2:予感
「やっちまった」
前回の事件から数日後、匿坂冬十郎は新宿のコンビニ前で呆然としていた。
昨日、綿花と買ったばかりのシャツに大きなケチャップのシミが付いている。
ホットドッグを食べようとした時、ケチャップが飛び出してシャツを直撃したのだ。せっかくの清潔なシャツが、早くも汚れてしまった。
「綿花に怒られる」
匿坂は憂鬱な気分でシミを眺めた。買ったばかりなのに、この有様だ。我ながら情けない。
空を見上げると、雲行きが怪しくなってきている。天気予報では午後から雨だと言っていた。
「つくづく、ついてないな」
匿坂は急いでホットドッグを食べ終えると、近くのネットカフェに避難することにした。雨に濡れたら、シャツがさらに悲惨なことになる。
「いらっしゃいませ」
ネットカフェの受付で、匿坂は利用券を購入した。3時間パックで1200円。財布の中身を確認すると、報酬の残りが少し残っている。ギリギリだが、今日は何とかなりそうだ。
ブースに向かう途中、匿坂のスマホが鳴った。
「匿坂だ」
「先輩、お疲れ様です。今どちらに?」
綿花の声だった。
「新宿のネカフェだ。雨が降りそうなので避難した」
「そうですね。私も外出中なんですが、急に雨が降り出しそうで」
「どこにいる?」
「新宿です。先輩と同じあたりかもしれません」
その時、外から雨音が聞こえ始めた。ポツポツという軽い音から、急激に激しくなっていく。
「本降りになったな」
「わあ、急に降ってきました。どこか雨宿りできる場所を…」
電話の向こうで、綿花が困っている様子が伝わってくる。
「今どのあたりだ?」
「えーっと、コンビニの前に…」
「多分俺がいるネカフェの近くだ。こっちに来い」
「でも…」
「遠慮するな。ずぶ濡れになる前に早くな」
匿坂は電話を切ると、受付に戻った。
「すみません、連れが来るんですが、追加で利用券を」
「かしこまりました」
10分後、綿花がネットカフェに駆け込んできた。髪や服が雨で濡れている。
「先輩、ありがとうございます」
「びしょびしょじゃないか、間に合わなかったか」
匿坂は綿花の様子を見た。薄いブラウスが雨で濡れて、肌に張り付いている。
「タオルを借りてくる」
「お気遣いなく。でも少し寒いです」
綿花は小さく震えていた。5月とはいえ、雨で体温が下がったのだろう。
「とりあえずブースに入ろう」
匿坂は自分のブースに綿花を案内した。狭い個室に二人で入ると、急に距離が縮まった感覚になる。
「すみません狭いですよね」
「気にするな」
匿坂は椅子を綿花に譲り、自分は床に座り込んだ。しかし狭いブースでは、綿花の足が匿坂の肩に触れそうになる。
「先輩、そんなところに座らなくても…」
「こっちの方が楽だ」
嘘だった。実際は綿花との距離が近すぎて、落ち着かない。濡れた髪から香るシャンプーの匂いが、妙に気になる。
「あ、先輩のシャツ」
綿花がケチャップのシミに気づいた。
「やっぱり汚してしまったんですね」
「すまん」
「もう、せっかく買ったばかりなのに」
綿花は呆れたような、困ったような表情を見せた。怒っているわけではなさそうだ。
「これ以上は、できるだけ汚さないように気をつける」
「その言いかた保険かけてますね、また汚すつもりですか?」
「そういうつもりじゃ…」
匿坂は言い訳に困った。確かに、また汚してしまう可能性は高い。
その時、綿花が小さくくしゃみをした。
「冷えるか?」
「大丈夫です。でも、もう少し暖まりたいかも」
綿花は自分の腕を抱いて身体を温めようとした。その動作で、濡れたブラウスの線が一層くっきりと見えてしまう。
「何かあったかい物でも買ってくるか?」
「いえ、気にしないでください。雨が止んだらすぐ出ていきます」
外はまだ激しく雨が降っている。しばらくは止みそうにない。
「雨、長引きそうだな」
「雨雲レーダ確認してみますね」
「気にするな。何時間でも休んでいけばいい」
「あ…はい」
狭いブースに二人きり。外は雨。微妙な空気が流れ始めた時、突然綿花のスマホが鳴った。
「私だ、すみません出ますね」
「ああ」
「…はい、綿花です。事件?分かりました、すぐに…」
綿花は電話を切ると、匿坂を見た。
「先輩、新しい事件です」
「どこだ?」
「渋谷です。また異能力者による犯罪の疑いがあるそうです」
匿坂の表情が一変した。さっきまでの微妙な空気は一瞬で消え、探偵としての鋭い眼光が戻る。
「詳細は?」
「商業ビルで不審な現象が発生しています。エレベーターが勝手に動いたり、電気が点いたり消えたり」
「機械の誤作動じゃないのか?」
「それが、エレベーターが特定の人だけを追いかけるように動いたり、電気が規則的なパターンで点滅したりしているそうです。明らかに意図的な操作だと」
匿坂は立ち上がった。
「行くぞ」
「でも雨が…」
「事件に天気は関係ない」
匿坂は濡れたシャツなど構わずに外に出ようとした。
「先輩、傘を借りましょう」
綿花も慌てて立ち上がる。その時、狭いブースから出ようとした二人がぶつかった。
匿坂の胸に綿花の身体が押し付けられる形になり、濡れた髪の匂いが鼻先をかすめる。一瞬、時が止まったような感覚になった。
「す、すみません」
綿花が顔を赤くして離れる。
「悪い」
匿坂も慌てて距離を取った。
「とりあえず行くぞ」
「は、はい」
二人は少しだけ気まずい空気のまま、ネットカフェを後にした。
外では相変わらず雨が降り続いている。匿坂の頭は既に新しい事件のことで一杯だった。
異能力者による新たな犯罪。それがどんな能力で、どんな目的なのか。
探偵・匿坂冬十郎の次なる戦いが始まろうとしていた。




