10:有益
「うっ、ここは」
匿坂が意識を取り戻したのは、清潔で快適な個室だった。
ホテルのような内装で、ベッド、デスク、テレビ、専用のバスルームまで完備されている。
「どこだ…」
匿坂は頭を押さえながら立ち上がった。注射の影響で、まだ頭がぼんやりしている。
ドアに近づいてノブを回すと、簡単に開いた。
施錠されていない。
廊下に出ると、筋肉が壁にもたれて座って待っていた。
「目が覚めたか」
筋肉が立ち上がった。
「どこだ、ここは?」
匿坂が尋ねた。
「国家プロジェクトの中枢施設」
筋肉が説明した。
「君を仲間として迎え入れるための場所だ」
匿坂は冷静に答えた。
「そうか。それで、これからどうする?」
「プロジェクトの責任者に会ってもらう」
筋肉が歩き始めた。
「俺が上に頼み込んで、面談の機会を設けた」
2人は廊下を歩いていく。
両側には同じような快適そうな個室が、ずらりと並んでいる。
「綿花と大洲はどこにいる?」
匿坂が尋ねた。
「別の部屋で休んでもらっている」
筋肉が答えた。
「君と同じく、快適な環境を用意した」
廊下の奥にエレベーターがあった。
筋肉がカードキーをかざすと扉が開いた。
「最上階に向かう」
エレベーターが上昇していく。
「今いた場所は地下か?」
「ああ。責任者の執務室は最上階にある」
筋肉が説明した。
「眺めの良い場所を好む人でな」
エレベーターが止まり、最上階に到着した。
扉が開くと、ガラス張りの豪華な廊下が現れた。
外の景色が一望できる。
「随分と立派な施設だな」
「国家プロジェクトの成果だ。予算も潤沢に確保されている」
筋肉が大きな扉の前で立ち止まった。
「入るぞ」
扉を開けると、そこは広々とした執務室だった。
奥に豪華な椅子が置かれており、そこに一人の男が座っていた。
ワイングラスを片手に、窓の外を眺めている。
日妻蜻蛉だった。
「おや、匿坂さん」
日妻が振り返った。
「長旅、お疲れさまでした」
「あ、ああ…」
匿坂は表面上冷静を装ったが、内心驚いていた。
大洲の弾丸によって死んだと思っていたからだ。
しかも前回会った時は、日妻の顔や腕には溶解液による火傷の包帯が巻かれていたはず。
今、その痕跡が全く見当たらない。
「日妻…久しぶりだな」
「ええ、本当に」
日妻がワインを一口飲んだ。
「前回お会いした時は、物騒でしたね。あなたの溶解液、なかなか強烈でしたよ」
匿坂が眉をひそめた。
「あの時の傷は…」
「ああ、あれなら」
日妻が自分の顔を指差した。
「すっかり治りました。現代医学の進歩には感謝しています」
日妻が続けた。
「それに大洲さんとの戦闘。あれほど生死を彷徨ったのは初めてでしたが、おかげで得たものもありました」
筋肉が匿坂の横に立った。
「日妻様」
「ああ、筋肉。ご苦労さまでした」
日妻が筋肉を見た。
「君のスカウト作戦、大成功でしたね」
日妻が立ち上がると、スプーンでワイングラスを軽く叩いた。
(チン、チン、チン)
澄んだ音が執務室に響く。
すぐに黒いスーツの部下が現れた。
「日妻様、お待たせしました」
「案内の準備をしておいてください」
日妻が指示した。
部下が一礼して退室した。
「さて、筋肉から話は聞いています」
匿坂は慎重に言葉を選んだ。
「なんの話だ?」
「彼が私を説得したんですよ」
日妻が無表情で言った。
「あなたとは敵対するよりも、共にプロジェクトを進めた方が合理的だと」
筋肉が補足した。
「日妻様は最初、お前の処分を考えていた。だが、俺が提言した」
「…確かに筋肉の意見には一理ありました」
日妻が機械的に答えた。
「ただし、私としてはまだ確信が持てませんでした。だから一度、この目で確かめることにしたのです」
日妻が匿坂をじっと観察した。
「洗脳の状態も確認したかったのですが…」
日妻が淡々と呟いた。
「すでにあなたにはその様子がありませんね。失敗でしょうか」
匿坂は表情を変えずに答えた。
「どういう意味だ?」
「最新の脳内埋込装置と、私の記憶操作能力を組み合わせた実験です」
日妻が事務的に説明した。
「完全な洗脳人間を生み出すつもりでした。しかし、どうやら失敗に終わったようですね」
匿坂は内心で安堵した。正弘に機械を除去してもらったことは、絶対に知られてはならない。
「それと」
日妻が筋肉を見た。
「彼が綿花さんと大洲さんも、連れてきたことで分かりました」
「何がだ?」
「結局、あなたは誰も殺さなかったのですね」
日妻が冷淡に言った。
「洗脳が成功していれば、大切な仲間を自分の手で殺していたはずです。それが私の実験の最終段階でした」
日妻が少し苛立ちを見せた。
「非常に残念な結果です。あれほど完璧な実験環境を用意したのに」
筋肉が口を挟んだ。
「だが、洗脳に失敗したからこそ、俺の提案が活きました」
「どういう意味ですか?」
「洗脳に頼らず、本人の意志で協力してもらう方が確実です。強制された忠誠より、納得した協力の方が価値が高いというのが私の考えです」
日妻が眉をひそめた。
「私としては実験の継続を望んでいたのですが」
「実験はまた、別の機会にやりましょう」
筋肉が説得した。
「今は匿坂という人材を活用することを、優先すべきでは」
日妻が沈黙した。しばらく考え込んだ後、渋々といった様子で答えた。
「筋肉に押し切られた形ではありますが…いいでしょう」
日妻が再びワイングラスを手に取った。
「ただし、まだ完全に信用したわけではありません。あなたが本当に協力的なのか、この目で確かめさせてもらいます」
匿坂は軽く頷く。
「俺はなにをすればいい」
「まずは施設を案内しましょう」
筋肉が匿坂を促した。
「行こう。案内の準備ができてるはずだ」
匿坂は表面上協力的な態度を保った。
内部から破壊するためには、まず信頼を得る必要があると考えたからだ。
表面上は協力的な態度を保ちながら、破壊工作の機会を探る。
危険な潜入作戦が、本格的に始まろうとしていた。




