4:雨と事件のはじまり
「先輩、じっとしていてください」
警視庁の医務室で、綿花は匿坂の傷の手当てをしていた。匿坂の肩に刺さった鉄針は既に除去されており、太ももの傷も消毒が済んでいる。
「大したことない」
匿坂は痛みを我慢しながら言ったが、顔は青白い。石灰の粉末で目も真っ赤に充血していた。
「大したことないって、血がこんなに出てるじゃないですか」
綿花は呆れたような声で包帯を巻いていく。
「それに、このお服…もう着られませんね」
匿坂のシャツは鉄針で裂け、血と石灰の粉末で汚れていた。元々シミだらけだったシャツが、さらに悲惨な状態になっている。
「他に着るやつもないし、これでいい」
「だめですよ」
綿花は包帯を巻き終えると、匿坂を見つめた。
「先輩、いい加減にちゃんとした生活をしてください。服も持たず、家もなく、そんなんじゃ…」
「心配かけてすまん」
匿坂は素直に謝った。今回は綿花に救われたと言っても過言ではない。彼女が来なければどうなっていたか分からない戦いだった。
「とりあえず、お疲れ様でした」
綿花は小さく微笑んだ。
「高菜木さん親子も無事に再会できて、本当に良かったです」
その時、医務室のドアが開いた。高菜木がさくらの手を引いて入ってくる。
「匿坂さん」
高菜木は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「礼を言うのはこちらの方だ」
匿坂は立ち上がろうとして、傷の痛みでよろめいた。
「あ、座っていてください」
さくらが心配そうに見上げる。
「痛いの?」
「大丈夫だよ」
匿坂は優しく微笑んだ。
「さくらちゃんこそ、怖い思いをさせてしまって」
「でも、お兄さんが優しかったから大丈夫でした」
さくらの言葉に、高菜木の表情が複雑になった。白井のことを指しているのだろう。
「そうか。ならいいんだ」
匿坂は静かに答えた。
高菜木親子が帰った後、綿花は匿坂の前に立った。
「先輩、お買い物に行きましょう」
「買い物?」
「お洋服です。さすがにそのお服では外を歩けません」
確かに、血まみれで穴だらけのシャツは見た目が悪すぎる。
「でも金が…」
「報酬をもらったじゃないですか。ちゃんとした服を買ってください」
綿花は有無を言わせぬ口調だった。
「分かった」
匿坂は観念した。
深夜営業の衣料品店で、綿花は次々と服を選んでいた。
「これはどうですか?」
綿花が差し出したのは、紺色の清潔なシャツだった。
「普通すぎないか」
「普通で十分です。先輩の場合、普通であることが奇跡なんですから」
手厳しい評価だった。
「あ、これも」
綿花は靴下も選び始めた。左右同じ色の、まともな靴下だ。
「それと、せめて下着も新しい物を」
「下着まで…」
匿坂は恥ずかしそうに呟いた。
「当然です。いつ洗濯したか分からないような下着は、衛生的によくありません」
綿花は容赦なかった。
結局、シャツ3枚、ズボン2本、下着類、靴下を購入することになった。匿坂の財布には白井から受け取った報酬が入っていたが、これでかなり減ってしまう。
「あと、これも」
綿花が最後に選んだのは、小さなポーチだった。
「何だそれは」
「救急セットです。先輩はよく怪我をするんですから、最低限の応急処置用品は持っていてください」
ポーチの中には絆創膏、消毒液、包帯などが入っている。
「至れり尽くせりだな」
「これでも最低限です」
会計を済ませて店を出ると、匿坂は新しいシャツに着替えた。血まみれの古いシャツとは大違いだ。
「どうですか?」
「悪くない」
匿坂は自分の姿を店のガラスに映して確認した。確かに見た目がかなり改善されている。
「これなら人前に出ても恥ずかしくありませんね」
綿花は満足そうだった。
「ありがとう、綿花」
「どういたしまして。でも」
綿花は真剣な表情になった。
「本当に、いつまでこんな生活を続けるんですか?」
匿坂は答えに窮した。確かに、拠点を持たない生活には限界がある。
「まあ、そのうち考えるさ」
「そのうちって…」
綿花はため息をついた。
「せめて、もう少しちゃんとした生活を心がけてください」
「努力する」
匿坂は曖昧に答えた。
二人は夜の街を歩いていく。匿坂の足取りは、新しい服のおかげか、少し軽やかに見えた。
「あ」
歩いているうちに、匿坂のポケットから小銭がこぼれ落ちた。
「またですか…」
綿花は呆れながら小銭を拾い集める。
「すまん」
「財布にちゃんと入れてください」
結局、根本的な問題は何も解決していなかった。
それでも綿花は微笑んでいた。こんな匿坂だからこそ、放っておけないのだ。
ーーーーーー
「やっちまった」
白井事件から3日後、匿坂冬十郎は新宿のコンビニ前で呆然と立ち尽くしていた。昨日綿花に買ってもらったばかりの新しいシャツに、大きなケチャップのシミが付いている。
ホットドッグを食べようとした時、ケチャップが飛び出してシャツを直撃したのだ。せっかくの清潔なシャツが、早くも汚れてしまった。
「綿花に怒られる」
匿坂は憂鬱な気分でシミを眺めた。まだ3日しか経っていないのに、この有様だ。我ながら情けない。
空を見上げると、雲行きが怪しくなってきている。天気予報では午後から雨だと言っていた。
