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8/18

8:消された記憶

「また財布がない」

コレクトレス事件から一週間後、匿坂冬十郎は池袋のネットカフェで途方に暮れていた。昨夜から利用していたブースの料金を支払おうとして、バッグを漁ったが財布が見当たらない。


「また床に落としたか」

匿坂は慌ててブースの床を探した。狭い個室の隅々まで確認したが、財布は見つからない。


「参ったな」 

仕方なく受付に戻ると、若い男性スタッフが呆れた表情を見せた。


「すみません、財布探してきてもいいですか?」

「またですか?昨日も同じこと言ってましたよね」

「昨日も?」

匡坂は首をかしげた。昨日財布を紛失した記憶がない。


「はい。結局ズボンの後ろポケットにあったじゃないですか」

言われて後ろポケットを確認すると、確かに財布があった。


「あった。ありがとう」

「お客さん、大丈夫ですか?最近忘れっぽくないですか?」

スタッフの指摘に、匿坂は違和感を覚えた。確かに最近、記憶が曖昧になることが多い。


「年のせいかな」

苦笑いでごまかしながら会計を済ませた。

外に出ると、5月の爽やかな風が頬を撫でた。匿坂は綿花から受け取ったシャツを着ている。コレクトレス戦で前の服が使い物にならなくなったため、また新調してもらったのだ。


