1-5:ありがとう
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匿坂は少年に近づいていた。周囲の警官たちは距離を置いているが、このままでは被害が拡大する一方だった。
「君、名前は?」
「白井...白井健太です」
「健太君、落ち着いて。深呼吸をしよう」
匿坂はゆっくりと健太に近づいた。健太の異能力は未だ暴走状態で、制御が利かないでいた。周囲の瓦礫を触れずに分解している。
「近づいちゃダメです。これ以上近づいたら、あなたも...」
(パンッ)
その時、背後から銃声が響いた。
別の警官が健太を狙撃したのだ。
「やめろ!」
匿坂が叫んだが、遅かった。銃弾は健太の肩を掠めた。
驚愕と痛みで、健太の能力が完全に暴走した。
周囲の建物が一瞬で崩壊し始める。
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「デタラメを言うな!」
白井が匿坂に迫る。
「お前が弟を殺したんだ!」
「…その通りだ」
匿坂は静かに答えた。
白井が驚いたように匿坂を見る。
「何…?」
「俺は健太を救えなかった。それは事実だ」
匿坂は白井を真っ直ぐ見つめた。
「お前が俺を恨むのは当然だ」
白井の拳が震える。
「なら…」
「だが」
匿坂の目が鋭くなった。
「お前のやり方は間違っている。高菜木さんや、無関係な子供を巻き込むな!」
白井が一歩後ずさる。
「健太は、そんなことを望んでいない」
「お前に健太の何が分かる!?」
白井が叫ぶ。
「俺は健太の最期を看取った」
匿坂は静かに言った。
「あいつが何を思い、死んでいったか。それを知っている」
ーーー匿坂は、健太の最後を思い出していた。
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崩壊した建物の中で、匿坂は健太を見つけた。
瓦礫の下敷きになり、意識を失いかけていた。
「健太!」
匿坂は、行手を阻む瓦礫を溶解液で溶かしながら、健太の元に駆けつけた。
「すみません…すみません…」
健太は涙を流しながら謝り続けていた。
「止められなくて…みんなを傷つけて…」
「安心しろ、もう大丈夫だ。…大丈夫」
匿坂は健太を抱き起こした。
「なっ、そんな…」
健太の傷は深く、内臓にまで達していた。
医療の知識がない匿坂が諦めるほど、酷い傷だった。
「お兄さん…」
「な、何だ?」
「僕、悪い子でしょうか?」
匿坂はすぐに答えた。
「そんなことはない!お前は悪くない」
健太は微笑んだ。
そして、唇が何かを言おうと動いたーーー。
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「嘘だ…」
白井の声が震えていた。
「健太は…最期まで、自分を責めていたのか…?」
白井の目から涙が溢れる。
力が抜けて、膝をつきかけた…その時。
「健太ぁぁぁぁ!」
白井の叫びが倉庫街に響いた。
感情が爆発し、白井は両手を地面に叩きつけた。
地面が波紋状に分解されていく。
倉庫の壁が崩れ、金属が軋む音が響く。
「お前がぁ!お前がいなければぁ!」
白井が匿坂に向かって手を振ると、無数の破片が飛んでくる。
匿坂は横に跳んで回避した。
「おい!落ち着け!」
「落ち着けだと?ふざけるな!殺す!」
白井の目は完全に理性を失っていた。
「健太はもういないんだ!もう二度と会えないんだぁ!」
白井が周囲の倉庫を次々と分解していく。
制御を失った破壊。
(まずい、このままでは…)
匿坂は周囲を見渡した。
「ん?」
古い鉄骨が、山積みになっているのが目に入った。
長年放置されて錆びた鉄骨は、白井の暴走により今にも崩れそうになっていた。
(あれなら、使える…!)
白井が再び攻撃してくる。
微粒子の嵐が匿坂を襲う。
匿坂は背後の倉庫の壁に、駆け寄った。
「逃げるのか!」
白井が追ってくる。
だが匿坂は逃げなかった。
靴の足裏から濃度の薄い溶解液を分泌させ、壁に密着させる。
溶解液が壁の表面を薄く溶かし、粘着性を生み出す。
匿坂は壁を駆け上がり始めた。
「なに!?」
白井が驚愕の声を上げる。
匿坂は垂直の壁を、まるで地面を走るように駆け上がっていく。
足裏の溶解液が壁を薄く溶かし、その粘着力で体を支えている。
数秒で倉庫の屋上に到達した。
「おい、降りてこい!そこから何をする気だ!」
白井が倉庫の壁に手を触れ、壁を分解し始める。
だが匿坂は既に動いていた。
屋上から跳躍する。
空中で身を回転させながら、全身から黒い溶解液を放出した。
溶解液が雨のように降り注ぐ。
「その程度で!効くかぁぁぁ!」
白井は空気ごと溶解液を分解しようと、手をかざした。
その直後——。
溶解液の雨が、雑に積まれた古い鉄骨の山にも降り注いだ。
錆びて脆くなっていた鉄骨が、溶解液で支えを失い、崩れ始める。
ガラガラガラ!
