1-3:見えない鎖
「あれ、財布がない」
翌日の昼過ぎ、匿坂冬十郎は渋谷のネットカフェのレジ前で途方に暮れていた。利用料金を支払おうとしてバッグを漁ったが、財布が見当たらない。
「あー、すみません。ちょっと財布探させてください」
受付の女性スタッフは呆れた表情を浮かべた。恐らく彼女にとって、こういう客は珍しくないのだろう。
匿坂は慌ててブースに戻ると、必死に荷物を探し始めた。昨夜から今朝にかけて、新宿のネカフェから渋谷のネカフェへと移動していた。部屋に着いてからどこかに落としたのかもしれない。
「あった」
財布はブースの床に落ちていた。きっと寝ている間にバッグから滑り落ちたのだろう。中身を確認すると、昨日白井から受け取った前金がまだ残っている。
「よし、これで当分は大丈夫」
匿坂は安堵した。拠点を持たない生活では、現金がなくなることは死活問題だった。
会計を済ませて外に出ると、4月の陽気な春風が頬を撫でた。昨日の事件以来、匿坂の頭は高菜木健とその娘のことで一杯だった。
綿花からの連絡を待ちながら、匿坂はコンビニに立ち寄った。朝食を買うつもりだったが、時計を見るともう午後2時を回っている。朝食というより昼食だ。
「唐揚げ弁当と…」
棚を眺めていると、隣にいた小学生くらいの女の子が母親に向かって言った。
「ママ、お弁当買って」
「どれが食べたいの?」
微笑ましい親子のやり取りを見ていると、匿坂の胸に重いものがのしかかった。高菜木の娘は今、どこで何をしているのだろうか。もし幼いのなら父親を恋しがっているに違いない。
「あの」
匿坂は思わず母親に声をかけていた。
「お子さん、大切になさってください」
母親は困惑した表情を見せた。見知らぬ男に突然そんなことを言われて、驚くのも当然だ。
「あ、いえ、失礼しました」
匿坂は慌てて逃げるように弁当を掴んでレジに向かった。店員も客も、皆匿坂を奇異の目で見ている。我ながら情けない。
レジで会計をしようとして、また問題が発生した。
「あれ、小銭がない」
一万円札しか持っていなかった。コンビニで一万円札を出すのは申し訳ない気がする。
「すみません、一万円しかなくて」
「大丈夫ですよ」
店員は慣れた様子でお札と釣り銭を準備してくれた。だが受け取った釣り銭の小銭が多すぎて、財布に入りきらない。結局ポケットに突っ込むことになった。
コンビニを出た匿坂は、近くの公園のベンチに座って弁当を開いた。唐揚げを箸で掴もうとすると、ポロリと地面に落ちてしまう。
「あー」
仕方なく残りの唐揚げを食べていると、スマホが鳴った。
「匿坂だ」
「先輩、調査結果が出ました」
綿花の声だった。
「どうだった」
「電話番号は使い捨ての携帯からでした。既に解約済みで、足取りを掴むのは困難です。ただ」
「ただ?」
「高菜木さんから詳しい話を聞きました。娘さんの名前は高菜木さくら、8歳です」
匿坂は箸を止めた。8歳。まだ幼い子供だ。
「3日前、学校からの帰り道で行方不明になりました。その日の夜に犯人から連絡があり、通り魔事件を起こすよう命令されたそうです。声は加工されてたそうです」
「…それで、脅迫の内容は」
「『娘を返してほしければ言う通りにしろ。警察に相談すれば即殺す』とのことです。犯行は全て電話で指示され、場所と時間を指定されていました」
匿坂は顔をしかめた。計画的な犯行だ。しかも高菜木の異能力を事前に知っていた可能性が高い。
「高菜木さんはどこに?」
「警視庁で保護しています。でも娘さんのことを考えると、気が気でない様子です」
当然だろう、と匿坂は思った。愛する娘が誘拐され、しかも自分は犯罪者として扱われる。高菜木の心境は察するに余りある。
「分かった。俺も警視庁に向かう」
「お待ちしています。あ、それと先輩」
「何だ」
「お昼は食べましたか? 体調管理も大切ですよ」
匿坂は手に持った弁当を見下ろした。
「今食べてる」
「良かったです。では後ほど」
通話を切ると、匿坂は残りの弁当を急いで食べ始めた。だが焦って食べたせいで、おかずの半分をシャツにこぼしてしまった。
「やっちまった」
シャツに醤油のシミが広がっている。しかもよく見ると、昨日からのシミも複数付着していた。
「まあいいか」
匿坂は諦めてシャツをそのままにした。どうせ着替えもないし、今はそれどころではない。
高菜木さくらという8歳の少女を救うことの方が、遥かに重要だった。
立ち上がろうとして、またもやポケットから小銭をばら撒いてしまう。慌てて拾い集めたが、1円玉を数枚見失った。
