかは、覚えてない。
毎日見てるのに、いつまで経っても気にならない。
この部屋も、この家も、私にとってはそんな場所だった。
そこにあるのが当たり前で、なくなったら困る。
でも、好きかと聞かれたら、私は答えられない。
スマートフォンを手に取る。
通知は二件。
クラスのグループチャットと、動画アプリからのお知らせ。
どちらも、私が待っていたものではなかった。
……誰を待っていたんだろう。
自分でも分からなかった。
誰かから連絡が来たらいいな、と思う。
今日どうだった、と聞いてくれたらいいな、と思う。
でも、いざ誰かに「大丈夫?」と聞かれたら、きっと私はこう答える。
「別に、大丈夫だけど」
本当は大丈夫じゃなくても。
寂しいくせに、寂しくないふりをする。
誰かにそばにいてほしいくせに、一人が好きだと言い張る。
我ながら、面倒くさい性格だと思う。
けれど、今更変えられそうになかった。
期待して、裏切られて、傷つくくらいなら。
最初から、何も求めなければいい。
そうやって、少しずつ諦めることを覚えてきた。
……それなのに。
ふとした瞬間、考えてしまう。
もしも、私のことを一番に考えてくれる人がいたら。
もしも、私が帰ってくるのを待ってくれている人がいたら。
そんな人が、本当にいたら。
私は、どんな顔をするんだろう。
「……馬鹿みたい」
声に出して、考えるのをやめた。
窓の外は、もう暗くなっていた。
少しだけ、外の空気を吸いたい。
そう思って、私は上着を羽織った。
*
家から少し歩いたところに、小さな公園がある。
遊具は古く、夜になると街灯がひとつ、頼りなく辺りを照らしている。
昼間は子供たちの声が聞こえる場所だけれど、今は誰もいない。
私は、いつものベンチに腰を下ろした。
冷たい風が頬を撫でる。
秋の終わりが近づいている。
もう少ししたら、ここにも座るのもつらくなるだろう。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空を見上げる。
星はほとんど見えない。
雲が多いせいなのか、それとも街の明かりが邪魔をしているのか。
どうでもよかった。
綺麗な景色を見たかったわけじゃない。
ただ、何も考えずにいられる時間が欲しかった。
家にいても、学校にいても、どこか落ち着かない。
誰かと一緒にいても、ふとした瞬間に自分だけが取り残されたような気持になる。
だから、一人になる。
一人になれば、寂しいのは自分のせいだと思えるから。
「……帰りたくないな」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
そう思っていた。
「寒くないの?」
不意に、声がした。
驚いて顔を上げる。
少し離れたところに、女性が立っていた。
見覚えはない。
年齢もよく分からなかった。街灯の明かりの下で、彼女は穏やかな表情を浮かべている。
いつからそこにいたのだろう。
足音は聞こえなかった気がする。
「……別に」
反射的に答えてから、私は少しだけ後悔した。
初対面の相手に、そんな言い方をする必要はなかった。
けれど、女性は気にした様子もなく、私の隣を見た。
「隣、いいかな?」
「……どうぞ」
女性は、静かにベンチに腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎず。
こちらの顔を覗き込むことも、無理に話しかけてくることもなかった。
ただ、隣に座っていた。
それだけなのに、不思議と居心地は悪くなかった。
しばらく、私も女性も何も話さなかった。
沈黙が気まずいものだと思わなかったのは、久しぶりだった。
やがて女性が、ゆっくりとこちらを向いた。
その目が、私の顔を捉える。
なぜだろう。
その瞬間、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
初めて会った人のはずなのに。
どこかで、同じ目を見たことがあるような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
私は、彼女を知らない。
彼女だって、私のことなんて知らないはずだ。
なのに。
女性は、まるで大切なものを見つけた人のように、柔らかく優しく微笑んだ。
「……大きくなったね」
「……え?」
思わず聞き返した。
「私たち…どこかで会いましたっけ…?」
女性は答えなかった。
ただ、少し困ったように笑って、もう一度私を見つめた。
その表情が、なぜだかひどく寂しそうに見えた。
私は、何も言えなかった。
初対面の女性。
聞き覚えのない言葉。
それなのに、その声だけが、いつまでも耳の奥に、残っていた。




