1-6:後日談
「先輩、じっとしていてください」
警視庁の医務室で、綿花は匿坂の傷の手当てをしていた。匿坂の肩に刺さった鉄針は既に除去されており、太ももの傷も消毒が済んでいる。
「大したことない」
匿坂は痛みを我慢しながら言ったが、顔は青白い。石灰の粉末で目も真っ赤に充血していた。
「大したことないって、血がこんなに出てるじゃないですか」
綿花は呆れたような声で包帯を巻いていく。
「それに、このお服…もう着られませんね」
匿坂のシャツは鉄針で裂け、血と石灰の粉末で汚れていた。元々シミだらけだったシャツが、さらに悲惨な状態になっている。
「他に着るやつもないし、これでいい」
「だめですよ」
綿花は包帯を巻き終えると、匿坂を見つめた。
「先輩、いい加減にちゃんとした生活をしてください。服も持たず、家もなく、そんなんじゃ…」
「心配かけてすまん」
匿坂は素直に謝った。今回は綿花に救われたと言っても過言ではない。彼女が来なければどうなっていたか分からない戦いだった。
「とりあえず、お疲れ様でした」
綿花は小さく微笑んだ。
「高菜木さん親子も無事に再会できて、本当に良かったです」
その時、医務室のドアが開いた。高菜木がさくらの手を引いて入ってくる。
「匿坂さん」
高菜木は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「礼を言うのはこちらの方だ」
匿坂は立ち上がろうとして、傷の痛みでよろめいた。
「あ、座っていてください」
さくらが心配そうに見上げる。
「痛いの?」
「大丈夫だよ」
匿坂は優しく微笑んだ。
「さくらちゃんこそ、怖い思いをさせてしまって」
「でも、お兄さんが優しかったから大丈夫でした」
さくらの言葉に、高菜木の表情が複雑になった。白井のことを指しているのだろう。
「そうか。ならいいんだ」
匿坂は静かに答えた。
高菜木親子が帰った後、綿花は匿坂の前に立った。
「先輩、お買い物に行きましょう」
「買い物?」
「お洋服です。さすがにそのお服では外を歩けません」
確かに、血まみれで穴だらけのシャツは見た目が悪すぎる。
「でも金が…」
「報酬をもらったじゃないですか。ちゃんとした服を買ってください」
綿花は有無を言わせぬ口調だった。
「分かった」
匿坂は観念した。
深夜営業の衣料品店で、綿花は次々と服を選んでいた。
「これはどうですか?」
綿花が差し出したのは、紺色の清潔なシャツだった。
「普通すぎないか」
「普通で十分です。先輩の場合、普通であることが奇跡なんですから」
手厳しい評価だった。
「あ、これも」
綿花は靴下も選び始めた。左右同じ色の、まともな靴下だ。
「それと、せめて下着も新しい物を」
「下着まで…」
匿坂は恥ずかしそうに呟いた。
「当然です。いつ洗濯したか分からないような下着は、衛生的によくありません」
綿花は容赦なかった。
結局、シャツ3枚、ズボン2本、下着類、靴下を購入することになった。匿坂の財布には白井から受け取った報酬が入っていたが、これでかなり減ってしまう。
「あと、これも」
綿花が最後に選んだのは、小さなポーチだった。
「何だそれは」
「救急セットです。先輩はよく怪我をするんですから、最低限の応急処置用品は持っていてください」
ポーチの中には絆創膏、消毒液、包帯などが入っている。
「至れり尽くせりだな」
「これでも最低限です」
会計を済ませて店を出ると、匿坂は新しいシャツに着替えた。血まみれの古いシャツとは大違いだ。
「どうですか?」
「悪くない」
匿坂は自分の姿を店のガラスに映して確認した。確かに見た目がかなり改善されている。
「これなら人前に出ても恥ずかしくありませんね」
綿花は満足そうだった。
「ありがとう、綿花」
「どういたしまして。でも」
綿花は真剣な表情になった。
「本当に、いつまでこんな生活を続けるんですか?」
匿坂は答えに窮した。確かに、拠点を持たない生活には限界がある。
「まあ、そのうち考えるさ」
「そのうちって…」
綿花はため息をついた。
「せめて、もう少しちゃんとした生活を心がけてください」
「努力する」
匿坂は曖昧に答えた。
二人は夜の街を歩いていく。匿坂の足取りは、新しい服のおかげか、少し軽やかに見えた。
「あ」
歩いているうちに、匿坂のポケットから小銭がこぼれ落ちた。
「またですか…」
綿花は呆れながら小銭を拾い集める。
「すまん」
「財布にちゃんと入れてください」
結局、根本的な問題は何も解決していなかった。
それでも綿花は微笑んでいた。こんな匿坂だからこそ、放っておけないのだ。