「つくづく、ついてないな」
匿坂は急いでホットドッグを食べ終えると、近くのネットカフェに避難することにした。雨に濡れたら、シャツがさらに悲惨なことになる。
「いらっしゃいませ」
ネットカフェの受付で、匿坂は利用券を購入した。3時間パックで1200円。財布の中身を確認すると、報酬の残りがまだある。当分は大丈夫だろう。
ブースに向かう途中、匿坂のスマホが鳴った。
「匿坂だ」
「先輩、お疲れ様です。今どちらに?」
綿花の声だった。
「新宿のネカフェだ。雨が降りそうなので避難した」
「そうですね。私も外出中なんですが、急に雨が降り出しそうで」
「どこにいる?」
「新宿です。先輩と同じあたりかもしれません」
その時、外から雨音が聞こえ始めた。ポツポツという軽い音から、急激に激しくなっていく。
「本降りになったな」
「わあ、急に降ってきました。どこか雨宿りできる場所を…」
電話の向こうで、綿花が困っている様子が伝わってくる。
「今どのあたりだ?」
「えーっと、コンビニの前に…」
「多分俺がいるネカフェの近くだ。こっちに来い」
「でも…」
「遠慮するな。ずぶ濡れになる前に早くな」
匿坂は電話を切ると、受付に戻った。
「すみません、連れが来るんですが」
「お二人でご利用ですか? カップルシートもございますが」
「いや、そういうんじゃ…」
匿坂は慌てて否定したが、受付の女性は意味深な笑みを浮かべていた。
10分後、綿花がネットカフェに駆け込んできた。髪や服が雨で濡れている。
「先輩、ありがとうございます」
「びしょびしょじゃないか、間に合わなかったか」
匿坂は綿花の様子を見た。薄いブラウスが雨で濡れて、肌に張り付いている。透けて見える部分もあり、匿坂は慌てて目を瞑った。
「タオルを借りてくる」
「お気遣いなく。でも少し寒いです」
綿花は小さく震えていた。5月とはいえ、雨で体温が下がったのだろう。
「とりあえずブースに入ろう」
匿坂は自分のブースに綿花を案内した。狭い個室に二人で入ると、急に距離が縮まった感覚になる。
「すみません狭いですよね」
「気にするな」
匿坂は椅子を綿花に譲り、自分は床に座り込んだ。しかし狭いブースでは、綿花の足が匿坂の肩に触れそうになる。
「先輩、そんなところに座らなくても…」
「こっちの方が楽だ」
嘘だった。実際は綿花との距離が近すぎて、落ち着かない。濡れた髪から香るシャンプーの匂いが、妙に気になる。
「あ、先輩のシャツ」
綿花がケチャップのシミに気づいた。
「やっぱり汚してしまったんですね」
「すまん」
「もう、せっかく買ったばかりなのに」
綿花は呆れたような、困ったような表情を見せた。怒っているわけではなさそうだ。
「これ以上は、できるだけ汚さないように気をつける」
「その言いかた保険かけてますね、また汚すつもりですか?」
「そういうつもりじゃ…」
匿坂は言い訳に困った。確かに、また汚してしまう可能性は高い。
その時、綿花が小さくくしゃみをした。
「冷えるか?」
「大丈夫です。でも、もう少し暖まりたいかも」
綿花は自分の腕を抱いて身体を温めようとした。その動作で、濡れたブラウスの線が一層くっきりと見えてしまう。
匿坂は再び目を瞑った。
「何かあったかい物でも買ってくるか?」
「いえ、気にしないでください。雨が止んだらすぐ出ていきます」
外はまだ激しく雨が降っている。しばらくは止みそうにない。
「雨、長引きそうだな」
「雨雲レーダ確認してみますね」
「気にするな。何時間でも休んでいけばいい」
「あ…はい」
狭いブースに二人きり。外は雨。微妙な空気が流れ始めた時、突然綿花のスマホが鳴った。
「私だ、すみません出ますね」
「ああ」
「…はい、綿花です。事件?分かりました、すぐに…」
綿花は電話を切ると、匿坂を見た。
「先輩、新しい事件です」
「どこだ?」
「渋谷です。また異能力者による犯罪の疑いがあるそうです」
匿坂の表情が一変した。さっきまでの微妙な空気は一瞬で消え、探偵としての鋭い眼光が戻る。
「詳細は?」
「商業ビルで不審な現象が発生しています。エレベーターが勝手に動いたり、電気が点いたり消えたり」
「機械の誤作動じゃないのか?」
「それが、目撃者によると『あきらかに機械が操作されている』そうです。誤動作の域を超えてるそうで」
匿坂は立ち上がった。
「行くぞ」
「でも雨が…」
「事件に天気は関係ない」
匿坂は濡れたシャツなど構わずに外に出ようとした。
「先輩、傘を借りましょう」
綿花も慌てて立ち上がる。その時、狭いブースから出ようとした二人がぶつかった。
匿坂の胸に綿花の身体が押し付けられる形になり、濡れた髪の匂いが鼻先をかすめる。一瞬、時が止まったような感覚になった。
「す、すみません」
綿花が顔を赤くして離れる。
「悪い」
匿坂も慌てて距離を取った。
「とりあえず行くぞ」
「は、はい」
二人は少しだけ気まずい空気のまま、ネットカフェを後にした。
外では相変わらず雨が降り続いている。匿坂の頭は既に新しい事件のことで一杯だった。
異能力者による新たな犯罪。それがどんな能力で、どんな目的なのか。
探偵・匿坂冬十郎の次なる戦いが始まろうとしていた。