1-2:異能力者(イラスト有り)
白井警部補
現場は阿鼻叫喚の状況だった。
「きゃあああ! アタシの純白の腕があああ!」
桜の木の下で、二十代前半の女性が叫んでいる。
右腕から血を流していたが、意外と元気そうだ。
周囲には野次馬が集まり、スマホで撮影する者までいる。
「下がってください。警察です」
白井が警察手帳を掲げながら人ごみをかき分ける。
匿坂はその後に続いて現場に近づいた。
被害者の傷を詳しく観察する。
確かに鋭利な刃物による切り傷だが、その特徴は異常だった。
傷口は極めて薄く、まるで紙を鋭利なカッターで切ったような完璧な断面を見せている。
幸い深さは浅く、威嚇程度に留められていた。
「これは…確かに不思議だな」
匿坂は眉を寄せた。
この傷は現実の刃物では作れない。
どんなに鋭利なナイフでも、これほど薄く完璧な切り口は不可能だ。
匿坂は直感した。
この世界には、常識を超えた力を持つ者たちがいる。
匿坂自身も、その一人だった。
「犯人を見ましたか?」
「い、いえ…見てません。ただ、風が…」
「風?」
「何か風を感じたんです。それで次の瞬間、腕が切れて」
匿坂は頷いた。
見えない攻撃。
風を感じる。
そして完璧な切断面。
遠距離からの攻撃だ。
「白井さん、他の被害者の証言はどんな感じだ」
匿坂は白井に尋ねる。
「はい、過去の被害者も同じことを言っています。何も見えなかった、風を感じた、と」
白井が資料を見せる。
匿坂は目を通した。
三件の被害。
すべて軽傷。
すべて同じ傷の特徴。
そして、すべて人混みの中での犯行。
「わざと目立つ場所で犯行を繰り返している…?」
匿坂は呟いた。
「白井さん、この周辺を調べよう。犯人はまだ近くにいるはずだ」
「分かりました」
匿坂は現場から離れ、周囲を見回し始めた。
遠距離攻撃ができる異能力者。
わざわざ人混みで犯行を繰り返している。
匿坂は公園全体を見渡した。
桜並木の道は花見客で賑わっていた。
ベンチに座る老夫婦。
穏やかな表情で桜を見上げている。
手には弁当箱。花見を楽しんでいるだけだ。
次に、若いカップル。
男性が女性の肩を抱き、写真を撮っている。
笑顔。リラックスしている。
学生のグループ。
五人ほどで輪になって座り、お菓子を食べながら談笑している。
全員が楽しそうだ。
犯人はこの中にいるのだろうか。
それとも、すでに遠くに逃げたのか?
匿坂は考えた。
過去三件の犯行は、すべて人混みの中。
わざと目立つ場所を選んでいる。
これは偶然ではない。
何か理由がある。
ふと、匿坂の目が東屋の方を向いた。
人混みから少し離れた場所。
そこに、一人の男性がベンチに座っていた。
四十代、身長百八十センチほどの痩せ型。
神経質そうな顔立ち。シワのついた作業着を羽織っていた。
匿坂は男を観察する。
男の視線は事件現場に向いている。
だがその表情には焦りがない。
むしろ、何かを待っているような雰囲気だ。
他の花見客は、事件を見て驚き、遠ざかっている。
だが男は、まるで『予想通り』といった表情で見ている。
しかも、男の座っている位置は東屋。
事件現場を見渡せる絶好の場所だ。
匿坂は男の手元を見た。
携帯を握りしめている。
まるで、誰かからの連絡を待っているようだ。
匿坂は男に近づいた。
「こんにちは、いい天気ですね」
男は薄笑いを浮かべた。
「…なにか用ですか?」
「あなたが犯人ですよね。切り裂き魔の」
男の表情が一瞬強張った。
「何のことですか?」
「どうみても花見に来るような雰囲気じゃない。弁当も飲み物も、何も持っていない」
「それだけで? 失礼な人だ。なくても花見は出来るでしょう」
「別にそれだけで疑ってない。少し観察してたんだが、あなたは事件現場をずっと見ていた。驚くことも恐怖もなく」