数トンの鉄骨が雪崩のように白井に向かって崩れ落ちてくる。
「こんな時に、邪魔だぁぁぁ!」
白井は咄嗟に鉄骨を分解しようと両手を上げた。
その瞬間、匿坂が着地した。
受け身を取りながら、そのまま白井に向かって突進する。
白井は鉄骨の分解に気を取られ、匿坂の接近に気づくのが遅れた。
「いつの間に…」
匿坂の拳に、溶解液が集中する。
ただし濃度は調整されている。
貫通して内臓を溶かすほどではない。
白井を殺さない、ぎりぎりの濃度だ。
「終わりだ」
匿坂の拳が白井の腹部に叩き込まれた。
接触と同時に、溶解液が爆発的に飛び散る。
(ドンッ!)
衝撃波のような勢いで、白井の体が後方に吹き飛ばされた。
「ぐあああああ!」
白井は数メートル吹き飛び、崩れてくる鉄骨の雪崩に呑み込まれた。
(ガシャァァァン!)
鉄骨が白井の上に降り注ぐ。
匿坂は全身に溶解液を纏い、自分に向かってくる鉄骨を溶かして防いだ。
鉄骨が溶解液に触れ、次々と溶けていく。
やがて鉄骨の雪崩が止まった。
倉庫街に、静寂が戻る。
匿坂は溶解液を引かせ、鉄骨の山を見つめた。
「白井…」
鉄骨の山が動いた。
ガラガラと音を立てて、白井がよろめきながら這い出してくる。
腹部の服が溶け、皮膚が赤く爛れている。
だが致命傷ではない。
白井は膝をつき、荒い息をしていた。
「くそ…ぉぉ」
白井が立ち上がろうとするが、体が動かない。
匿坂がゆっくりと近づく。
白井は力なく崩れ落ちた。
「俺は…俺は何をしていたんだ」
冷静になった白井の目から、涙が溢れた。
「健太…ごめん…」
匿坂は白井の肩に手を置いた。
「高菜木さくらちゃんの居場所を、教えてくれ」
白井は震える声で答えた。
「すぐそこだ、あの赤い倉庫に」
「一人でいるのか」
「監視カメラで見張っているだけ…直接的な危害は加えていない」
匿坂は安堵した。
「健太は最期に、何て言ったと思う?」
白井が顔を上げる。
「ありがとう、だ」
匿坂は静かに言った。
「俺なんかに感謝して死んでいった。そんな健太に恥じない生き方をしてほしい」
白井は深く頭を下げた。
「すみませんでした…」
声が震え、涙が地面に落ちる。
「俺は、俺は馬鹿だ…!」
匿坂は白井の肩に手を置いた。
「謝るのは俺の方だ」
匿坂は立ち上がった。
「健太を救えなくて、すまなかった…」
ーーー赤い倉庫は、街灯に照らされて不気味に赤く染まっていた。
匿坂は慎重に倉庫に近づく。
白井の言葉が本当なら、さくらはこの中にいるはずだ。
倉庫の入り口に小型カメラが設置されている。
匿坂は扉に手をかけた。
錠は掛かっていない。
扉を開けると、薄暗い倉庫の奥から小さな声が聞こえた。
「誰ですか?」
「迎えに来た。君のお父さんが心配している」
匿坂が奥に進むと、段ボール箱の陰に小さな女の子が座っていた。
高菜木さくらだった。
怯えた目をしているが、怪我はないようだ。
「お父さんに、会える…?」
さくらの目に涙が浮かんだ。
「ああ、もうすぐ会えるよ」
匿坂は優しく微笑んだ。
「怖かったかい?もう大丈夫だ」
「うん…」
さくらは小さく頷いた。
「でも、お兄さんは怖くなかったです」
「お兄さん?」
「時々食べ物を持ってきてくれるお兄さん。とても悲しそうな顔をしていました」
匿坂は胸が痛くなった。
白井なりに、さくらを気遣っていたのだろうか。
「もう大丈夫だ。帰ろう」
匿坂はさくらの手を取った。
ーーー警視庁で、高菜木とさくらの再会は涙にくれた。
「さくら!」
「お父さん!」
父娘は固く抱き合い、しばらく離れようとしなかった。
その光景を見ながら、匿坂は複雑な心境だった。
白井の復讐は間違っていた。
だが、彼の悲しみは本物だった。
綿花が近づいてくる。
「先輩、白井警部補はどうなるんでしょうか?」
「処分は免れないだろう。だが」
匿坂は窓の外を見た。
「きっと健太も許してくれる」
夜空に、一番星が輝いていた。