「今度は汚さないように気をつけよう」

そう心に誓った矢先、歩きながら飲んでいたコーヒーをシャツにこぼしてしまった。


「やっちまった」

茶色いシミが胸元に広がる。また綿花に怒られる。

スマホが鳴った。


「匿坂だ」

「先輩、緊急事態です」

綿花の声が震えていた。


「どうした」

「白井警部補が、獄中で死亡しました」

匿坂の足が止まった。


「何だって?」

「今朝、房で倒れているのが発見されて。死因は心臓発作とのことですが」

「心臓発作?あいつはまだ30代前半だろう」

「はいまだ若いです。それに健康診断でも異常はなかったそうで」

匿坂の表情が険しくなった。


「すぐに拘置所に向かう」



ーーー東京拘置所で、匿坂は白井の死亡現場を確認した。独房は何の変哲もない6畳ほどの部屋だった。


「発見時の状況は?」

匿坂は看守に質問した。


「朝の点呼で返事がなくて。扉を開けたら床で倒れていました」

「苦しんだ様子は?」

「それが、とても安らかな表情で。まるで眠っているかのような」

匿坂は首をかしげた。急性心筋梗塞なら、普通は苦悶の表情を浮かべるはずだ。


「検死は?」

「警察病院で行われる予定です。でも、持病もないし不可解ですね」

その時、綿花が資料を持って現れた。


「先輩、白井警部補の最後の面会記録です」

「誰が来た?」

「昨日の夕方、警視庁の上層部の方が1名」

匿坂は眉を寄せた。


「上層部? 名前は?」

「ここには『警察幹部』としか記載されていません。面会時間は約30分」

「30分。何を話したんだろうな」

匿坂は独房をもう一度見回した。白井が最後に何を考えていたのか、知る術はない。


「あと、これも」

綿花が小さな紙片を差し出した。


「白井警部補の枕の下から見つかったそうです」

紙には震える文字で書かれていた。


『俺は操られていた。匿坂への憎しみは本物だったが、増幅されていた。真の敵は警察内部にいる。気をつけろ』

匿坂の顔が青ざめた。


「操られていた?」

「どういう意味でしょうか」

「分からん。だが」

匿坂は紙を見つめた。


「白井の死は他殺かもしれない」



ーーーその夜、匿坂は新宿のネットカフェで白井のメッセージについて考えていた。


『俺は操られていた』

その言葉が頭から離れない。もし本当なら、白井の復讐劇も何者かに仕組まれたことになる。


「でも、誰が? 何のために?」

考えているうちに眠気が襲ってきた。匿坂は椅子に座ったまま、うとうとし始めた。

その時、脳裏に奇妙な映像が浮かんでくる。


『警察署の一室。大きな机に座る男性の影。』


『「匿坂君、君はあまりにも多くを知りすぎた」』


『書類を燃やす炎。何かの証拠が灰になっていく。』


『「これで君の記憶は封印される。健太君の件だけを覚えていればいい」』


『頭に激痛が走る。意識が遠のいていく。』



「…うっ!」

匿坂は飛び起きた。額に冷や汗が浮かんでいる。


「今のは…夢か?」

しかし、妙にリアルだった。まるで実際の記憶のように。


「封印される? 何の記憶を?」

匿坂は混乱していた。健太の事件以外に、何か重要な出来事があったのだろうか。

スマホを取り出して綿花に電話した。


「先輩?こんな時間にどうしたんですか?」

「綿花、俺が警察を辞めた理由について、詳しく調べてくれ」

「警察を辞めた理由ですか?健太君の事件で責任を取って、でしょう?」

「それ以外に何かなかったか? 同時期に起きた他の事件とか」

電話の向こうで、綿花が考え込む気配がした。


「そう言われてみると、先輩の退職前後の記録が曖昧なんです」

「曖昧?」

「はい。退職理由も『一身上の都合』としか記載されていなくて。普通なら詳細な報告書があるはずなのに」

匿坂の胸に不安が広がった。


「明日、その件を詳しく調べてもらえるか」

「分かりました。でも先輩、体調は大丈夫ですか? 声に元気がないですが」

「少し疲れているだけだ」

通話を切った後、匿坂は再び椅子に座り込んだ。

頭の奥に、もやもやとした違和感がある。まるで重要な何かを忘れているような。


「俺に何があったんだ?」



翌日の午後、匿坂は渋谷の喫茶店で綿花と待ち合わせていた。コーヒーを飲みながら、昨夜の奇妙な夢について考えている。


「先輩、お待たせしました」

綿花が息を切らして現れた。手には分厚いファイルを抱えている。


「調べてくれたのか」

「はい。でも、おかしなことがたくさんあります」

綿花は資料を広げた。


「まず、先輩の退職前の3ヶ月間の行動記録が一部欠落しています」

「欠落?」

「はい。健太君の事件は4月15日でしたが、その前の1月から3月までの捜査記録が不自然に少ないんです」

匿坂は眉を寄せた。