「情けない」
それでも匿坂は歩き出した。警視庁に向かう足取りは、普段の頼りない彼とは違って、確固たる意志に満ちていた。
事件の時だけは、匿坂冬十郎は本当の自分になれる。
警視庁の取調室は殺風景だった。
高菜木健は机に向かい、うなだれるように座っている。昨日の事件以来、彼は一睡もしていないようだった。目の下にはくっきりとクマができている。
「高菜木さん」
匿坂が声をかけると、高菜木は顔を上げた。その瞳には絶望の色が浮かんでいる。
「匿坂さん…」
「娘さんのことで、詳しく聞かせてもらいたい」
匿坂は高菜木の向かい側に座った。綿花と白井も同席している。
「さくらは、とても優しい子なんです」
高菜木の声は震えていた。
「母親を3年前に病気で亡くして、それ以来二人で暮らしてきました。俺が仕事で遅くなっても、文句ひとつ言わずに待っていてくれて」
「仕事は?」
「建設関係です。異能力は…誰にも話したことはありませんでした。なのになぜ」
高菜木の拳が震えていた。
「犯人はあなたの能力を知っていた。ということは」
匿坂は慎重に言葉を選んだ。
「あなたを観察していた期間があるはずです。心当たりは?」
「…さくらが誘拐される前、変な電話がありました」
高菜木は顔を上げた。
「無言電話が何度か。それと」
「それと?」
「さくらが『知らない人に話しかけられた』と言っていました。学校の帰り道で、優しそうなおじさんが道を聞いてきたって」
匿坂と綿花は顔を見合わせた。これは明らかに下見だ。
「その人の特徴は?」
「背が高くて、眼鏡をかけていたと。あとは…」
高菜木は必死に思い出そうとしている。
「さくらが言うには、とても上品な話し方をする人だったそうです」
上品な話し方。匿坂はその情報を頭に刻み込んだ。
「他に何か、普段と違うことは?」
「…思い出しました」
高菜木の顔に血の気が戻った。
「2週間前、さくらの学校で不審者騒ぎがあったんです。校庭から校内を望遠鏡で覗いている男がいたって」
「通報は?」
「されたそうですが、警察が来た時にはもういませんでした」
匿坂は立ち上がった。
「綿花、その不審者騒ぎの詳細を調べろ。目撃者の証言も含めてだ」
「分かりました」
「高菜木さん」
匿坂は高菜木を見つめた。
「必ずさくらさんを取り戻します。それまで待っていてください」
高菜木の目に、わずかに希望の光が宿った。
「本当に…助けてくれるのですか?あなたを襲ったのに」
「あれは仕方のなかったことです。俺が引き受けた以上、必ず約束は守ります」
匿坂の声には迷いがなかった。この瞬間の彼は、公園のベンチで弁当をこぼしていた情けない男ではない。
一人の少女を救うために戦う、真の探偵だった。
部屋を出ようとした時、匿坂は振り返った。
「一つ聞きたいことがあるんですが」
高菜木が顔を上げる。
「昨日、俺のことを『探偵さん』と呼びましたよね。なぜ知ってたんですか?」
高菜木は困惑した表情を見せた。
「それは…電話で教えられたんです」
「電話で?」
「犯行の指示の時に、『匿坂冬十郎という探偵が来る。そいつはお前の敵だ』と言われました」
匿坂の目が鋭くなった。
「その時、犯人は俺の特徴を教えたか」
「はい。『30歳くらいの男で、だらしない格好をしている』と」
綿花が息を呑んだ。
「あの事件は偶然じゃない。俺が上野公園にいるタイミングを狙って起こされた。そうだろう」
匿坂の推理が始まった。
「犯人は最初から俺を現場に呼び寄せるつもりだった。警察からの依頼という形でな」
高菜木の顔が青ざめた。
「指示された場所は…確かに上野公園でした。でも、まさか」
「犯人は俺の存在を知っている。そして何らかの理由で俺を事件に巻き込みたがっている」
匿坂は冷静に分析していく。
「つまり、さくらさんの誘拐も、通り魔事件も、全ては俺をおびき出すための罠だった可能性が高い」
高菜木の手が震えた。
「じゃあ、さくらは…」
「餌として使われているということだ」
匿坂の表情が険しくなった。
「安心してください。それが分かった以上、相手の思惑も読める。必ずさくらさんを救い出す」
しかしその時、匿坂のポケットから小銭がチャリチャリと床に落ちた。
「あ、すみません」
慌てて拾い集める匿坂を見て、高菜木は一瞬困惑した表情を見せた。
本当にこの人で大丈夫なのだろうか、と。
だが綿花は微笑んでいた。彼女は知っている。この頼りない男が、いざという時にどれほど頼もしい存在になるかを。