男は黙っていた。
「まあ適当に聞いててもらって構わない。…過去の被害者は全員、風を感じたと証言している。見えない攻撃。そして完璧な切断面」
匿坂の目が鋭くなる。
「これは異能力者の仕業だ。それも風や空気を操作できる高度なヤツだ」
男の表情が変わった。
「犯人はわざわざ、目立つ場所で犯行を繰り返している。まるで誰かに見つかりたいように。…なあアンタ、俺を待っていたんだろう?」
男はため息をついた。
「…その通りです」
男が立ち上がる。
「初めまして、高菜木健と申します。あなたの言うとおり、異能力者です」
高菜木の周囲の空気が変化した。
風切り音と共に、目に見えない何かが匿坂の頬をかすめた。
赤い線が一筋、頬を濡らした。
匿坂は次の攻撃に備えて、全身から黒い溶解液を分泌させた。
溶解液の膜が体を覆えば、敵の攻撃が膜に触れた瞬間に溶ける。
攻撃そのものが無力化されるため、匿坂はダメージを受けない。
「なるほど。空気の物質化か? 俺の推理はあってたようだな」
「ええ、全く本当に。よく分かりましたね? さすが探偵さんだ」
匿坂の目が鋭くなった。
この場で匿坂の職業を知っているのは、白井と綿花だけのはずだ。
高菜木が自分を探偵と認識しているということは——。
匿坂の脳内である事実が浮かび上がった。
「俺が探偵だと知ってたのか?」
高菜木が黙り込んだことで、匿坂の推理は確信に変わった。
「白井さん!」
匿坂が大声で呼ぶと、白井が駆けつけてきた。
「周辺の人を避難させてくれ。異能力者と交戦する」
白井の顔が青ざめた。
「分かりました!」
白井が拡声器を取り出し、周囲の人々に避難を呼びかけ始めた。
「異能力者による事件が起きました! 至急この場から離れてください!」
花見客たちが慌てて荷物をまとめ、避難していく。
数分後、東屋周辺から人影が消えた。
「ありがとう探偵さん。これで心置きなくやれる」
高菜木が手を振ると、見えない刃が四方八方から襲いかかる。
匿坂は咄嗟に両手を振った。
黒い液体が空中で広がり、目に見えない何かを溶かしていく。
ジュウジュウと音を立てて、物質化した空気の刃が溶けていった。
匿坂の異能力は溶解液操作。
異能の溶解液は、あらゆる物質を溶かすことができる。
たとえそれが、通常なら溶かせないはずの「固体化した空気」であっても。
「ほう、聞いてた通りの能力だ。なら、これはどうかな?」
高菜木が両手を上げると、上空から巨大な空気の塊が複数降ってきた。
半透明の塊が隕石のように落下する。
匿坂は桜の木に手を触れる。
溶解液で木を溶かして中を通り抜けた。
溶けた木の幹を盾にして、空気の塊を防ぐ。
「これも防ぐとは、厄介ですね」
その隙に匿坂は腕を振って、広範囲に溶解液を撒き散らす。
高菜木が、空中に等間隔で設置していた空気刃が、次々と溶けていく。
「空気砲!」
高菜木が両手で圧縮した空気を、衝撃波として放つ。
匿坂は地面に手をつき、足元を溶かして地中に潜った。
異能力者は、自分の異能に対して耐性を持つ。
それは「選択的適応」と呼ばれる特性として現れる。
匿坂でいうなら溶解液は、自分自身を溶かさない。
だが、他者を溶かすことはできる。
自分への害は無効化し、他者への害は有効化する。
この矛盾した性質こそが、異能力の真髄だった。
「消えただと!?」
匿坂は地中で、体全体を溶解液の膜で覆い、土や石を溶かしながら移動する。
数秒後、高菜木の真下から飛び出した。
「何っ!?」
高菜木が慌てて後退。
匿坂の溶解液が足元を溶かし、バランスを崩す。
「人工竜巻!」
高菜木が竜巻を発生させ、匿坂を巻き上げようとする。
だが匿坂は足裏から溶解液を分泌し、足と地面を固定した。
「びくともしない、クソ…!」
高菜木が指を動かすと竜巻が消える。