「他の刑事の記録は?」

「正常にあります。先輩の分だけが異常に簡素で」

「まるで何かを隠すように」

「それと」

綿花は別の書類を取り出した。


「同時期に、警察内部で『ファイル整理』という名目で大量の書類が処分されています」

「いつだ?」

「先輩が退職した直後です。まるで後始末をするかのように」

匿坂の表情が険しくなった。


「俺が関わった事件の証拠隠滅か」

「可能性は高いです。そして」

綿花は声を潜めた。


「今朝から、私たちが監視されています」

「何?」

「喫茶店に入る前から、黒いスーツの男性が後をつけてきています。今も外で待機中です」

匿坂は窓の外を見た。確かに、道路の向かい側に不自然に立っている男がいる。


「警察関係者か?」

「服装からするとそうですね」

「ということは」

匿坂は立ち上がった。


「俺たちが真相に近づいていることを警戒している」

その時、匿坂の携帯に着信があった。知らない番号だった。


「匿坂だ」

「お久しぶりです」

落ち着いた男性の声だった。どこかで聞いたような懐かしさを感じる。しかし思い出せない。


「どちら様ですか」

「…昔の知り合いです。今夜、お会いできませんか?」

「断る」

「そう言わずに。あなたの『忘れた記憶』についてお話があります」

匿坂の血液が凍った。


「忘れた記憶?」

「倉庫街の第7埠頭、午後10時。一人でいらしてください」

「待て」

通話が切れた。

匿坂と綿花は顔を見合わせた。


「罠ですかね」

「わからない、だが」

匿坂は窓の外の監視者を見た。


「真相を知る手がかりかもしれない」



ーーー午後10時、第7埠頭は霧に包まれていた。街灯の光がぼんやりと見える中、匿坂は指定された倉庫に向かった。


「こんばんは、匿坂さん」

倉庫の中から、50代くらいの男性が現れた。警察幹部らしい威厳のある雰囲気だが、匿坂には見覚えがない。


「あなたは?」

「警視正の内海です。3年前、あなたの直属の上司でした」

内海。その名前に聞き覚えはない。


「俺の上司?記憶にないな」

「当然です。あなたの記憶は封印されているのですから」

内海は苦悩に満ちた表情を見せた。


「記憶を封印?誰が?」

「政府の人間です。私も…私も命令に従うしかありませんでした」

内海の声が震えている。


「どういうことだ」

「あなたは3年前、警察の『ある秘密』を知ってしまった」

「どんな秘密だ」

「国家プロジェクト…異能力者を使った人体実験です」

匿坂の目が見開かれた。


「人体実験?」

「政府と警察の合同計画。異能力の軍事利用を目的とした研究でした」

内海は重い口調で説明を続ける。


「健太君も、その実験体の一人だったんです」

「何だと!?」

「彼の能力暴走は、私たちが投与した薬物の副作用でした。制御装置の実験中に事故が起きたんです」

匿坂の拳が震えた。


「つまり、健太は…」

「私が殺したも同然です。そして、あなたはその真実に気づいてしまった」

内海は深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」

「なぜ今になって」

「白井君が死んだからです」

内海の目に涙が浮かんだ。


「彼は上層部の手によって、あなたへの憎しみを増幅させられていました。政府の記憶操作能力者によって」

「記憶操作能力者?」

日妻蜻蛉ひづま かげろうという男です。政府の特殊部隊に所属している」

「日妻蜻蛉…!?」

その名を聞いた直後、匿坂の封印された記憶が一気に蘇った。


『警察署の地下実験室。檻に入れられた異能力者たち。』


『「これは国家機密だ。口外は厳禁」』


『健太の能力に電極を取り付ける研究者たち。』


『「実験体No.15、能力増幅テスト開始」』


『薬物を注射される健太。苦しむ彼の表情。』


『「匿坂君、君は何も見ていない」』



「思い出しました…」

匿坂は愕然とした。


「あの時、俺は実験の証拠書類を盗み出そうとしました。でも日妻の能力で記憶を消去されたんです」

内海が続ける。


「私も反対しました。でも、政府の圧力には逆らえなかった」

「だとしても、許される理由にはならない」

匿坂の全身から黒い溶解液が滲み出した。


「その通りです」

内海は逃げようともしなかった。


「私は臆病者でした。だから今、罪滅ぼしをしたいんです」

内海は懐から分厚い封筒を取り出した。


「国家プロジェクトの証拠資料です。私が密かに保管していたものです」

「なぜ渡す」

「白井君のような悲劇を繰り返したくない。それに」

内海は悲しそうに微笑んだ。


「もう健太君のような純粋な子供に、酷いことをしたくない」

その時、倉庫の外から足音が聞こえた。


