権力は「ゆるふわ」な形でやってくる
少し前に「ちいかわ」というアニメが流行った。見た目に可愛らしいキャラクターが出てくるアニメで、若い女性はこぞって「ちいかわ」グッズをバッグやスマートフォンにぶら下げてた。
「ちいかわ」などは「ゆるふわ」の代表格だろうと思う。「ゆるふわ」とは「ゆるくてふわふわしている」の略で、キャラクターが可愛らしい様を言う。
「ちいかわ」がこんなに流行っているのを見ると、私は現代の権力というのはこのように「ゆるふわ」な形でやってきているのだな、と思う。この事について説明しよう。
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ディストピア(ユートピアの反対語)小説の傑作というのは二つあって、ひとつはジョージ・オーウェルの「1984年」、もうひとつはオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」だ。
この二つの作品を読むと、世界の在り方の極限的な二形態が理解できるので読んでいない人は是非、読んで欲しいのだが、私は二つの傑作が現実の二十世紀以降の社会の在り方を見事に表している事にいつも驚嘆の念を覚えていた。
大雑把に分けると「1984年」は男性原理の専制社会である。男性原理というのは、力で個人を抑圧する社会である。旧ソ連を思い浮かべてもらうと近いが、こうした社会では反抗を許さない。力によって、社会への抵抗を無化する。言論の自由もない。世界としては"地獄"に近い。
一方で「すばらしい新世界」は「1984年」と比べると女性原理の世界と言える。この世界は「1984年」と違って、個人は自由で、自分の快楽を追求する事ができる。言論の自由も思想の自由も存在する。世界としては天国に近い。
それでは「すばらしい新世界」はどのようにディストピアになるかと言うと、それは美しい女性が自らの肢体で男性を誘惑するように、欲望を満足させる事を絶えず促す社会として、ディストピアを構成する。
現代の人々はこうした社会のどこがディストピアなのか、わからないかもしれない。しかしある意味、天国に似たディストピアは地獄のディストピアよりも残酷である。
このような世界では各人は欲望の追求に熱心である。権力者は各人に対して欲望を充足させる道具を与え続ける。この世界に自由は存在する、と私は先に言ったが、実際には社会の促す形での欲望の充足を目指す自由があるだけだ。
こうした社会では、世俗的な欲望を満たす事が全てなので、それを越えた知識欲は否定される。これは現代とよく似ている。現代においても、大衆向けの様々なコンテンツは充実しているのに、本物の知性的な仕事はほとんど見られないし、そんなものがあっても、それはこの社会において無価値なものとしか捉えられない。
こうしたディストピアで禁止されているのは、一言で言えば「精神を求める」といったものである。精神とは何かと一言で言えば、肉体と拮抗する高い理想、という事になるだろう。例えば昔の宗教者が自らを鞭打ち、自らの欲望に打ち勝とうとしたのは、精神を目指したといえる。こうした社会では、このような行為は排外される。この社会においては世俗的な欲望だけが全てで、それ以外の行為は排除される。
恐ろしいのは、こうした社会において、本物の知性や、理想、美、自由を目指す行為は表面的には禁止されていないという事である。「1984年」の社会ではそれらは反体制行為として禁じられるが「すばらしい新世界」では禁止されているわけではない。
ただ、そうした事をなそうとする人々は、天国に近いディストピアでは単に「変人扱い」されるだけの話である。権力による排除の仕方が「1984年」よりも遥かにエレガントに、柔和にできている。これはまた現代とよく似た現象と言えるだろう。
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それでは、このような社会における「ゆるふわ」とはなんだろうか。答えは簡単で、今を生きる我々の社会は「1984年」より「すばらしい新世界」の方に近いので、権力は屈強な男の鉄槌として現れるのではなく、美しい女性の柔らかな肢体として現れる。この文章の趣旨で言えば「ゆるふわ」という形になるだろう。