代わりに、刃状の空気が無数に現れた。
「刃状空気」
高菜木の手にも、刃の形をした空気がまとわれている。
だが攻撃はしてこない、牽制だ。
匿坂は違和感を感じる。
高菜木は本気で戦っていない。
やろうと思えばいつでも殺せるはずなのに。
高菜木から殺意を感じないことに匿坂は気づいた。
「強力な異能だ。だが一つ疑問がある」
「何です?」
「なぜ全員、軽傷なんだ」
高菜木の表情が変わる。
「今日の被害者も過去の被害者も、全員軽傷だ。
これだけの能力があれば殺害も容易なはず。なのになぜ」
匿坂の推理が始まった。
「目的が不明すぎる。まさか手加減しているのか?」
「あなたには関係ないでしょう!」
高菜木が感情的になった瞬間、匿坂が動いた。
「お前の弱点は分かった」
匿坂が腕を振り、溶解液を撒き散らす。
高菜木の空気刃が次々と溶けていく。
「これだけ膨大な空気を操作するんだ。
おそらく集中力が必要になるはずだ。
感情が乱れれば精度が落ちるんじゃないのか?」
匿坂は拳に溶解液を集中させ、足元の地面を表面だけ溶かして走り出した。
スケートのように氷の上を滑るように加速する。
高菜木の前に一瞬で迫る。
それを察知した高菜木は直前で自分の周囲を囲むように、空気の分厚い壁を生成した。
「そんなもの、俺の前じゃ意味をなさない」
匿坂は拳に溶解液を集中させる。
黒い液体が拳を覆い、まるで黒い炎のように揺らめいた。
「溶かす!」
拳が空気の壁に叩きつけられる。
ジュウッという音と共に、壁が溶けていく。
まるでバターにナイフを突き立てたように、壁に穴が開いた。
匿坂はその穴を突き破り、高菜木の前に躍り出た。
「…降参しろ、動くな」
溶解液で高菜木の両手首を拘束。
「手首を溶かされたくなければ能力を使うな」
高菜木は力を失い、膝をついた。
「お前は人を殺したくないんだ」
匿坂の言葉に高菜木の顔が歪む。
「だから攻撃が甘い」
「黙れぇ!」
匿坂は静かに言った。
「それに、俺を殺すチャンスはいくらでもあった。
だが、お前はそうしなかった」
高菜木の瞳に涙が浮かぶ。
「だから俺も、お前を傷つけるつもりはない。
なぜこんなことをする? 目的は何だ」
「お前には関係ない」
「アンタのような人間が、こんなことをするのは何か理由がある」
「誰かに命令されているのか? それとも脅されているのか」
「ち、違う!」
「嘘だな。アンタの能力なら誰にも見つからずに人を殺せる。
なのに軽傷に留めている、人格もマトモそうだ…
動機が見えてこない」
匿坂が目を見据える。
「誰かに指示されてるのか?」
高菜木は震えながら崩れ落ちた。
「うううぅぅぅぅ…!
俺は! 俺だってやめたい。
でも、ダメなんだ」
「全部話してくれ」
「娘が…」
高菜木は嗚咽交じりに言った。
「娘が人質に取られてるんだ。
言う通りにしないと殺すって」
匿坂は静かに頷いた。
「話してくれ、相手は誰だ」
「分からない。電話でしか話したことがなくて。
ここから指示が来るんだ」
高菜木は震える手で携帯を差し出した。
「綿花」
振り返ると、綿花と白井が駆けつけてきていた。
「この非通知を調べろ。急ぎだ」
「分かりました」
綿花が携帯を受け取る。
匿坂は高菜木を見た。
「高菜木健さん。娘さんは必ず助ける」
「本当か…?」
「俺はこういう卑劣な事件が嫌いだ。
安心してくれ、約束は必ず守る」
匿坂は立ち上がり、白井を振り返った。
「通り魔事件は終わりだ。
これからは誘拐事件として捜査を進めろ」
白井は一瞬呆然としたが、すぐに頷いた。
「わ、分かりました」
桜の花びらが舞う。
匿坂はその空を見上げた。
事件はより複雑な様相を呈してきた。
だが、それこそが匿坂冬十郎の本領発揮の時だった。
春の風が、新たな戦いの始まりを告げていた。