「内海警視正、お疲れ様でした」

現れたのは内海より少し若めの痩せた男性だった。政府関係者らしいピッタリとした黒いスーツを着ている。


「日妻、なぜここに」

内海の顔が青ざめた。


「匿坂さんの居場所を調べてましてね。あなたに盗聴を仕掛けてたんですよ。おかげでここまで来れた」

日妻蜻蛉は冷たく笑った。


「貴様…」

匿坂が溶解液を放とうとした瞬間、日妻の瞳が紫色に光った。


「完全消去」

強烈な精神攻撃が匿坂を襲う。意識が遠のきそうになった時、内海が日妻に飛びかかった。


「逃げてください!匿坂さん!」

「内海さん!危ない!」

銃声が響いた。内海が胸を押さえて倒れる。


「邪魔をしないでください。あなたの役目は終わりました」

日妻が拳銃を構えている。


「次はあなたの番です、匿坂さん」

日妻の記憶操作光が再び匿坂を襲った。だが、先ほどより威力が弱い。内海の妨害で集中が乱れたのだろう。


「綿花!」

匿坂の叫び声と共に、倉庫の外で爆発音が響いた。


「何をした?匿坂」

「陽動にしては随分と派手な音がしたな、綿花」

「先輩!無事ですか」

綿花が息を切らしながら、倉庫に駆け込んできた。


「外で待機していた政府の車両に手榴弾を投げ込みました」

「手榴弾か。って、どこで手に入れたんだそんなの」

「内海警視正から事前に受け取っていたんです。『いざという時のために』と」

綿花は懐から一つ手榴弾を取り出して見せた。


「もう一発ありますから、逃走に使えます」

「やるじゃないか、俺も負けてられないな」

匿坂はふいをついて、溶解液を日妻に向けて放った。


「くっ!」

日妻は後退して攻撃を避ける。


「逃がしませんよ、あなただけは!」

日妻が両手を上げると、強力な記憶操作光が二人を包み込んだ。


「うっ…」

匿坂と綿花の意識が朦朧とする。だが、その時、内海が最後の力を振り絞って立ち上がった。


「これを…持って行ってください…!」

内海は証拠の封筒を匿坂に投げ渡した。


「真実を…明かして…」

内海はそのまま倒れ込んだ。


「無駄ですよ」

日妻が記憶操作を続けようとしたが、匿坂は封筒を握りしめたまま意識を保っていた。


「まだ…終わらない…!」

匿坂の強い意志が、記憶操作に抵抗していた。


「面倒な男ですね」

日妻は舌打ちすると、撤退の準備を始めた。


「今日は引き上げます。さっきの爆発音で警備員もくることでしょう。無駄な接触は避けたいんでね。でも、次は完全に消去しますよ」

日妻は倉庫から姿を消した。

匿坂は内海の元に駆け寄った。


「内海さん」

「匿坂さん…」

内海は弱々しく微笑んだ。


「厄介ごとを押しつけてしまい、すみません…」

「あなたの覚悟は、俺が受け継ぎます。必ず真実を暴いてみせる」

「ありがとう…ございます…」

内海は安らかな表情で息を引き取った。



翌朝、匿坂は新宿のネットカフェで内海から受け取った封筒を開いていた。中には国家プロジェクトの詳細な資料が入っている。

異能力者を使った人体実験の記録、薬物投与の データ、そして被害者のリスト。健太の名前も確かにそこにあった。


「綿花、これを見てくれ」

綿花は資料に目を通しながら、顔を青ざめさせた。


「こんなに多くの被害者が…」

「子供も含まれている」

匿坂の拳が震えていた。


「日妻蜻蛉という男が、この計画の中心人物のようだ」

「記憶操作能力者…恐ろしい能力ですね」

「ああ。奴がいる限り、真実を公表しても隠蔽される可能性が高い」

匿坂は立ち上がった。


「まず奴を止めなければならない」

その時、匿坂の携帯にメッセージが届いた。


『今夜9時 座標:35.7219, 139.7966 一人で来てください -日妻蜻蛉』

「座標?」

綿花がスマホで座標を調べる。


「これは…青山霊園ですね」

「墓地か」

匿坂は眉を寄せた。


「なぜそんな場所を?」

「死者と対話させてやる、ということでしょうか」

綿花は不安そうに呟いた。


「それとも、先輩を葬る場所として選んだのかも」

匿坂は資料をバッグにしまった。


「どちらにしろ、罠だな」

「先輩、戦いになりますよね?」

「可能性は高い」

匿坂は考え込んだ。


「だが、日妻蜻蛉を殺したところで根本的な解決にはならない。奴は政府の一員に過ぎない」

「では、どうします?」

「まずは話し合いを試みる。国家プロジェクトの中止と、被害者への補償を要求したい」

綿花は首を振った。


「相手が素直に応じるとは思えません」

「俺もそう思う。だが、やってみる価値はある」

匿坂は時計を確認した。



青山霊園は夜の静寂に包まれていた。街灯の明かりが墓石を照らし、不気味な影を作り出している。指定された座標は、霊園の奥まった場所だった。


