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8-12:無力


図書館での出来事から1週間ほど経った。太田くんの件が解決してから、レジェンはさらに明るくなったように見える。匿坂もその変化を嬉しく思っていた。


「お兄さん、今日は商店街に買い物に行かない?」

朝食の席で、レジェンが提案した。


「買い物?」

「お母さんが夕飯の材料を買ってきてって。一緒に行こうよ」

「分かった。午後に行こうか」

恵子さんが微笑みながら買い物リストを渡してくれた。


「すみません、匿坂さん。一緒だと安心です」

「いえいえ、俺も散歩がてら」


ーーー午後2時頃、匿坂とレジェンは商店街に向かった。いつものように穏やかな日常の一コマだった。

井上青果店で野菜を買い、加藤薬局で日用品を購入する。店主たちは匿坂を温かく迎えてくれた。


「探偵さん、太田くんの件、うまくいったみたいですね」

加藤さんが声をかけてきた。


「はい。素直でいい子でしたよ」

「図書館の恵比寿さんも喜んでました」

「いやぁ、やっぱりさすがだよアンタ!」

加藤さんが匿坂の肩を叩いて褒め称えてくる。

少し照れくさくなった匿坂だった。

その後は2人でのんびり商店街をふらついていた。


「今日の夕食はなんだろうな」

「カレーだって言ってたよ」

「よし、なら今夜はカレー大食い対決だな」

夕食の話をしていた時だった。

前方から大柄な男性が歩いてくる。スーツを着ているが、異様に筋骨隆々とした体格だった。身長は190cm近くあり、肩幅も広い。


「お兄さん、なんかすごい人が来るね」

「ああ、避けて通るぞ」

匿坂がレジェンに小声で言った。

その瞬間、大柄な男がレジェンに向かって歩いてきた。そして、わざとらしくレジェンの肩に激しくぶつかった。


「うわっ!」

レジェンがよろめいて、買い物袋を落としてしまう。


「おいガキ、前を見て歩け」

男が威圧的な声で言った。


「すみません!」

レジェンが慌てて謝る。

匿坂は即座に二人の間に入った。


「待て。明らかにあんたの方からぶつかっただろう」

「何だと?」

男が匿坂を見下ろした。匿坂は男を見上げる。

その瞬間、男の目に何かが光った。


「ほう…」

男は匿坂の顔をじっと見つめた。


「あんたが謝れ」

匿坂がきっぱりと言った。

男は興味深そうに匿坂を観察している。


「面白い。ならば俺に謝罪させてみろ!」

次の瞬間、男の拳が匿坂の腹部に突き刺さった。


「がはっ!」

匿坂は呼吸困難に陥り、その場に膝をついた。あまりの衝撃に意識が朦朧とする。


「お兄さん!」

レジェンが駆け寄ろうとした瞬間、男の手がレジェンの肩を掴んだ。


「ガキは動くな」

男の握力は異常で、レジェンは身動きが取れなくなった。


「俺の名は筋肉。聞き覚えはないか?」

「げほっ…知るかよ、こんな筋肉マン…!」

匿坂は立ち上がろうとしたが、男の蹴りが脇腹に入る。


「ぐうっ!」

記憶を失った匿坂には、戦闘技術も異能力もない。ただの一般人が、プロの格闘家に立ち向かっているようなものだった。


「やめて!お兄さんをいじめないで!」

レジェンが叫んだ。

男は匿坂を見下ろした。


「記憶を失ってるな。あの鋭さが全くない」

男は携帯電話を取り出し、どこかに連絡を入れた。


「こちら筋肉。ターゲットを確認しました」

「…記憶喪失状態です」

「…了解しました」

筋肉と名乗った男は電話を切ると、匿坂を見下ろした。


「上からの指令だ。記憶がないならそっとしておけ、とのことだ」

筋肉は匿坂に近づき、小声で言った。


「お前のような逸材が記憶を失ったまま腐るのは、実にもったいないが…仕方ない」

そして立ち上がると、レジェンを解放した。


「見逃してやる。だが、記憶が戻ったら話は別だ」

筋肉はそう言い残すと、人混みの中に消えていった。

匿坂は痛みに耐えながら立ち上がろうとした。レジェンが慌てて支える。


「お兄さん、大丈夫?!」

「ああ…なんとか」

匿坂は立ち上がったが、腹部と脇腹の痛みで顔を歪めた。周囲の人々が心配そうに集まってきた。


「探偵さん、大丈夫ですか?」

「救急車を呼びましょうか?」

「い、いえ。大丈夫です」

匿坂は痛みを堪えながら答えた。

商店街の人たちが心配そうに見守る中、匿坂とレジェンは大海原家に向かった。


ーーー大海原家に戻ると、レジェンは自分の部屋に籠ってしまった。匿坂は先ほどあったことを正弘に話すと、すぐに怪我を診察してくれた。


「肋骨に軽いひびが入ってるかもしれません。しばらく安静にしてください」

「すみません、また怪我しちゃって」

「いえいえ、災難でしたね」

その夜、匿坂はレジェンの部屋を訪れた。

ノックすると、小さな声で「どうぞ」と聞こえた。

部屋に入ると、レジェンがベッドに座って俯いていた。


「レジェン、どうした?」

「お兄さん…ごめん」

レジェンの目に涙が浮かんでいた。


「俺のせいで、お兄さんが怪我をした」

「何を言ってるんだ」

「俺があの時、もっとしっかりしてれば…」

匿坂はレジェンの隣に座った。


「レジェン、聞いてくれ」

「…」

「あの男は最初から俺たちに何かするつもりだった。お前のせいじゃない」

レジェンが顔を上げた。


「でも…」

「お前が無事でよかった」

匿坂はレジェンの頭に手を置いた。


「俺は大人だから、お前を守るのは当然のことだ。だから自分を責めるな」

レジェン目から大粒の涙がこぼれた。


「お兄さん…」

「泣きたい時は泣けばいい。でも、自分を責める必要はない」

レジェンは匿坂の胸で泣いた。匿坂は優しく背中をさすってやった。


「レジェン、心配してくれて嬉しいよ」

「俺、お兄さんに何かあったらと思うと…やっぱり離れたくない」

「レジェン、君は図書館で太田くんに何て言ったか覚えてるか?『本当に大切な人のことを思うなら、その人の幸せを願わなきゃいけない』って」

レジェンは涙を拭きながら考え込んだ。


「お兄さんの幸せを願う…」

「そうだ」

「…分かった。お兄さんのことを束縛するんじゃなくて、応援するんだよね」

「ああ、君はもう十分強い子になってる」

レジェンは安心したような、でも少し寂しそうな表情を見せた。


「…お兄さんありがとう」

「俺こそ、心配かけてすまなかった」

その夜、匿坂は自分の部屋で考え込んでいた。

あの筋肉と名乗った人物は、明らかに自分を知っていた。そして記憶を失ったことも把握している。

過去の自分と何かあったのだろうか。

窓の外を見ると、街の明かりが静かに灯っている。平和な夜景だった。


「…はぁ」

でも匿坂は感じていた。この平和な日常が、いつまで続くか分からないということを。終わりは近いのかもしれない。筋肉の言葉が頭に残っていた。


『記憶が戻ったら話は別だ』


記憶が戻ることで、何かが変わるのだろうか。

それは良いことなのか、悪いことなのか。

匿坂は分からなかった。ただ一つ確かなのは、何があろうとレジェンや大海原家の人々を守りたいということだった。

記憶があろうとなかろうと、それだけは変わらない。

匿坂は窓を閉めて、ベッドに横になった。

明日は穏やかな一日であってほしいと、願いながら。


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