以前に「立派な学者のクソどうでもいいゆるふわエッセイ」というタイトルの文章を私は書いたのだが、大学のしっかりした地位を持つ人間が、一般向けに、「ゆるふわ」な内容空疎な文章を書くというのは、この社会の権力体制をよく現している。
というのは、現代においては、大衆が支配的な世界なのだが、この大衆を権力で押さえつける時代はもう終わっており、実際には大衆そのものが権力そのものとなっている。
だから、大衆が合唱して政治家を批判してみても、私にはもう政治家より大衆の方が権力そのものであるとしか思えない。今の政治家は、与党だろうが野党だろうが、バラマキ政策を既定路線としている。というのは、それは大衆が望む政策だからだ。
これは政治家に限らない。上記の「立派な地位のある学者」が何故、わざわざ一般読者向けの「ゆるふわ」なエッセイを書くかと言うと、彼らは、大衆を欲望で刺激し、その視線をこちらに引っ張ってこなければ、今やこの社会において自分達がいかに脆弱な存在なのか、心のどこかでわかっているからだろう。
権力はゆるふわな形でやってくる、というのはそういう意味で、権力はもはや一部の政治家や組織にあるのではなく、民主主義と資本主義をベースとする大衆の側にある。この大衆から権力を与えられる為には、大衆に対して恫喝するような姿勢では駄目なのだ。
むしろ、男性を誘惑する美しい女性のように、相手の欲望に火をつけ、視線をこちらに向けさせなければならない。
この構造は至るところで見られる。
私は何年か前、友人の誘いで国立競技場に日本代表のサッカーを見に行ったのだが、それを体感して私は(これは現代の"儀式"だな)と感じた。
競技場はぐるりと観客が取り囲んでいる。真ん中にはピッチがあって、選手達がいる。選手はサッカーをしている。観客はみな中央に視線を集めている。
この場合、これがこの社会のモデルであると考えるとすると、この社会の抑圧構造はどうなっているだろうか。
例えば最近だと、高市早苗という女性政治家が総理大臣になった。私の見たニュースでは、高市早苗は現状人気があり、高市早苗を批判するコメントを出したタレントは非難されるような事になっているらしい。
高市早苗の人気は長くは続かないだろうが、それは置いておく。それよりも私が思うのは、人々が中心部に存在するタレント(偶像)を見て、それを神聖化し、そうしてそれに対して応援しなかったり、どこかよそを向いて別の事をしている人を非難する、そのような権力体制が今の権力のあり方なのだろう、という事だ。
この体制では、真ん中にいるタレントが人々を監視するのではない。むしろ人々が真ん中にいるタレントを監視する。みんなでこのタレントを応援するのだが、自分達と一緒に応援していない人を人々は柔らかく排除していく。
中央にいるタレントはこのように人々の視線を集める事で権力を移譲されるのだが、権力を手に入れる為には、人々の欲望や好奇に火をつけなければならない。その為に、タレントは必死に人々の気に入るような言動をし続ける。
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このような社会において権力が「ゆるふわ」な形でやってくるのは当然だろう。
例えば、相手と論争する際には権威主義を持ち出し、自分の地位で威嚇するような人間が、自分の読者にはことすら「ゆるふわ」な姿を見せようとするのも全く矛盾していない。これは、その人間の権力を構成する上で意味のある事なのだ。
人々に柔らかく媚びながら、人々の力を手に入れる事、そうして裏でその力を行使して自分の都合の良い方向に持っていく事、これは現代の聡い人々がやっている行為ではある。
私はそれが全て悪いとは言わない。歴史的にはそのような時期もあるだろう。
ただ、このような世界で、世俗的な、大衆的な欲望を追う以外の理想を掲げて突っ走っていく者はこの社会では「変人」扱いされる。「サムイよね、気持ち悪いよね」というノリで排除される。
こうした社会では精神を求める者には全然居場所はない。彼は人々の視線が存在しないところで、自己の存在を確立しなければならない。しかしその居場所は、この世界のどこにも見当たらないので「すばらしい新世界」に出てくる野蛮人のジョンが、最後には自ら縊れてしまったように、この世界から姿を消すとしても少しもおかしい事ではないだろう。
そしてまたその死はやはり、人々の視線の道具となっているメディアに少しも載る事はないのである。