「お待たせしました」

匿坂が現れると、日妻蜻蛉が墓石の前に立っていた。昼間とは違い、黒いジャージを着ている。


「時間通りですね。律儀な方だ」

「単刀直入に聞く」

匿坂は距離を保ったまま立ち止まった。


「国家プロジェクトを中止する気はあるか」

「そうですね…」

日妻は意外にも真剣に考え込んだ。


「不可能ではありません」

「本当か?」

匿坂は驚いた。意外と話のできる男なのかもしれない。


「ただし、条件があります」

日妻が振り返った。


「対価を提示してください。プロジェクト中止による国防力低下を補える代案を」

「代案…」

匿坂は考えた。


「異能力者の自発的な協力体制を構築するのはどうだ?強制ではなく、あくまでも志願制で」

「なるほど。もしそれが上手くいった暁にはなにを望みますか」

「被害者への補償と謝罪。そして責任者の処罰を希望する」

「素晴らしい提案ですね」

日妻は笑いながら頷いた。


「検討に値します。ただ」

日妻の表情が変わった。


「一つ問題があります」

「何だ?」

「あなたの存在が、ですよ!」

日妻が突然飛び掛かってきた。


「ちっ!」

匿坂は咄嗟に後ろに跳んで避けた。


「なんのつもりだ?」

「交渉などもはや無意味です。どの道あなたは口封じしなければならない」

「そうか」

匿坂は全身から黒い溶解液を分泌した。


「後悔するなよ」

溶解液が日妻に向かって飛ぶ。しかし日妻は軽やかにそれを避けた。


「厄介な能力ですね」

日妻が墓石の陰に隠れながら言った。


「正面から戦うには邪魔すぎる」

日妻の瞳が紫色に光り始めた。


「能力封印」

紫色の光が匿坂を包み込んだ。


「しまった」

匿坂は頭を押さえてよろめいた。全身から黒い溶解液を出そうとしたが、何も出てこない。


「あなたの異能力を封印しました」

日妻が満足そうに微笑んだ。


「これで純粋な格闘であなたを痛めつけられる」

「卑怯な真似しやがって」

「戦いに卑怯もクソもありません」

日妻がゆっくりと近づいてくる。


「それでは始めましょうか」

日妻が突然ダッシュした。その速度は常人を遥かに超えている。


「うおっ!」

匿坂は間一髪で横に跳んで避けた。日妻の拳が匿坂がいた場所の墓石を砕く。


「只者じゃないな」

「政府特殊部隊で10年鍛えてきました」

日妻が連続して拳を繰り出してくる。匿坂は後退しながら何とか避けているが、徐々に追い詰められていく。


「そこです!」

「うっ!」

日妻の拳が匿坂の腹部を捉えた。鈍い痛みが走る。


「元刑事程度では、私の相手にはなりませんよ」

日妻が追撃のキックを放つ。匿坂は両腕でガードしたが、衝撃で数メートル吹き飛ばされた。


「ぐほっ…」

匿坂は墓石に背中を打ち付けて倒れ込んだ。シャツが破れ、新たな血のシミが広がっている。

その時、匿坂は足元に絡まっている蔦に気づいた。古い墓地に自生している植物だ。


(使えるか…)

匿坂は倒れたふりをしながら、素早く蔦を近くの大きな墓石に結び付けた。もう一方の端を固く握る。


「これで終わりです」

日妻が最後の一撃を加えようと近づいてきた。


「まだだ」

匿坂が蔦を勢いよく引いた。墓石がバランスを崩し、日妻の頭上に倒れかかってくる。


「なっ!」

日妻は慌てて横に跳んで避けたが、体勢が崩れた。

その隙に匿坂は立ち上がり、反撃に転じた。研ぎ澄まされた集中状態で日妻に迫る。

日妻は慌てて右ストレートを放ってくるが、匿坂は僅かに首をひねって避けると、そのまま体重を乗せた左の裏拳を日妻の顎に叩き込んだ。


「ぐっ!」

裏拳からの流れで、匿坂は右肘を日妻の鳩尾に突き入れる。続いて左膝蹴りを腹部に。

日妻がよろめいた隙に、右アッパーカットを顎に。

さらに左フックを側頭部に。

最後に右の回し蹴りを日妻の脇腹に叩き込んだ。

六連撃が一瞬の間に決まった。


「ガハッ!」

日妻が大きく後退した。


「まさか…こんな技を…」

「刑事時代に身につけた」

匿坂は構えを取り直した。


「犯人逮捕のための実践格闘術だ」

日妻は血を拭いながら立ち上がった。


「過小評価していました」

「まだやるか?」

「当然です」

日妻の目に殺気が宿った。


「今度は本気で行きます」

日妻が体勢を立て直すと、今度は冷静な攻撃を仕掛けてきた。先ほどの連撃でダメージを受けたようだが、まだまだ戦える状態だった。


「しぶといな」

匿坂も疲労が蓄積している。徐々に日妻の攻撃に押されていく。


「はあ…はあ…」

「もう限界でしょう」

日妻が最後の一撃を放とうとした時、匿坂の脳裏に内海の資料が浮かんだ。


(健太…あの子たちの苦しみを…無駄にはしない)

匿坂は心の中で強く念じた。


(真実の正義)


その瞬間、封印されていたはずの能力が体の奥底で蠢くのを感じた。

匿坂は片腕を払うと黒い溶解液を勢いよくあたり一面に撒き散らした。


「なっ!?」

完全に不意を突かれた日妻に溶解液が直撃する。


「ぎゃああああ!」

全身に溶解液を浴びた日妻は、激痛で地面に倒れ込んだ。


「なぜ…なぜ能力が使える!?封じたはずだ!」

日妻は困惑していた。

その直後、匿坂の脳裏に数時間前の出来事が蘇る。



ーーー数時間前


「問題は、奴の記憶操作能力だ」

「そうですね。一度食らいでもしたら…」

「なんとかならないものか」

綿花の目が光った。


「先輩、記憶操作の対策をしてから行きましょう」

「対策?」

「私の恩師を呼びます。催眠術が得意な方なんです」

綿花は携帯を取り出した。


涙山るいざんコバヤシ先生。私が警察学校時代に心理学を教わった方です」


夕方、匿坂と綿花は都内のマンションを訪れていた。80歳を超えたであろう、小柄な老婆が穏やかな笑顔で二人を迎えた。


「綿花ちゃん、久しぶりだわね」

「コバヤシ先生、お忙しい中ありがとうございます」

涙山コバヤシは綿花の頭を優しく撫でた。


「それで、記憶操作への対策が必要ということね」

「はい。相手は政府の能力者で、非常に強力な洗脳力を有してます」

コバヤシは匿坂を見上げた。


「匿坂さん、綿花ちゃんからよく話を聞いてるわ」

「よろしくお願いします」

「さあ、座って。まずは催眠から始めましょう」

コバヤシは匿坂を椅子に座らせると、小さなペンダントを取り出した。


「これを見つめて。ゆっくりと呼吸して」

ペンダントが規則的に揺れる。匿坂の意識が徐々に薄れていく。


「なにかしらの記憶操作を受けたとき、あなたはかかったフリをします」

コバヤシの声が遠くから聞こえる。


「しかし、実際は記憶を保持している。最後の決定的瞬間まで、それを隠し続けなさい」

「はい…」

匿坂が朦朧とした声で答える。


「トリガーワードは『真実の正義』。この言葉を心の中で唱えたとき、暗示が発動します」

「真実の正義…」

「そう。証拠を握り、真実を暴き、正義を貫く。あなたの使命そのものが、あなたを守ってくれます」

催眠が終わると、コバヤシは小さな薬瓶を取り出した。 


「これも飲んで。記憶中枢を一時的に保護する薬よ」

「副作用は?」

「頭痛と軽い吐き気。でも2時間程度で治まるわ」

「その程度なら気にならない」

匿坂は薬を飲み干した。


「これで準備完了ね」

コバヤシは満足そうに頷いた。


「これだけは覚えといて。催眠暗示も薬も万能じゃない、保険だと思ってたほうがいいわ。どれだけ対策しようが覚悟が甘ければ相手の波に飲まれてしまう。大事なのは自分の意志力よ」

「…分かりました」



ーーー時は戻り現在。


「催眠暗示で記憶操作を無効化した」

匿坂は日妻を見下ろした。


「それに薬物による脳の保護もしてある」

「そんなもので、俺の異能力が防げるか…!」

「お前の記憶操作は完璧じゃない。強い意志と適切な対策があれば防げる」

匿坂は日妻の前にしゃがみ込んだ。


「これで終わりだ」

匿坂は溶解液に濡れた手を日妻の喉仏に近づける。彼は力なく項垂れた。


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